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第13話

 帰りのバスも人はまばらで、来たときと同じように二人で並んで座る。やった。じっくりタカハシを感じて過ごそう。だってもうこんなチャンス、二度と訪れないかもしれないからな。と、ひとり胸をときめかせながらタカハシの腿の熱を自分の腿に感じつつ、窓の外を流れる景色を眺めた。  ところが。  連夜の過重労働が尾を引いているのか、それとも慣れない場所で知らないうちに神経を使って疲れたのか、ぼくは冷房の心地よいバスの中で、まもなく眠り込んでしまった。  軽く肩を叩かれた気がして、うっすらと目を開ける。 「…まもなく終点、Y駅西口です。お降りの際はお忘れ物のないよう――」  バスの音声が流れて、そうか終点まで寝ちゃったのかと気付く。  横を向いてタカハシがいる場所を見、その途端、ぼくは固まった。  ぼくの隣に座っていたのはおじいさんだった。  しかもかなりよぼよぼの。  ぼんやりとした目でじっと正面を凝視している。  しまった、ぼくったら老人ホームからタカハシじゃなくておじいさんを連れて帰ってきちまったのかしらと混乱する思考の中で必死に眠気を掃いながら視線をあげると、おじいさんの向こうにタカハシが立っている。あ。席を譲ったのね。それにも気付かずにぼくは爆睡していたってわけだ。見渡せば、バスの中はすっかり込みあっていた。  バスを降りたあとでスーパーに寄った。 「これ、いまが旬だな」  冬瓜と書かれている野菜をタカハシが手に取る。うへえ。主婦みたい。どうもこの旦那、見た目によらず女子力高すぎなきらいがある。  それでもぼくはこのシチュエーションに酔いしれそうになるくらいに幸せいっぱいなのであった。だって一緒に夕食のお買い物なんてさ、まるで新婚さんじゃね? …あ、トマトはあたしこっちのほうがいいと思うな。なんて新妻らしい一言も発したいところだけれど、残念ながらぼくはそういうのに全然くわしくない。タカハシが籠にひょいひょいと入れていく後ろを、黙ってついていった。  こうして見ているとタカハシってじつにまめで、結婚したらいい旦那さんになるんだろうなぁ…って考えた途端、ぼくの胸はきりきりと痛む。だって結婚ってのは相手が要るわけで、男だか女だか知らないが、ぼくはいまからそいつに嫉妬むき出しになっちゃったりしているのだ、愚かしいことに。  ましてや相手があのアンティノウス花魁様だったりしたら、ちょっとないくらい卑屈になりそう。でも実際あんなのを恋人にしてるんだから、タカハシは相当な面食いなのに違いない。 「うちは夕食が早いんだ。ばあさんがいるから、六時半」  家に向かいながらタカハシが言う。ぼくはこくりと頷いて了承した。  帰りが十一時の強姦にさえ間にあえば、いつだっていい。ぼくは十一時までのシンデレラ。それを過ぎたら灰かぶりのM嬢に戻る。  タカハシの家は最寄り駅から十分あまり歩いた住宅地にあった。似たような一戸建てが立ち並ぶ区画や最新式のマンション、単身者用のアパートに挟まれるようにして、その昭和初期的平屋はあった。  大きな国道に面していて、平屋とはいうもののかなり立派な造り、延床面積は広い。敷地面積も広い。こんな家屋が平成の世にあることに、ぼくは驚きと共に一種の感動を覚えた。  広い庭の向こうには大きな材木置き場まである。あのおじいさんは昔、大工さんだったのかもしれないと推察した。 「古いだろ。これ、俺のひいじいさんが自分で建てたんだぜ」  茫然と家を眺めるぼくにタカハシが教えた。 「おかえりなさい」  ただいま、というタカハシの挨拶に、奥からおばあさんらしき人の上品な声が送られてきた。 「お邪魔します」  ぼくも挨拶してから脱いだ靴をそろえる。  不意に他人の家の匂いがして、なんともいえない緊張感が胸に去来する。誰かの家に遊びにあがるなんて久しぶりで、いつになく年相応のことをしていて逆に落ち着かない。  おばあさんが居間のテーブルにいたので、ぼくはもう一度挨拶した。落ち着いた色の服を着てにこやかな微笑を浮かべる、穏やかな雰囲気の人だった。  おばあさんは足が悪いらしい。お茶を出してくれる足取りが危うい。  タカハシがおやつにとさっき買ってきた水羊羹を嬉しそうに食べる。  タカハシがおじいさんやホームの様子を静かに報告する。ぼくは羊羹をいただきながら、タカハシって祖父母っ子なんだなとぼんやりと思った。  ぼくなんて小さい頃に何度か会いに連れて行ってもらったきり、医者だったおじいちゃんが亡くなって以来、祖父母たるものに一度もお目にかかっていない。それはつまり祖父母のほうでもぼくなんかにまったく興味がないということで、ましてや事件が事件だっただけに、お父さんの葬式にすら彼らは来なかった。  だから悟さんは文字通り、引き取り手のないぼくを押しつけられたのだ。そこらへんにも悟さんのぼくに対する憎しみの理由があるのかもしれない。 「俺は夕食の用意をするからさ、スマホでもいじって待ってろよ」  台所に立ったタカハシが軽く声をかけてくる。 「ぼく、スマホ持ってないから、あんたの料理するとこ見ててもいい?」  そう返すと意外そうな顔をする。いまどきスマホを持っていない高校生が珍しいのだろう。  でも悟さんから貰う金からスマホ代などを支払えば、ぼくはカスミでも食っていかなきゃならなくなる。なにしろ三食の他に学校の集金なんかも含めて、なんでもそこから賄わなくちゃならないのだから贅沢はできない。おかげでスマホメインのクラス連絡網はぼくの上をスルーする。よほど大事なことは工藤が家電で伝えてくれるけど、よく考えれば工藤にとってはいちいち面倒な手間だ。 (――工藤か)  ぼくの思考は、ここで遠いあいつへと引き戻された。  でもぼくは、工藤のことがすっかり嫌いになったわけでも、どうでもよくなったわけでもない。  だってあいつは言ってくれたんだ。羽交い絞めに遭うようにしながら、「こんなこと気にするなよ」…って。  そんな言葉をあの状況で発してくれるやつなんて、他にいるだろうか? だからある意味、工藤はいまでもぼくにとって他には代えがたい貴重な存在であるには違いない。  だがいかんせん、あいつはぼくを誤解しすぎている。ぼくに期待をかけすぎている。だってぼくはそんなたいそうな人間じゃない。ぼくはもう基本、疲れきってしまっていて、これ以上自分になにかを課したりはちょっともしたくないのだ。  ぼくがいま欲しているのは、なにかしらぼくの能力を引き上げようとしてくれたり、まともな人間に戻そうとしてくれたりする正義ではなくて、このぼく、このどうしようもなく自堕落と不健全と不運にまみれたぼくをそのまま受け入れてくれる、そんな誰かなのだから。もっとも、タカハシがそれに妥当するのかどうかは、ぼくにもよく分からない。  タカハシはそれは見事な手捌(てさば)きで食材の下ごしらえを始めている。  お米を焚く、味噌汁を作る、例の冬瓜を豚肉と煮る、なんとアジを捌き始める。 「これに片栗粉まぶして」  ボールに入った片栗粉と三枚おろしにされたアジが、ついとぼくの前に差し出された。  うん。まあ。さっきからぼさっと立っているだけだしな。ちょっとは手伝わないとね。と、手を洗って、中学の家庭科でやったのをなんとか思い出しながら不器用な手つきで片栗粉をまぶした。その間もタカハシシェフはなにやらいい匂いのするソースを作っている。まじ、何者? ぼくはとことん感服した。 「ぼく、うちでもぜんぜん料理したことない」  コンロでソースを煮詰めているタカハシにアジを差し出しながら打ち明けた。 「だから、上手くまぶせなかったかも」  受け取りながらタカハシが微笑む。なんでも許容してくれそうな笑顔に、ぼくはこんなときだというのについ、ほうっと見惚(みと)れた。 「大丈夫。俺も適当適当。俺だって、休日しかやらないから」  ――ふうん。  もしかしたら足の悪いおばあさんを休ませるためなのかな。ここでもまたタカハシの心根の優しさに触れたような気がした。  タカハシが作ったのはアジの南蛮漬けだった。そしてそれは他のおかずと同じようにとてもおいしい。カリっとしてフワっとして甘くて辛くて。…ん? 実況が下手だな。ぼくはぜったいにグルメリポーターにはなれない。 「ちょっと俺の部屋で休んでいけよ」  夕食後、二人で食器の後片付けをしていると、タカハシが声をかける。  …もう。このドキドキをどう表現したらいいのかな。  エ~いいんですかぁ、なんかイケナイこと考えちゃうかもボクぅー、てなところよ。  でもあれだけ立派な恋人のいるタカハシだから、ぼくとイケナイことをする気なんか毛頭ないに違いない。  広い家屋の端にあるタカハシの部屋は六畳ほどで殺風景だった。  ベッドとわりと片付けられている古い学習机、エレキギター、音楽雑誌やら英単やら単行本があちこちに平済みにされた板の間。それだけ。うん。でもなんとなく、らしい感じがする。ああ、やっぱね、って思う。 「ごめん、座布団ないから適当に座って」  ぼくは指示通りベッドに寄りかかって床に腰をおろした。斜め前にタカハシが胡坐を組む。ペットボトルから緑茶を酌んでくれた。 「おまえ、やっぱりあまり食わないな」 「え?」 「メシさ、白米も器の半分だったろ。いつもあんなに少ないのか?」  返答に困った。だって、今日は自分としてはたくさん頑張った方なのだ。もちろん、おいしかったから余計に食べることができた。手料理なんて本当に久しぶりだったし、それがタカハシからのものだと思うといっそう食が進んだ。それでも、タカハシから見たら少なく感じたのだろう。 「でも、とてもおいしかった」  ぼくの言葉に、なにかを諦めたような小さな溜め息を漏らす。 「また食いに来い。宮代。おまえ、もう少し太った方がいい」  工藤は頑張れ、タカハシは太れ、か。まったく参っちゃうよ。ぼくってよほどこういう情味溢れる人たちの世話焼き遺伝子を刺激しちゃうのかしらん。たぶん、こんな人たちだからこそ生徒会会長になぞ立候補しようなんて思いきったことを考えついたんだろうな。

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