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第19話
部屋にあがってあらためて見ると、ぼくのズボンは水が滴るほど濡れそぼっていた。見かねてタカハシが自分の短パンを出してくれる。
「学ランも脱げ。かなり濡れてる。とりあえず、下はこれ履いとけな。俺、シャワー浴びるけど。佳樹も一緒に入る?」
さらりと言われ、びっくりしてタカハシを見あげた。
いたずらっ子みたいなシニカルな微笑を浮かべている。ふざけているな、これは。どうもタカハシってゲームのスイッチが入ると、いつもの優しさとか穏やかさが抜けてプレイボーイっぽくなるらしい。
「もう浴びてきた」
「じゃ、適当に寛いで待ってろ」
「うん」
タカハシが出ていったあと、ぼくはボトムを着替えた。
背中の傷はどうだろうと気になってシャツを確かめると、汚れていないから血はなんとか止まっているのだろう。もし血なんかが染み出してるのをタカハシに見つかったりしたら、それこそわけを問い詰められてしまう。
ベッドの手前に座り、おとといのように膝を抱えた。
タカハシの部屋はタバコと古い木材の匂いがする。立て膝に顎を乗せて目を閉じると、うらうらと時間が過ぎるのを静かに感じた。外の雨音が子守唄のように遠くに聞こえて、平穏だった。
そんな心地好さに身を置いていると、このまま別に抱かれなくったっていいんじゃないかと、そんな消極的な思いが襲ってくる。
昨日の鞭打ち強姦の最中はあれほどタカハシに抱かれたいと切望していたにもかかわらず、いざ来てみると、この部屋があまりにも居心地よくて、外の雨音が思いがけなく静謐で、不穏な性欲なんかに身を任すことなどせず、このまま安穏と過ごした方がいいんじゃないかという気分になってくる。
だって、相手がタカハシならば、そばにいるだけでぼくはじゅうぶん幸せなのだから。
そもそもぼくはさして男に抱かれるのが好きなわけではない。もっとも、悟さんにしかやられたことがないから経験値は低いけれど。
ただ、アヌスにペニスを突っ込まれるという事態が好きかと単純に問われれば、好きじゃないのだ。あんなつらい思いはできればしたくない。できれば避けたい。でも、だからこそ、そんなつらいことだからこそ好きなやつとしかしたくない、というのもまた自然な感情だと思う。
例えば、それがタカハシのだったら?
それが、ぼくのあそこでズボズボ…と、抜き挿しされるのならば?
ああ、それに、そう。ちょっとは気持ちいいことも…ある、だろう。
例えばあの、ナニの先っぽが前立腺の性感帯に当たっちゃった時なんかもう――ああ…。うう。ぼくったら、いったいなに考えんだよ、もうすぐタカハシが戻ってきちゃうってのに。
ひとり首まで赤くしながらただならぬ妄想をして悶えていたので、ドアが開いたときは、慌てて上体が跳ねあがった。焦ったついでに背中がベッドの枠に思いきり当たり、さらに身悶える。
「いっ、たぁ…!」
「大丈夫か?」
タカハシが目を丸くする。
「どうした?」
「――なんでもない…」
まったく、どこまで間抜けなのだろう、ぼくは。まるで悲劇の中の喜劇役者だ。
シャワーから戻ってきたタカハシは、締まった黒いランニングに黒のジャージを履いて、手にグラスを二つ、腕に緑茶のペットボトルを抱えていた。
濡れた髪が頬に纏わりついて長く見え、いつもよりも数段色っぽかった。
ぼくの横に胡坐をかくと、体がまだシャワーの熱を溜め込んでいるのだろう、空気が動いてまたあのほの甘い石鹸の香りがぼくの鼻孔を掠める。ふわりとふいた風みたいに幸せな空気を孕んだ。
逞しい腕と、ランニングの上からでも盛りあがりが判別できる胸筋、引き締まった腹筋。タカハシはなにかスポーツでもやっているのだろうか。これはどう見ても体を使っている人の筋肉の付きかただ。
そんなタカハシと比べて、ぼくはなんて痩せて不健康で、自堕落なのだろう。
情けないことにぼくは不潔と不健全にまみれてこの数ヶ月を過ごしてきた。しかも愛されもしないのにただ犯されただけの存在として死にゆこうとしている。
だからこそ最後に、せめて喜びを与えてくれる人を自ら選定してその人から喜びを受けて死にゆきたい、最後の人は自分の愛する人にしたい。そんな切羽詰った思いに駆られて、痛む体を引きずってここにきたのではなかったか。そんなわけなのだから、やっぱりぼくは今夜タカハシにお情けでいいから抱いてもらって、明日、自ら命を絶たなくてはならないのだ。
こんな泥沼的思考をするというのも、おそらくいまぼくは、まともな精神状態にないのだろう。それは認める。だとしたら精神科にでも行って適切な治療をしてもらえば、もしかしたらすっきりと治るものなのだろうか。
でも、ぼくは、絶対にそんな治療などしてもらいたくないなと思う。
そんな、自分はちょっとの痛みも感じないどこかの医者にしたり顔で質問されて、分かったような口利かれて薬なんぞもらって、それでハイ、すっきり生きる気力がわいてきました、なんて、冗談じゃねーんだよと思ってしまう。
そんなことをされたらぼくの今までの苦しみはどこにいっちまうの。
ぬくもりのない家庭、両親の殺人事件、他人からの冷たい仕打ち、転校、毎晩の強制的なセックス、殺人的な鞭打ちに、その理由を悟さんから聞いてからのこの、「死に至る病」というキルケゴールのお説のままの絶望を、精神科の医療なんかでフイにされちゃかなわねーんだよ、と叫びたくなる。
「ありがとう」
かように心の中はものすごく激動していたけれど、タカハシにコップを勧められてちょびちょびと緑茶を啜ってみると、それがとてもよく冷えていて沸騰した頭も冷やされる。
タカハシが胡坐の膝に立て肘で頬杖をついた。
鋭くもない、かといって甘くもない、あえていえば好奇の漂う流し目をしてぼくを見る。そんな視線に射抜かれ、ぼくは狂気じみた思考をやめて小さく身を縮こませた。
「で。今夜は、なんで来たんだ?」
ぎくっと体が跳ねあがる。とうとう「抱いて」を切り出さねばならない時が来たのだ。
「あの」
でも実際、どう頼んだものか。ぼくは、どぎまぎと視線をさまよわせた。
愚かしいことに、ぼくはいまに至るまでどう言ってタカハシにセックスを頼もうかなど、一つのシミュレーションもしてこなかったのだ。
「ぼく…」
いっそ股間を握って「これ頂戴」って言っちまおうか。
「どれくらいの時間、待っていたんだ?」
ところがタカハシに先を越され、開きかけた口があぐあぐと行き場を失う。
「さっき、うちの前でさ?」
「…えっと――三時間」
タカハシが絶句する。
「だいぶ、待ったんだな」
「うん…」
「なんで? なんでそんなに長時間、俺を待っていたんだ?」
ここで、ぼくはついと背中に冷や水をかけられたような感覚がして、タカハシの顔を見あげた。繰り出された「なんで?」が、恋愛ゲームのあの駒のように感じられたからだった。
思った通り、タカハシは余裕のある表情にいたずらっぽい微笑を浮かべている。ぼくはえもいわれぬ虚しさに囚われた。
(ねえ…そんなに遊ばないでよ)
(ぼくは真剣なんだからさ――)
ぼくは、少なくとも命をかけてここにきた。そのぼくの気持ちがタカハシにはちょっとも分からないのかな。いや――分かるわけ、ないか…。
諦めて、ここはもう直球勝負で行くしかないと思った。この人の恋愛ゲームに付き合えるだけの経験をぼくは持ちあわせていない。多少でも馴れていれば、「え~? なんでだと思う~?」なんて返してそれなりに愉しむのかもしれないけれど、とてもじゃないけどぼくにそんな芸当は無理だ。
「あんたに抱いて欲しくてだよ、タカハシ」
これならストライクだろうというくらい、ストレートに伝えた。タカハシは微笑を湛えたまま、口角を僅かにさげる。
「それ、本気で言ってる?」
低い声が返ってきた。そういえばこの間のキスのときもこんなふうに言われたな。
ぼくは上目遣いで深く頷いた。頷いたあとで、その上目遣いがすげえセクシーなんだよ、と、前の高校で言い寄ってきたやつを思い出す。つまらない思い出だ。
「それで、おまえのステディは納得するかな?」
その返答にびっくりした。けれど、すぐになにも驚くほどのことじゃないと思い直す。
だってぼくは予感していたもの。
ぼくの二股疑惑というものが厳然とぼくたちの間にはあって、タカハシはそれを無視したりはしないだろうって。
「まあ、俺はかまわないけど? でも佳樹、おととい俺を窘めたろ。恋人でもない奴とあんなことをするのかって。だから、佳樹と相手って、けっこうかたい付き合いをしているんだなと思ったんだよな。別に、俺とこうやって遊ぶのもいいけどさ、セックスまでしたことがバレたら、それこそややこしいことにならないのか?」
ずいぶんはっきりとした物言いをする。
「あの、ぼくは…」
覚悟していたことだけれど、思いきり誤解されているのはつらかった。倒れそうな心をなんとか奮い立たせた。
「ぼくは、か、…彼と、別れる決心をしてここに来たんだよ? …ね。一度でいいんだ、タカハシ。あんたに一度だけ抱かれたくて、ぼく、ここに来たんだよ。そうしたら、もう来ない。迷惑もかけないし、二度と抱いてくれだなんて言わないよ。今夜だけでいいから…お願い。もうなにも訊かずに、なにも言わずに、抱いてよ。もし、あんたさえよかったら、だけど…」
顔を見たら泣いてしまいそうで、ぼくは目を伏せた。
口の中が苦い。なんてすべてが苦いのだろう。
タカハシがどう考えを巡らせていたのかは知る由もないけれど、沈黙はゆうに二、三分続いて、まるで針の筵にいるようだった。雨音だけが穏やかに続いていた。ぼくは半分、諦めかけた。
「分かった…」
タカハシが言った。それでも微かに迷っている響きだったから、目線をあげて確かめてみる。
タカハシはぼくを見つめたまま、もうからかうような微笑はなくて、なんとも図りがたい無表情を顔に浮かべている。それでもまなざしはけして冷たくなかったから、そこにだけぼくは寄る辺を得たような気持ちがして「ありがとう」と呟いた。
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