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第9話

 翌日には熱が引いたけれど、工藤と顔を合わせたくなくて学校を休んだ。  もっとも、ぼくにとって家にいるのもそれなりに面白くない。なぜなら悟さんは平日の昼間に家政婦なんぞを雇っていて、その家政婦のおばさんがまたなかなかに好奇心旺盛な人らしく、ほとんど口を利かないくせに、ぼくが部屋にいるとじろじろと物珍しそうに見てくるのだ。  まるでセックスの匂いがぷんぷんしている悟さんの部屋でぼくらが夜中になにをしているのか分かっているみたいに、いやらしい目つきでぼくを見てくる。実際、使ったシーツには毎日のように血だのザーメンだのがこびりついているし、興味深々に眺められた日にはたまったもんじゃない。  それにしてもなんだって悟さんは甥なんかを相手にSM三昧の日々を送るのだろう。  三十代後半の悟さんは背が高くて体つきだって逞しく、顔も俳優ばりだし、職業だって国立研究所の研究員という、いわゆる3高以上のものを持っている。言い寄る女は後を絶たないはずだった。  悟さんは、ぼくのお父さんとは腹違いで、唯一の弟だ。おじいちゃんの後家さんの産んだ子だった。兄であるお父さんとは十以上も年齢が離れている。  お父さんが死んだあと、悟さんはお父さんが受け継いだ代々続いていた病院を売っぱらって大金を手にした。個人経営だけれど複数の診療科を抱えた、わりと大きな病院だった。その金でこのマンションを買うやら、家政婦を雇うやら、ベンツのロードスターを乗り回すやら、豪勢な暮らしを始めたのだ。  本来はその金のいくぶんかはぼくのものなはずなんだけど、むろんこんな暮らしゆえ、ぼくの金も悟さんのものになってしまっている。一応ぼくの保護者であり、後見人でもあるのからしかたがない。  それにしても、こうもやすやすと熱が引くとは思っていなかった。  いっそとんでもない病気を引き起こしてそのまま死んじゃえたらいいのにとまで思いつめていたのに、体の方は悟さんに犯されながらも呆気なく元気を取り戻しちゃうんだから気が抜ける。よっぽどぼくは頑丈にできているに違いない。やっぱりあの熱はタカハシの旦那の珍しいおセックスを見たための知恵熱だったのかもしれない。  週末にようやく学校に行く気になって、朝、合唱コンの朝練が終わったであろう時刻を見計らって教室に入ると、なぜだかしんと静まり返っている。  人がいないかと思えば、そうじゃない。ほぼほぼ全員いるのではないかという状況で、なのにぼくが入るなり誰もが動きを止め、おしゃべりをやめてぼくを注視したのだった。  これはさすがに今日も朝練に出なかったぼくへのあてつけだろうかと思いつつ、へん、オレ様は不良なんだから当たり前だろ、そんな簡単にお前らの言いなりになるかよ、みたいな尊大な態度で机に向かった。  だけれど。  ぼくの机の上にA4のコピー用紙が一枚乗っかっていて、なんだろうとそれを認めた瞬間、ぼくは凍りついた。  それは新聞記事の縮小コピーだった。 『横浜市の医師殺害、妻を逮捕』  でかでかとした見出しが目に飛び込む。 (…あ――――?)  手から鞄が滑り落ちた。全身の力が踵から抜けてゆく。  震えがくる身を支えるようにして、ぼくはその記事の上に指を添えた。 「あんたたち、卑怯じゃないっ」  一人だけ教室の隅で喚いている女がいる。あの女。工藤の彼女だ。 「こんなの、ひどいっ、宮代くんが可哀想じゃないの!」  それから、コツッコツッと前方で大きな音がしたから視線を向けた。その先を見て、ぼくはまた、目を見開く。 『夫殺し、懲役15年、短か!!!』  黒板に、めいっぱいに書かれた文字。  心臓が暴れ出す。足から、腕から、四肢と五臓六腑ががたがたと振動し、息ができなかった。信じられない。信じたくなかった。 (あ…、あああ…、)  ずきりとこめかみが痛んだ。胸が張り裂けそうになりながら再度、新聞記事に目を走らせた。 「気にするなよ、宮代!」  前方のドアで聞き慣れた声がして、顔をあげた。  工藤が立ちふさがれるように数人に取り囲まれながら、羽交い絞めに遭うようにしてぼくを見つめている。その周りの生徒は薄ら笑いを浮かべて、ぼくの出方を覗っているようだった。 「こんなの気にするな! 宮代!」  その憐れみに満ちた声が、そしてまたまるで自分自身が傷めつけられてでもいるように哀しんでいるその瞳が、悪夢のようなこの現実に呆然としていたぼくの意識を引き戻した。  息がうまいことできない。  体が目に見て分かるほど震えている。  とうとう知られてしまった。クラスのみんなにバレたのだ。ぼくの母が父を殺したことを。  すぐにもっと広まるだろう。前の学校と同じように、全学年、全校へと。そしてまたぼくは失うのだ。なにもかもを。  ぼくはもう、そのショックに気も狂わんばかりに泣き出してしまいたい衝動に駆られていた。  けれどこの場にはいられない。いたくない。ここはあまりにもぼくとかけ離れた場所。人殺しの子供がいてはならない桃源郷。罪人の子供を追放する楽園。  もしくは、謝れば許されるのか。謝れば忘れてくれるだろうか?  ええ。隠していてごめんなさい。そうです、ぼくは人殺しの子です、どうぞ思う存分、(なじ)ってください。虫けらのように踏み潰してかまいません。わたしは、楽園に来たヘビ、黙って嘘をつく者、大罪人の子ですから――――。 『皆さんが御家(おうち)へ御帰りに成りましたら、何卒(どうか)父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんに私のことを話して下さい――今まで隠蔽(かく)していたのは全く済まなかった、と言って、皆さんの前に手を突いて、そうして告白(うちあ)けたことを話して下さい――全く、私は穢多(えた)です、調里です、不浄な人間です』  …そう。島崎藤村の描いた『破戒』のように。  すべての視線が槍のように刺さるのを感じて、手を乗せていた紙をひっ掴んだぼくは駆けだし、その場から逃げた。三階から駆けおりて、昇降口から外へ出た。  梅雨の雨がしとしとと降り始めていた。片手に忌まわしい一枚を握り締めながら、上履きのまま夢中で走る。  ――ちくしょう。  雨だったら、どこへ行けばいいんだろう。どこでなら、この悲しみに暮れていられるんだ。どこでなら、思いきり泣き散らすことができる?  足は勝手にトーマスヒルへと向かっていた。敷地の北側にある急な斜面に作られた芝生の空き地で、隅に掘っ立て小屋みたいな東屋がある。まったく。初めて見たときには何物かと驚いた。なんだってこの学校にはこんなに無駄な空間や建造物が多いのだろうと…。  でもいまは、いまのぼくには、あそこ、あの場所が必要だ。あそこのベンチに腰掛けて、思いきり泣きたい。  そろそろ一時間目の始まる時刻だからだろう、東屋には誰もいなかった。  呼吸がうるさく耳に響く。  勢いよく走ってきたために苦しくなった気息のまま、ベンチに腰掛けた。  手にしていた紙を広げた。握り締めていたからくしゃくしゃに()れていた。  なにが書いてあるのかは、以前何度も読み返しては泣いたから分かっている。お母さんがどんな様子でお父さんを殺したか。痴情のもつれと家庭内暴力の末の衝動的殺人。計画性無し。情状酌量の余地あり。  世間では殺した方のお母さんに非難が集まっていたけれど、悪いのはお母さんだけじゃないとぼくは知っている。お父さんだって、怒りのあまりにひどい暴力をお母さんにふるっていたのだ。犯行前の数日間、お母さんは外出もできないほど、目も、頬も、顎も、痣で腫れあがっていた。それ以前にお父さんはずっと家族に冷たい人だったから、お母さんが他の男に愛情を求めてしまったのもしかたがなかったのだ。  膝の上の紙を目にしながら、それでもぼくの頭の中では、そんな過去を追うよりも、数えるほどしか出ていない礼拝で聞いた場面が不思議と思い浮かんでいた。 『師よ、この人の生まれつき目の見えないのは誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』 『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。』 『この女は姦通の罪を犯しました。このような女は石で打ち殺せと、律法で命じられております。』 『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げよ。』  罪無き者あらば、石を持て打て。  本人の罪でも、両親の罪でもない。 (ならば、どうして……?)  なぜぼくは、この縄目から逃れられないんだ。なぜ、両親の罪にぼくまでが断罪され、罰を受けなくてはならないんだ?  堰を切ったように、両目から涙が迸り出た。次から次へと、目玉が痛くなるくらいにぼろぼろと流れては記事の上に落ちてゆく。 「う、う、ううっ…」  喉がしゃくりあがる。呼吸がわななく。雨に濡れた体が芯から冷えて、がたがたと鳴る。 (まったく。ホントに泣き虫ね、佳樹は) (男の子なんだから、もっと強くなりなさい)  よくお母さんが怒っていたっけ。ぼくは小さい頃から泣き虫だった。けして強くない、小さな男の子。 「うっ、う…う。あ…」  ずっと両親を恨んでいた。  でもある日気付いたのだ。恨むよりも赦してしまった方が自分自身が楽なのだと。  なのに、子供のぼくは赦したというのに他人はけして赦してくれない。  自分たちは涙一つ流さず、かすり傷一つ負わず、そしてまた事情などなに一つ知りはしないのに、釈迦にぷつりと蜘蛛の糸を切られたカンダタを見る目つきで、神にも見放された罪人だと断罪する。そうやっていながら自分たちは、安全なところで安穏としている。  でも、しかたがない。この事件はそれほどのことだった。それほどの罪過だったのだ。  そしてぼくは、この不遇に果敢に立ち向かうこともなく、雄々しく受けとめることもぜず、負け犬然として、まわりから逃げるように殻に閉じこもっている。

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