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第12話
…いるいる。
老人がたくさん。
うようよ。なんて言ったら失礼だろっ。
エレベータードアのまん前にテーブルを置いて、食事を食べさせてもらっている人。なんだかぼーっと遠くを見ている人――いや、ほとんどが、そんな感じ…。
「閉まるぞ」
あ、と我に返り、閉じかけたドアにガツンと肩を当てながら慌てて降りた。痛い。
「お世話になります」
タカハシの挨拶に、一人のおじいさんに食事をさせている職員が会釈を返す。大きなマスクをしているからどんな表情かは分からない。ぼくもなんとなく頭をさげて通った。
タカハシはナースステーションらしきところへ寄ってある人の名を呼んだ。
奥から一人、男性が現われる。にこやかな人で、肩くらいまで伸びた茶髪を後ろで一つに結っている。細身で一見、女の人かと見紛うような顔立ちだけど、黒のヘビメタ風Tシャツに黒の皮パンというヤンキーないでたちが目を引いた。背はぼくと同じくらい、たぶん年は二十代半ばってところ。
「今週も来てくれたのね、ありがとう、宗太君」
「そりゃ来るよ。中村さんとじいさんに会いに」
まったくうまいこと言うんだからあ、と、親しげに挨拶を交わす。
持ってきた紙袋の中身をタカハシがさぐり始めた。ぼくはバスに乗っていたときもこれが気になっていた。なにを大事そうに抱えているのかと。
「今朝、じいさんにパウンドケーキ焼いたんだけど。たくさんできたから中村さんたちにも。ていっても、そんなに数ないけど」
えええ? ケーキを焼いただと? 聞き間違えたか?
ラップに包んだパウンドケーキの束をタカハシがカウンターに乗せてゆく。ぼくはぎょっとしてそれを眺めた。今朝、作ったんかい、それ。女子か、あんた。
「うっわ、ありがと。すっごい、おいしそ」
ん?と、ぼくは首を傾げた。この人なんとなく、イントネーションがオネエっぽいか?
「じいさん向けだから、ナッツとかドライフルーツは使ってない。ジャムだけ。ほんとは他の入所者さんにもあげたいところなんだけど…ダメなんだよね?」
ナカムラさんが残念そうに苦笑する。
「そうなの。ごめんね。せっかくだけど手作りの食べ物はね、ご家族からだけに限られてて。別に、宗太君が作ったものならぜんぜん心配ないんだけど、一応、規則だから」
「うん。だから中村さんと職員の人で食べて。口に合うといいけど」
もー嬉しいなぁ、なんてナカムラさんが破顔する。その笑顔のまま、人懐こそうな視線がぼくへと注がれた。会釈されたから、ぼくもなんとなしにし返す。
「今日は彼女さんを連れてきたの、宗太君?」
タカハシを見上げる。
「エっ? あ? いや。こいつは――」
宗太君がぼくを振り返りながら、らしからぬ様子でうろたえている。
「美人な子じゃんかぁ。やるぅ」
ナカムラさんがニタニタしながらたたみかける。
「こいつは、友達すよ! 友達!」
もう。そう全力で否定するなよ、傷つくだろうが。
そりゃ、そうなんだけど。今日だって「友人として招待」されたんだし。でもその前に、まず女ってところを否定しろよ。
「それに、男だから」
エエー?と目を剥いたナカムラさんがぼくをしげしげと観察する。
「そうなの。あーごめんねぇ。僕、いつもこんなふうにそそっかしくて。あんまりきみが女の子みたいな顔だから、女の子なのかと…」
なんとなく、一つしゃべると一つボロが出るタイプの人であるらしい。
それにあんただってちょっと見女性ホルモン過多な感じがするけど?と、毒の一つも吐いてやりたくなったけれど、そこはそこ、タカハシの顔を立てて黙ってしおらしく微笑んでみせた。
それにしてもタカハシがなぜぼくをここに連れてきたのか、皆目見当がつかない。
ここはぼくの日常とあまりにかけ離れすぎていて、ぼくはかなり戸惑っていた。例えば廊下の匂いだってさ。他の場所ではこんな匂いしない。よくいわれる加齢臭みたいのとも違って、なんとなくトイレくさいからやっぱり便の匂いなのだろう。あえていえばセックスのあとでぼくに差し出される悟さんのナニの匂いに少しだけ近いかもしれない。などと言ったらますます失礼だよな、うん。ただ、こういう場を職場にしているあの人たちは、やっぱり偉いな、尊敬に値するよなと、峻厳な気持ちになったのは確かだ。
「じいさん、来たよ」
入ったのは四人部屋だった。
ベッドが四つ並んでいるからそう思ったのだけれど、使われているのは二つで、もう一人は外出中らしい。
この部屋に到着するまでに、この施設にいるかたがたがどういう症状なのかおおまか分かったので驚かなかったけれど、案の上タカハシのおじいさんもそうとう認知症が進んでいるようで、ベッドの上でじっと座ったまま、声をかけられてもウンともスンとも言わない。これでタカハシ手製のパウンドケーキは食べてくれるのだろうか。勝手に心配になる。
ぼくはそんな好奇心もあって結局、部屋の中までお邪魔し、タカハシと並んで丸椅子に座らせてもらった。
「今日は友達を連れてきたんだ」
なんて言うから、シニカル佳樹君もここぞとばかりに精一杯のサービスをしてみる。
「こんにちは、宮代です」
…うん。反応なし。
かなり顔を覗き込んでしっかり目を見て言ったけど、ピクリとも動かないで?
タカハシはそれも当然のように、家にいるおばあさんの元気な様子とか、学校の予習がたいへんだとか(それほど授業出てんのかよと思ったけど黙っておいた)、一通りの近況を報告する。そこで分かったのは、タカハシの両親は仕事の都合でアメリカで暮らしているからいまはおばあさんと二人暮しだということと、大学は国立文系のいいところを狙っていて、それなりに勉強に励んでいる最中だということだった。
おじいさんはその間もずっと壁の一点を見ながらぼうっとしている。
ぼくはなんとなく、女の子たちの人形遊びを連想した。
ほら、あの、小公女が大事なフランス人形のエミリを相手に会話をするという、あれだ。つまりタカハシがひとりオジイサン人形に話しかけているような、そんな錯覚がしてきたのだ。…まったく。この期に及んでまだこんなふうにズレた見方をするなんて、やっぱりぼくはどこかねじの壊れた人間なのだろう。
それでも、タカハシがパウンドケーキを小さく千切っておじいさんの口元に持っていったときに、おじいさんが静かに口を開いたのには仰天した。例のごとく壁の一点を見つめながら、ただ口だけを動かしたのだ。なんで分かったんだろう。別に、そんなに強い香りがするわけでもないのに、食べ物が口に運ばれたという事実をどうやって認識しえたのだろうか。
「宮代もどうぞ」
差し出してくれたので、え、いいの、と心で小躍りしながら手に取った。
アンズか、マーマレードか。自然な甘さでしっとりとしている。売り物よりもおいしかった。ぼくは心底タカハシを尊敬しながら、これは夕食も期待できるぞと、ひとしきり幸せを噛みしめた。
「おまえの食う顔、一心で可愛いな」
突然の誉め言葉に必要以上に動揺して、目をパチパチさせた。可愛いを、そう安易に連発するんじゃない。困るだろうが。
「サンキューな、宮代」
帰りのバスを待ちながら、タカハシが言う。
四時過ぎになり、空にはまた灰色の雲がきれぎれに浮かび始めていた。
雲の流れで陰になったり日向になったりする中で、ぼくはなんのことかとタカハシの顔を見あげた。
「じいさんに、声掛けてくれてさ」
「ああ」
そのことか。
「どうせボケてて分からないんだしっていって、面会に来る人も少ないみたいなんだ。でも聞こえてはいるんだぜ、あれでも。きっと頭の片隅では、なんとなく分かったと思う。ああ、今日は宗太の他に、誰か新しい子が来てくれたんだな…って」
タカハシの声の響きは、やっぱり優しい。言葉の中身や心根の優しさと同じに。
――静かで、温かで。一生この声をそばで聞いていられる人は、幸せだろう。
ぼくは、急に思い浮かんだ問いをぶつけてみた。
「いろんな新しい子を、ここに連れてくるの?」
でもどうにもこうにもぼくの質問は頓珍漢なのか、タカハシにはすぐに理解できなかったらしく不思議そうな顔をする。
「ここに連れてくるの、ぼくで何人目?」
さすがにくだらねえ質問だな、と自分でも思う。でも気になるんだもの、しょうがない。
それに、こんなしょうもない質問をしたときにタカハシがどんなリアクションをするのかも知りたい。ほら、ぼくって人格に問題ありな人だから。
ようやく質問の意図を解したように、タカハシがしげしげとぼくを見る。
「面白いこと訊くな、おまえ」
「だから、何人目よ、ぼくは」
「いいだろ、そんなこと。あー早くバス来ねえかな」
あっ。なんと逃げた。ずるい、タカハシ。
「教えてよ、意地悪」
ぼくは食いさがった。タカハシが片頬笑みでぼくに視線を置く。
「なんで、そんなことを知りたいんだ?」
なにかを含んだ響きで切り返され、ぼくは言葉に詰まった。
それは。
だって。
それは、自分がちょっとでもタカハシにとって特別でいられてるのか、知りたいから。もちろん、花魁様の存在を忘れているわけじゃない。もちろん、それは承知の助だけど。
でも、ぼくはここで新しいあなたを知りえたような気がして。
そんなあなたを過去、何人が知りえたのだろうかと。
それが気になってしょうがないから。
だからだよ。
それだけ。
それだけなんだよ。
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