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第17話
「ここ、寒すぎる。他の部屋で、やってくれない?」
「なに?」
だって。こんなところで二時間も裸でいたら、低体温で本当に死んじまう。
「嫌だよ…。こ、こんなとこでやったら、ぼく、死んじゃうよ…?」
「バカ言うな。死にゃあしねえ。早く脱げ、全部だ」
悟さんの日に焼けた顔が苛立ちでどす黒く変わっていくのを見ながら、ぼくは必死に首を横に振った。寒くてしかたない。ここに二時間裸でいたら、死ぬ。確実に、死ぬ。そりゃあんたはいいだろう。そんな厚手のダウンコートを着てるんだから。でもぼくは痩せて肉だってまともについていないのに、どうやってこの寒さをしのげというのだ。
「…どうして? こ、こんな、ところで――?」
吐く息が白い。やがて寒さで歯までがガチガチと鳴りだした。
半袖の腕が寒くて、両腕を組むようにして手のひらでゴシゴシとさすった。
「つべこべ言うな! 殴られたいかっ」
「い、嫌! ねえ、ど、どうして、なの…?」
我慢の限界だ。殴られてもなんでもいい。とにかく一刻も早くここから出たい。
「どうして、外じゃ、ダメなの? こ…こんなとこ、寒いよ! ぼくに、なに、してもいいから。なんでも、するから。ど、どうか、ここから、出して。お願いだよ…!」
「人形のくせに、生意気言うな!」
怒号が飛ぶ。平手も飛んでくると思って、竦みながら目を閉じた。
悟さんはぼくのTシャツの首根っこを捕らえ、ギリギリと音が立つくらいに捻り上げた。歯の隙間から、猟犬のような唸り声を出す。
「てめえは人形だろうが? 人形は寒くなんてならねえんだよ。俺が本気でキレる前に、早く素っ裸になれ!」
目を血走らせながら、ぐいぐいとぼくを締め付けてくる。
(なぜ…? どうして――?)
こんな寒い密室に閉じ込められ、喉を締めあげられ、罵声を浴びせられて。
ぼくはようやく、この問いにゆきあたったのだった。
なぜ、この人はこんなにもぼくを人形扱いするのだろう。
なぜ、この人はここまでぼくを懲らしめるのだろう。
なぜ、この人はここまでぼくを憎むのだ――と。
いままでも感じなかったわけじゃない。けれど、それは突き詰めたってしょうのない、かえって彼の激情を煽るだけの余計な詮索だろうと決めつけていた。
でも、いま。
自分の受けている仕打ちの意味を、はっきり知りたいと願った。
なぜ、ぼくはここで苦しみ、傷みつけられ、人格どころか人間、いや、生物であることさえ否定されなくてはいけないのか。
「脱げ!」
彼がぼくのシャツを乱暴に剥こうとする。
「い、――い、い、嫌だ!」
悟さんの脇をすり抜けてドアへと走った。ガチャガチャとロックを外そうとしたけれど、内側からの鍵が必要だった。腕を掴まれ、頬を強く張られて、床へと倒れ込む。
「あんまり怒らせんな、俺を」
悟さんが低く呻く。
「脱げ」
ぼくは上体を起こしながら懸命に首を振った。
別に半袖のTシャツ一枚を脱いだって寒さは変わらない。だっていまだって体が震えて血まで凍りそうなのだから。だから脱いだっていい。
でも、ぼくには納得できない。
なぜ、こんなところで犯されなくてはならないのか。なぜ、ここまで苦しみを与えられてそれを耐え忍ばなくてはならないのか。そのわけを、どうしても知りたかった。
「――ど…どう、し、て?」
力のない声で喘いだ。歯が鳴って、うまく話せない。
「…ど、うして、ぼくを、こんなに、く、苦しめるの?」
「――苦しめる、だと…?」
悟さんが凶悪に顔を歪ませる。すぐにでも暴力へと移行しそうだった。
「人形のくせに、人間みたいなしゃべり方をするな」
ぼくは全身を大きく震わせながら、その長身の上で光っている狂気に満ちた双眸を見あげた。ガクガクと定まらない顎で、懸命に声を絞り出した。
「さ、悟さん。…ぼくは、人間だよ? に、人形じゃない。で…でも、あなたにとっては、に、人形なんだね? …なんで、だろ? …どうしてなの? ――う。どうして、ぼくは、あなたにとって、に、人形に、ならなくちゃ、いけないの? ぼく、なにか、悪いこと、…した? あ、謝っても、許されない、ことなの? あ――。どうして? ど、どうして、ぼくを、そ、んなに怒るの? お、教えて。お願い。そうしたら、ぼく、ここで、脱ぐよ。なに、されても、いい。――おお、おねが、い。教えて。どうして、あ、あなたは、そんなに、ぼくを、に、憎むの?」
ぼくの言葉に、悟さんが目を吊り上げる。悟さんの体も激しく震えていた。それはどこか戦い前の武者震いのようだった。
「憎むだと? 人形なんか、憎む価値もない」
「うそ、う…嘘だよ! そ、そんなの、嘘だ! ち、違う、でしょう? ――なんで、なの? 教えて。ど、どうして、そんなに、ぼぼ、ぼくを、痛め、つ…つけるの? 理由を、聞かせて。――そ、そ、したら、ぼく、脱ぐ。いくら、でも、に…人形に、なる、から」
寒さに体が強張って、息をするのもやっとだった。
悟さんがぼくの腕を掴んで引きあげようとする。ぼくは思いきりその腕を引っ張り返した。
「おねがい! お…おしえて!」
今度はぼくを突き放し、彼は狂気に燃えた目で睨みすえた。抑えつけられた激情でヘの字に結ばれていた唇がゆっくりと開き、音を発する。
「祐香 は、もともと俺の女だったんだ」
その言葉があまりに思いがけなくて、ぼくには時間が止まったように感じられた。
(お母さんが、悟さんの女――?)
いま、そう言ったのか?
「あいつははじめ俺の女だった。俺が本気で惚れて、すべてをくれて愛した女だった。大学の同級でな、婚約までしていた仲だったんだ。だのにあいつは、俺が親に紹介しようと家に連れていったときに、初めて会った兄貴にあっさりと乗りかえたんだよ。使い終わったゴミみたいに、俺を捨てて。理由を問い詰めたら、なんて答えたと思う? あなたより彼の方が稼ぎがいいでしょう、と、平然と答えやがったんだよ。ひとをバカにしたような顔で。それからさっさとお前を作って、兄貴と結婚しやがった。美しい女だったから、それまで女をとっかえひっかえしていた兄貴も、お前の母親にぞっこんになったよ。あとはお前も知る通りだろ。――淫売だろ? ああ? 売女だろうが? お前の母親は。お前もだ。そっくりだ。あの女に。まるで生き写しだ。許せねえ。お前なんか、俺がめちゃくちゃにしてやる」
そこまで言って、悟さんは言葉を切った。しゃべりすぎて後悔したとでもいうように、さらに表情を険しくした。
――ぼくは。
呆然として彼を見上げたまま、体を震わせるだけだった。
頭は彼の話を冷静に理解したけれど、心はしんと凍りついた。
そうか、そうだったのか。
だからだったんだ。
悟さんが、ぼくを憎むのは。
すとんと腑に落ちる。全ての辻褄が合い、合点がいく。
そうなんだ。こんなにまでも悟さんがぼくを痛めつけ苦しめたいと思うのには、それなりの理由があった。
「さあ。脱げ」
いつもの調子に戻った悟さんの声に、もう抗うことなく従った。服を脱ぎ、寒さと恐怖におののく裸で四つ這いになる。冷房で凍った床は、己の業を知れとぼくをつき放しているようだった。
悟さんが後ろからタオルを口に咬ませた。涙が流れてきたので、気付かれないように俯く。盛りあがった涙が次々と床へとこぼれ落ちた。
痛いほど尻を開かれてペニスが押し入った。堪えられないような痛みだった。バスルームでは背中のことばかり気になって、油を塗ることなど思いつかなかったのだ。
「ううッ!」
しょっぱなからの激しいピストン。ああ。ああ。ああ。痛い。苦しい――!
鞭が鳴る。
「ウウウッッ!」
激痛に耐えかね視界が暗くなって、気を失いそうになる。両手のこぶしが床の上でぶるぶると無様に震えた。
まだ全然癒えていないところに、しかも寒さに粟立ち敏感になっているところに打たれるのだからたまらない。
(けれど)
ああ、そうとも。
分かっている。
これは、贖罪なのだ。
ぼくはひとり納得してコクコクと頷いた。
これは母親がこの人を傷つけてしまったことへの、贖罪。
いや――そればかりか、ぼくがこの世に生まれてしまったことへの、贖罪。
そうだ。ぼくさえ生まれなければ。
ぼくさえ、作られなければ。
ぼくさえ生を受けさえしなければ、もしかしたら父と母は結婚しなかったかもしれない。
(死にたい)
そうだ。
死んでしまえば、どれだけ楽だろう。
もう、いい。ぼくは頑張った。これまで一人でなかなかよく耐えてきた。だから、もう死んでいい。それで許しを請おう。
『一死を以って大罪を謝し奉る』
いつだったか思いついたよりは鮮明に、前向きに決意した。
ぼくがいる限り悟さんが解放されることはない。むろんぼく自身もだ。だから、ぼくはいなくならなくてはならない。
再び背中が鳴った。苦しみに悶える声が分厚い壁に吸い込まれてゆく。
(寒い…! 痛い…!)
だから死のう。死のう。死なねば。
でも。
(――だけど)
人間らしい感覚が残る脳の一点で、ぼくは夢中で自分に言い聞かせた。
ほんの少しだけ、心残りがあるだろう?
ああ。そうとも。
ぼくはタカハシを思い出していた。
もし、ここから生きて帰ることができるなら。
生きて、ここから出られるならば。そんなこと、本当にできるのか分からないけれど。
もし、その願いがかなうのならば、一度でいい。
タカハシに抱かれたい。
あの腕に抱かれ、あの腕の中で眠りたい。
一晩でいい。猫のように丸まって、幼子のようにすべてを委ねて彼の温かな腕の中で眠れたならば。
そうすれば、それができさえすれば、ぼくはすべてを納得して安らかに死ねるだろう。
もう、なにも思い残すことなく。
彼の逞しい腕と美麗な微笑をそっと心にしまいながら、ぼくは心穏やかにこの世にさようならできる。
寒さと痛みに失神寸前だった。
けれど、ただそのことのみのために。
ここで失神したらそのまま死ぬ、ということが分かっていて、そんなことになってもけして悟さんは手心を加えてなどしてくれないだろう、という予測にたち、ぼくは、ただ、生きてここから出たい、そして一度だけタカハシに抱かれてからこの世におさらばしたい、と。ただ、その目的のためだけに、身震いする寒さと狂おしい激痛に耐え、意識を失うまいと必死にこらえていた。
「つまらねえ…! なんて、つまらねえんだよ…!」
悟さんが歯ぎしりする。いったいなにがそんなにつまらないというのだろう。ぼくをここまで苦悩せしめているというのに。
轟々と室温をさげる冷房の音。
しなやかに打ちすえられる、鞭の音。
皮膚が破れ、骨が砕かれ、ゆえにぼくの喉から発せられる、悲鳴の響き。
これらが冷酷なほど一定の時間を刻みつつ、低温室に響いていた。
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