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第10話
泣きじゃくって、洟をつんつんとすすったりして、きれぎれに声をあげてまた泣いた。
(そんなに泣くなよ)
ぼくがぼくに言う。
(泣いたところで、なにになるよ。泣いたってしょうがねぇだろ、泣くんじゃねぇよ)
こくこくと頷いた。
分かってる。
でも、つらいんだ。
つらくて、つらくて。
だってきっと、いましか泣けないんだもの。だから泣きたいんだよ。
こんなに自分の中に余分な水分があったのかと驚くくらいに、ボタボタといつまでも涙が零れ落ちた。
「うっ、…うっ、あ……あ――」
だから、気付かなかった。
しゃくりあげて啜りあげて、声をあげて泣いていて。
ガタガタと体が鳴って、すっかり我をなくして。
そして、東屋の天井に叩きつける雨と地面へと落ちる水音が大きかったから、気付かなかった。
パキ、と小枝を踏んだ音がすぐそばでしたときにはもう、彼の足は俯くぼくの視界の端に映っていた。
その薄汚れた革靴には見覚えがあって、ぼくはあまり驚かずに濡れた顔をあげた。こんな時間にこんな場所に現われるのも、彼ぐらいしかいない。
「宮代?」
目を丸くして、タカハシが口を開く。
いつもみたいに、両手をズボンのポケットに突っ込んだ鷹揚な格好で、唖然としてぼくを見おろしている。
もう学ランは着ていなくて、そのぶん少しだけほっそりと見える。雨で濡れたシャツの胸元が大きくはだけているから、前よりよけいにスレた感じがして、ぼくは震える体で見あげながら、ぼんやりとその厚い胸板に視線を這わした。
ああ。でも。
どうしてこの人はこんなに深くてぬくもりのある声を出すのだろう。まるで甘く包むガーゼのような。そっと抱き込んでくる温かな腕のような…。
遠くの星を求めるのにも似た悩ましい気持ちで彼を眺めながら、ぼくは目を瞬いた。瞬きのたびに、またぽろぽろと涙が零れる。…止めなきゃな。困らせちまう。
「おまえ、どうした――?」
顔を上げているのがしんどくて、再び俯いた。
ふと、膝の上の紙をどうしようかと迷う。半分に折って文字を隠そうか。それとも、ここでなにもかもをぶちまけて打ち明けるべきなのか。
ええ。ぼくはこんな人殺しの子供です。そばに寄らない方が御身のためです。
でも。それもなんだか違う。
この旦那だもの。ヘンにぼくを哀れんだりして、逆に気を遣わせちまったら悪い。だいたいこんなことをいまぼくから知らされたって、さすがのタカハシも重いだろうから、いつか誰かから知らされるのならそのままにしておけばいい。だから紙を折った。小さく折って、ズボンのポケットにしまった。
タカハシが隣に腰掛けてくる。
「邪魔したかな」
震える腕に、突然、大きな手のひらが乗ってきて、びっくりする。
いつもならそんなことをされたらすぐに拒絶反応をおこして腕を引っ込めてしまうのに、いまはむしろ、その手からなにか心地よいものがぼくへと流れてくる感じがして、ぼくはなされるままにした。
「震えているな。大丈夫か?」
その言葉に、ぼくの体がぴくっと反応した。
(大丈夫か?)
この数日、悟さんにバックを突きあげられながら、何度も脳裏に甦らせた言葉。
大丈夫じゃないよ、助けて、と、顔を歪ませ、狂おしく首を振って答えていた言葉。優しい響きでぼくの心を満たす。
(…やめてよ)
その手を見つめて、空しく抵抗した。
そんなふうに優しく言うの、やめてよ。
だって、ぼくはいつだって、暗闇に腕を伸ばしながら虚空をまさぐるようにして、必死で捜しているんだもの。
なにも見えないこの狂いそうなしじまから、ズタズタになったぼくを掬いあげてくれるなにかを。ぼくの体を力強く抱いて、誰の手も目も届かない遠くへ連れ去っていってくれる誰かを。なのに、こんなふうに優しく言われたら、こんなふうに優しいぬくもりを感じちゃったら、それがあなただと思いたくなっちゃうじゃない。あなたに、そうして欲しいと願っちゃうじゃない。ぼくをさらってよって、叫びたくなっちゃうじゃないの。でも、違うんだ。あなたは、ぼくのものにはならない人。ぼくのものにできない人。だから、優しくしないで。ぬくもりを寄越さないで。
あなたは、ぼくには手の届かない人。
でも、ぼくが、欲しくなってしまった人。
そうだ。
ぼくは、いま、このとき、この人が欲しい。
びっくりしてしまう。
この間までは、こんなこと感じもしなかったのに。
まるで彼岸の人。ぼくとはあまりに関係ない、ただすれ違うだけのやつだったのに。
なのに、あなたの声が、あまりに優しくて、あまりに温かで、あなた自身がそうであるように、ぼくの心を掴んでしまった。ぼく自身でも気付かないうちに、驚くほどに呆気なく。いま、この時にそんなことに気付くなんて、なんてぼくは愚かなんだろう。
(でも欲しい)
欲しくなっちゃった。
これが人を好きになってしまったときの衝動。自分ではどうしようもならない。苦しくて苦しくて、胸が押しつぶされそうにつらい情動。
可笑しくなる。
よりにもよって、タカハシの旦那を好きになるなんてな。
もう流している涙のわけが、両親のことをみんなに知られたせいなのか、かなわぬタカハシへの想いに気付いてしまったせいなのか、自分でも分からなくなっていた。
「ね。ティッシュ、持ってない?」
洟がつらくて訊ねてみると、ポケットから差し出してくれる。洟をかんだら少し楽になった。
このまま止まらないんじゃないかと思っていたくらいに、しとど流れていた涙もひいてきた。嘘じゃなくて、タカハシの手のひらから涙を止める魔法が流れ込んできたみたいに、だった。
「ひどい顔してるよね、ぼく」
あの小柄な花魁様の綺麗な横顔を思い出して、恥ずかしくなった。
「前にも言ったけど、おまえ、可愛い顔してるよ。泣き顔も可愛い」
ナメてんのかと前は思ったけど、いまはそう言われて嬉しい。単純に、嬉しい。やった。泣き顔も可愛いだって。言われちゃった。
「それ、お世辞?」
「俺はお世辞なんて言わない」
うん、そう。そういう言葉を、ぼくは欲していた。ちょっといい気にならせてくれる、甘い言葉。どんぴしゃで返してくれちゃうから、ぼくはますますツボにはまっていく。
「人をノセんの上手いね、あんた」
「まあな」
励ましてくれているのだろうか。
「それにしても細いな。前も思ったけど、ちゃんとメシ食ってんのか?」
ぼくの腕に、ぐるりと指を回す。その男らしい頼りがいのありそうなタカハシの手を、ぼくは疚しい気持ちで眺めた。
この手がもっともっとスケベに動いてくれたらいいのに。そうしたらぼく、あんたのものになっちゃえるのに。
「明日、暇ある?」
突然、問いかけてくる。弾かれたように視線をあげれば、タカハシは目元に涼しげな微笑を浮かべている。
「俺んちに来い。その痩せた体に、夕メシ食わしてやる。俺が作るから、旨いかどうかは分からないけど」
…あら? いったいなにを考えているのかしら?
だって、そんなの特別ごとみたいだよ。あの恋人が知ったらやきもちを焼くんじゃないかな、と思って、そのまま口に出した。
「そんなの、あいつに悪いんじゃない? 恋人だろ、あんたの」
言いかたが悪かったのか、なんのことかと訝しむ感じでタカハシが首を傾げる。
「このあいだ仲良くおセックスしてたじゃない、あんた。やきもち焼くんじゃないかな、自分以外のヤツがあんたの家に行って、ご飯まで奢ってもらうなんてさ」
それで、ああ、と口を開く。
「別に、いいさ。明日は友人として招待するから。なんといっても俺たちは、ふたつずつお互いに秘密を握っているんだからな」
「ふたつ?」
「そ。おまえは俺のタバコとセックス。俺は、おまえのタバコと、涙。な?」
なみだ、か。
顔が赤らむ。
キザ。
だってキザだろ。涙、なんて言葉をこんな堂々と口にするのって。
返事に窮してぼくが黙っていると、それを了承と解釈したのか、タカハシが続ける。
「珍しいところにも連れてってやるよ」
うわ、どこなんだろ。期待に胸が膨らんだ。
ぼくはこくんと頷いた。
複雑な気持ち。
好きなのに、自分のものじゃない。
嬉しさと、哀しみ。
でも、いいじゃないか。家に招 んでもらえるなんて、それだけでめっけもんだよ。すげえ、ラッキーじゃん?
そういえばお母さんが言ってたっけ。大きな不幸には、少しだけ小さな幸せが付いてくるのよ…って。それって、いまのぼくみたいだ。
明日。明日。
明日が愉しみ。
明日の来るのが待ち遠しいなんて、いつぶりだろう――――。
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