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第16話
ぼくは失神しなかった。
それでも新しい鞭による昂奮が悟さんを刺激したのか、一時間ばかりでぼくは解放された。だからといって、それがなんだというのだろう。
深々とアヌスを抉られながら殺人的な鞭をふるわれて、ぼくは肉体はもちろん、精神的にも深いダメージを受けなくてはならなかった。ぼくの魂はあてなく浮遊し、この世からの解脱を切実に願った。自分というこの詮ない不運な存在の、そのあらゆる限界を思い知らされて、もう魂もろともすっかり無に帰してかまわない、そう思われてしかたなかった。
すべてが終わったあと、ぼくはなだれを打つようにソファに横になって丸まった。ほとんど働かない頭で、ただ不安だけが膨らんでいって、胸に重く圧しかかった。
これから悟さんは毎日あの鞭を使うのだろうか。そうなれば近いうちにぼくは脊椎神経をやられて半身不随になるか、最悪、骨折した肋骨が肺に刺さって死ぬかもしれない――ふと思う……でも、そのほうが呆気なくていいかもしれない、なんて。いっそぼくの死にふさわしいかもしれない、などと。
絶望のあまり、ぼくは悲しみの涙も流さずに寝た。絶望を「死に至る病」と名付けたのはキルケゴールだったかしら。ならばぼくはそれに罹ったようなものだ。ただ、背中の痛みが酷くて痛み止めの飲み薬を探したんだけどどうしても見当たらず、結局それだけはぼくを一晩中悩ませた。
「起きろ」
翌日は日曜だったので、昼過ぎまでうとうとと眠っていた。
それでも悟さんの声にようやくの思いで目を開けると、足の裏でぼくをゆっさゆっさと揺すっている。ゆっくりと意識が戻った途端に、背中の激痛に再び見舞われた。
なんか寝た気がしない。きっと一晩中体が痛みを感じ続けていたせいだろう。確かに途切れ途切れに眠りが妨げられていたのを思い出す。
時計を見ると、もうすぐ午後の二時だ。
「出かけるぞ。シャワー浴びて、着替えて来い」
悟さんが頭上から命じた。
正直、エ~~?という気分になった。
だって疲労困憊だ。だるっこくて、体ももう自分のものとは思いたくないくらいに激痛がするのに、いったいどこに連れて行かれるというのだろう。
「早くしろ!」
強まった語気に慌てて飛び起きた。ほっといたらそのうち平手が飛んでくるのは分かっている。たとえぼくが背中の痛みやセックスの跡の痛みでどんなにもがき苦しんでいようとも、そんなのは悟さんにとっては蟻の苦しみと同程度かそれ以下なのだから。
シャワーを浴びにバスルームに入って痩せた背中を鏡に写してみると、それはそれは目を背けたくなるほど無残な代物だった。こんなの人間の背中じゃないな。醜くて見る影もない。
一面の痣と、何本にも引かれた切り傷、みみず腫れ。そして全体的に肉が腫れて盛りあがっているから、せむしのように見える。
(こりゃひどいな)
そろそろとお湯を当てる。飛びあがるほど痛い。骨だの神経だのという前に、今夜またあれで打ちのめされたら、背中の皮膚がぜんぶ捲 れあがるのじゃないか。そう考えてぼくはあらためてぞっとした。
マンションの階下に出ると、悟さんはオープンにした真っ黒のロードスターを正面玄関に寄せ、サングラスをかけてぼくを待っていた。出掛ける気満々てとこだ。
今日も晴天だった。
厳しい陽光が朦朧とする頭に照りつけ、なまぬるい風が白んだ皮膚に不快に纏わりつく。ぼくはいやよいやよという気持ちで助手席に乗り込んだ。シートベルトをして背もたれにもたれると、背中が音を立ててきしむ。しかたなしに窓側へ向いて斜めに腰掛け、背中がシートに当たらないようにした。
勢いよく車が走り出す。
直射日光が強くて眩しい。オープンならオープンと教えてくれればいいのに。それならキャップでも被ってきたし、こんな半袖じゃなくて日光を遮る長袖を着てきたのに…などと口にしてみたところで、悟さんにとってはそのどれもがこの上なくどうでもよいことだし、むしろごちゃごちゃウルセエ以外のなにものでもないのだから、ぼくは座席で丸まりながら、じっとすべての不快感に耐えていた。ただ、走り出すと風は気持ちよくて、ぼくの半端に伸びた洗いたての髪も、あっというまに乾いた。
いったい他の車の人たちからはぼくたちはどう見えるのだろう。
ベンツのオープンカーに可笑しな取り合わせ、と思うだろうな。ぜんぜん面白くなさそうに助手席で蹲 る痩せ細った少年と、黒いサングラスにヤクザの親分みたいななりで上機嫌に運転する男。ぼくだってそんなペアがいたらぱっと見ヘンだと思うや。
悟さんは一昔前のアメリカン・ロックのCDを大音量でかけていたけれど、ここでもぼくはうつらうつらと眠り込んでしまう。まるで眠り姫だよ。だってぼくはいつも疲れているのだもの、許してほしい。
そしてぼくはしばらく眠り込んでいたらしい。
次に目覚めたときには木々に挟まれた狭い山道を走っていた。時計を見るとマンションを出てから一時間ばかり経っていた。
木々といってもそんなにうっそうとしているわけではなくて、東京の中にもたまにある小高い丘に入ったようだった。人影一つ見当たらない道の真ん中で車が右折する。学校に似た門をくぐり抜けると、左手に窓の少ない巨大な建物が現われた。
悟さんは右手に開けている広い駐車場の一角に車を停めた。他に車は三台ほどあるだけだ。
悟さんに続いて降りた。一見、木々に囲まれた寂れた病院。でもそれにしては寂れすぎている。
どこだ、ここは。
そう思って悟さんに続いて建物の正面を横切ったときに、玄関横のプレートを確認した。
『国立精神衛生研究所 西東京分所理化学実験棟』
ああ。
ここなのか、悟さんの職場は。
悟さんはぐるりと建物の裏手に回ろうとしているらしい。ぼくはその後をおとなしくついていった。それだって背中は相変わらず音を立ててぼくを苛み続けている。
それにしても、まったく。
悟さんの職場が精神衛生研究所とは。なんて悪い冗談だろう。
悟さんこそお頭 の中身を一度調べてもらったほうがいいんじゃないの、などと心で毒づいてみると、突然に新手の恐ろしい予感がしてきた。
もしかして悟さんはここでぼくの脳味噌を解体して実験に使うのじゃないか。ほら。マッドサイエンティストっているじゃない? いよいよぼくの利用価値もそれくらいになっちまったのかもしれないぞ、と。
裏手にある小さな通用扉からカードキーと暗証番号を使って中に入った。狭い階段をのぼる。体力のおぼつかないぼくにとっては、こののぼりさえきつい。二人の乾いた靴音が縦長の空間に冷たく響いた。
どんなによくたって、ぼくが楽しくなるような事態にはけしてならないだろう、という予測はついていた。
きっとなにか途轍もなく嫌なことが起きるに違いない。だってわざわざ悟さんがぼくをこんなところに連れてくる理由なんて他にないのだから。
ただそれがなんなのか、それが気がかりだった。
命に関わることならさっさと終わるのがいい。ずるずると苦しめられて死ぬのは嫌だ。あまり痛まず苦しまずがいい、ぼくは呆気なく死にたいのだ……と、ここまで考えて、昨夜の鞭打ち強姦自体がまったくもって全然「呆気ない死」とは程遠いけどな、と思い至る。
三階分ほどあがって階段のドアを抜けると、左右に長い廊下が開けた。人影は無い。日曜だから出勤している人が少ないのだろう。
ぼくはここでも黙って悟さんの後についていく。見えない首輪とリードがついているみたいに。
だってけして逃れられないのだから。逃れようとすればするほどそれはひどい力で、それこそ首をもぎとられるような痛みで引き戻される。たとえ待ち構えるのが悲惨な死であろうとも、ぼくに選択の余地はない。
「ちょっと待ってろ」
とあるドアに悟さんが消えてゆく。ぼくは忠犬ハチ公のようにじっと佇んだままご主人様の出てくるのを待った。
一分も経たないうちに出てきた悟さんは、なぜか分厚いダウンジャケットを着ている。ぼくは不思議に思って首を傾げた。そりゃ確かに、ここは休日だというのにガンガンと冷房が効いている。官営だからってこんなに電気代を無駄にしていいのかよ、と思うくらいには肌寒い。それにしてもダウンジャケットとは。ちょっと大袈裟すぎやしないか。
それから左右に無機質なドアが並ぶ廊下を二回曲がった。ところどころ「使用中」の赤いランプが点滅しているから、もしかしたらこの中には誰かがいて、実験なぞをしているのかもしれない。
「入れ」
厚みのあるドアを開けて、悟さんがぼくに命じる。言われるままに一歩入れば、自動で明かりが付く。
瞬間、ふぅっと風に当たった気がして、ものすごい違和感を覚えた。
背後で重い音をたててドアが閉まった。そして、鍵の締まる尖った音。
「え…?」
――寒い。
狭い室内にゴーっという冷房の音が充満する。悟さんは持っていた鞄をデスクに置いた。
「あ――、なに? …ここ、寒いね?」
ぼくは振り向いて、ドアの前に立つ悟さんから視線を這わせ、背後にある電子プレートを見付けた。4℃の文字が目に飛び込んでくる。――そうか。低温実験室というやつだ。ぼくも理系の端くれだったからその存在くらいは知っていた。
4℃と分かると途端に寒さが現実味を帯び、鳥肌が立ってくる。無駄かもしれないと思いながらも声をかけた。
「ね。ここ、寒いよ? もう少し、温度、あがらない?」
「うるせえ。黙ってろ」
鞄からタオルと例の鞭を取り出す。まさか、ここでやる気なのだろうか。ぼくはあまりのことに茫然自失となった。
「さあ。脱げ」
ぼくの口にタオルを咬ませようとする。
「ま…、ま、――待って!」
仰天したぼくは室内の奥まであとずさった。といったってたかがしれている。ほんの二、三メートル先の悟さんは、たちまち憤怒で表情を荒げていく。ぼくの体がかたかたと震え始めた。寒いのと、恐怖のためにだ。
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