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第8話

 その夜、ぼくは発熱した。  タカハシの旦那のお優しいセックスを見たせいで知恵熱みたいのを発症したのか、工藤のバズーカ砲がウイルス感染でもしていたのか、まあおそらくは、毎日のように自分の腸内バイ菌を口に戻し入れているのが、祟ったのじゃないかと思う。  夕食も買いに行く元気がなくて、測ってみると三十八度以上ある。水を飲んで横になると、うつらうつらとソファで眠りこけてしまった。 「おい。起きろ」  体を揺らされて目が覚めた。重い瞼を開けると、悟さんだ。 「…あ――」  掴まれている腕が痛い。悟さんはとにかくなにをするにも乱暴だ。 「起きろ。時間が過ぎているだろう」 「……?」  首をねじって壁時計を見ると、十一時十分。ほんとだ。十分過ぎてる。  ぼくは奴隷だから、十一時にはご主人様の、つまり悟さんの部屋に犯されに赴かなくてはならないのに、今夜は寝過ごしてしまったのだ。 「ごめんなさい。今、熱があって――」 「…熱?」  悟さんの顔が恐ろしく不機嫌に歪む。つかのまぼくを睨んでから鋭く命じる。 「どうでもいい。早く来い」  鬼か。 「でも。――なにかの病気だったら…、あの、うつるかもしれないし…」 「ふざけるんじゃねえ。早く来い」  腕を引っ張られる。頭がぼんやりする。前頭部に鈍い痛みが刺しこむ。  引き起こされるままに立ちあがれば足がふらついた。今日はだいぶ心理的な打撃が多かったからな、それで熱でも出ちゃったのかしらん。 「あの。シャワーを浴びたいんですけど。汗かいて、汚れているから」  そうは言うものの、目的は体を洗うためじゃない。  ぼくは毎日犯される十一時に合わせて、トイレとシャワーを済ます。それは直腸洗浄のためと、そのあとで肛門にすべりの良くなる油を塗っておくためなのだ。  油を塗らないと挿入時にえらい痛い目に遭う。それはもう、ピストンのたびに内側の皮膚が削がれるような感じで、いくら毎日ヤられてガバガバのお尻でもものすごく痛い。だから油を塗ってから、悟さんの部屋に入ることにしているのだ。少しだけ、マシだから。そこで運良く悟さんが疲れて寝ていればラッキー。その日はセックスはなしだ。でもそんなのはごく稀で、ほとんどはそのまま犯されることになる。 「遅くなる」  引きずられるようにして部屋に連れて行かれた。…ああ。いやだな。このままだとものすごく痛いんだよ。乾ききったところに入れられるんだもの。それに脱腸でも起こさないか心配だ。  まるで刑場に曳かれてゆく死刑囚のような気分で悟さんの部屋に入った。ここで抵抗しようものなら半殺しにあうくらいにひっぱたかれるから、ぼくはおとなしく諦めて服を脱ぐ。悟さんは偉丈夫だしむかしボクシングを趣味にしていたくらいだから、ぼくなんて一叩きで壁まで吹っ飛ばされてしまう。  ベッドに上がって四つ這いになった。ぼくを殺そうとする剣のひとふりが差し込まれるのを待つ。  悟さんがぼくの後ろに来た。どうか入るときに少しでも痛くありませんように…と願い終わる前に、バシンと背中が鳴った。 「痛いっ」  ジンジンと膨れあがるベルトによる痛みに耐えるまもなく、千切れそうなほど強く左右に尻の肉を開かれて、ペニスが挿入される。 「あっ、あっ、あっ、」  痛いよ、痛い…! 息ができないくらいだ。  そしてすぐにロングストロークのピストンが始まる。手加減なくがつんがつんと腹にあたって響く。だって実際、痩せた腹の皮が前に突き出るんだもの。痛い、苦しい、苦しい、痛い、ああ――――。  こんなに痛くて苦しいのに死ねないなんて、神様も世界を作るときに手抜きをしたものだ。 「うっ、ううっ、ううっ、」  こんなときぼくの脳裏には、カナヘビに喰われるコオロギの様子が甦る。  小学生のときに半年ばかり飼っていたカナヘビに、ぼくは毎日二匹ずつ、生餌のコオロギを遣っていた。ケージにコオロギが入ってくるやいなや、カナヘビは匂いを嗅ぎ付け、視力を駆使して襲いかかり、情け容赦なくがぶりと頭から喰らいつく。コオロギは身を震わせながら、少しずつ己の体が食われてゆくのを待つ。ときには、邪魔になった足を途中でもぎ取られることもあった。この世は弱肉強食の世界。弱いものは強いものに喰われる。それは人間も同じ。弱いぼくが、存在価値の薄いぼくから、強者に喰われてゆく。  バシリと皮膚が鳴る。 「ああっ!」  あ…、あ…、あ…。背中が熱く痺れる。皮膚がひりひりと腫れあがる。 (工藤…、工藤…、)  ああ、でも、あいつの名前ではぼくはもうちょっとも楽になれない。  なぜなら今日、けして彼には愛されないと分かってしまったから。  もちろん恋人とか友人としてなんて、もとから期待していなかった。ただ、不良としてさえも、ぼくは価値を失った。  あいつが気にかけ、手に入れたいと望んだものは、仮初のぼく。泡沫のぼく。もうぼくが絶対になることのできない、あいつの頭の中でだけ膨らんでしまった紛い物のぼく――――。  あんなに好きだったのに。あんなに素敵な笑顔だったのに。でも、ぼくの見ていたものだって、あいつの一部でしかなかった。ぼくもまた、あいつの上に自分の理想を重ねて都合よく見ていただけだった。それを今日、ようやく知ることができた。  革の空気を切る音。打ち鳴らされる皮膚。  がたがたと全身が震えてくる。そうだ、熱があるのだった。それを自分でも忘れてしまうくらいに、ぼくは、この世から取り残されている。 「お願い。やめて、痛いよ、悟さん…」 「うるせえっ。黙ってろ! ぶん殴るぞ!」  堕ちる。堕ちてしまう。お願い、誰でもいい。助けて――――!  意識が遠のき、頭が朦朧としかけた。 (大丈夫か?)  不意に、誰かの声がした。 (大丈夫か?)  優しい声。愛情に満ちた、深い――――。  これ。  タカハシだ。  タカハシの旦那の声だ。  男らしくて、なのにしっとりと体の髄まで染み入り、心の底まで包み込んでくる声。  あの二人のセックスをきれぎれに思い浮かべる。きれぎれにしか思い出せないのは、いま自分がやられていることとあまりに乖離しているからだ。  いいな。あいつは。  あの人に愛されて。  あんなに優しくされて。  あんなに大事にされて。  そう思うと涙が溢れてくる。 (大丈夫か?)  タカハシの声がする。ぼくはいつのまにか、首を激しく振っていた。  ぜんぜん、大丈夫じゃない。  つらいよ。つらい。  本当に。  どこまでもつらい。  そして助けは来ない。  どこからも。  いつまでも。  ベッドのデジタル時計で確かめる。まだ十分しか経っていないのか。  これが二時間続く。  ――いい加減、死にてぇよ。  このまま、くたばらないかな。  だって。  もう生きてく糧をなくしちまったんだもの。ぼくは。

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