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前編

 近所で1番うまいラーメンの店に寄って、三連休を控えた週末なのでラーメンだけではなく餃子にビールまでつけて、30代だったならチャーシュー丼もいけたものをと思った。後はもう眠るだけだった。玄関をくぐり、寝室の扉を開けて、真っ暗の中スーツのままベッドに飛び込んだ。やわらかいマットレスを期待したのに、かたいかたまりにぶつかって飛び起きた。ベッドの中身がうめいた。明かりをつけた。布団から直樹の顔が出ていた。それが眉を寄せ、目を細めてこちらを見た。 「英治」 「直樹、おまえ何、どうした」 「熱。悪い。部屋。戻れなかった」 「熱って」  直樹の額に右手を当てる。よく考えると人の体温を手で測ったことなどほとんどないので、果たしてどれだけ信用できるものだかよくわからないが、熱い。 「え、医者は、薬は、飯は」 「医者は行った。インフルとかではないって。薬ある。食えてない。から飲めてない」 「わかった、買ってくる、お粥とかでいいのか」 「帰ってきたとこだろ。悪い」 「そんなこと言ってる場合じゃないだろ」  玄関に引き返して、スニーカーに足を突っ込んだ。表に出て、夜の風にもう一度吹かれたとき、そういえば、直樹の体に触ったのはいつ以来だろうかと思った。右手を自分の額に押し当てた。  コンビニで、レトルトの粥とスポーツドリンクとゼリー飲料を、3日はもつだけ買って帰った。部屋に戻ると、直樹はダイニングの椅子に腰掛けて、テーブルに突っ伏していた。どうやら着替える気力もなかったらしく、シャツにスーツのパンツを履いたままだ。 「起き上がっていいのか」 「起き上がらんと食えん」 「わかった。お粥出すな」 「悪い」  食器棚からどんぶりを見つけた。最後にいつ使ったのか自信がなかったので1度洗い、買ってきたレトルト粥をパウチから移した。電子レンジ500Wで2分40秒とパッケージの裏に書いてあったので、レンジをあたため3分間に設定してスイッチを入れた。直樹が言った。 「変だとは朝から思ってた。急に来た」 「仕事は」 「調整してきた。ヤバい。かもしれない。けど無理だった」  家具家電メーカーにカレンダー通り務めている英治と違い、都市型リゾートホテルの宿泊部で働く直樹は、週末、特に連休こそ忙しいはずだ。レンジが電子音を立てた。英治は丼をレンジから取り出した。温まった粥にスプーンを刺し、グラスにスポーツドリンクを注いで、直樹の前に置いた。直樹は顔を上げ、丼の中身をスプーンですくい上げて、口へ運んだ。 「悪い。自分の部屋まで行けなくて。おまえのベッドにいて」 「いや、あれ俺たちのベッドだし」 「この後はちゃんと部屋で寝るから」 「いやいや、あの狭いソファベッド」 「感染ったら困るだろ」 「じゃあ俺がおまえのベッドで寝るって」  直樹は英治を見て、はあ、と言った。 「いや、そのもちろん、おまえがよければ」 「わかった」  英治は立ったまま、直樹が粥とスポーツドリンクを胃に収めて、処方された薬を水で飲み込み、寝室に帰っていくのを見た。1人になってようやく息がつけた。すぐ眠る気にもなれなかったのでシャワーを浴びた。  直樹の部屋に入るのも久しぶりだ。デスク、クローゼットと小さな本棚、後はフルフラットになるソファがある。  フラットになったままのソファの上に毛布が1枚、畳んで置かれている。英治はソファに横たわり、毛布を首までかけた。他人のにおいがすると思ったあと、同じ家で暮らす男のことを他人だと思ったことに気がついた。  20年前、一緒に暮らすと決めたとき、男2人が楽に眠れるサイズの、それなりのブランドのベッドフレームとマットレスを、価格の面でも間取りの面でもいくらか無理をして買った。2人ともまだ20代だった。遅くまで働く夜も早くに出る朝も、1つのベッドに並んでいた。シーツには2人分のにおいが染み付いたはずだけれど、いくら鼻を押し当ててもよくわからなかった。  もう5年近く前になるか、直樹が宴会部から宿泊部に、管理職として戻ることになった。当面は忙しくなる、以前宿泊にいた若いころほどではないけれど、夜間の勤務もありうると思うと言われたが、英治は特段気にもかけなかった。休みが合わないのは何も今に始まったことではないと思った。気にもかけないでいるうちに、直樹は2人の寝室に入るのをやめた。いつの間にか、自室にソファベッドを運び込んでいた。  ソファベッドはかたくて狭く、おまけに毛布からは他人のにおいがするので、英治は何度も寝返りを打ち、1週間分の疲労が無理矢理に眠りを運んでくるのを待った。  結局は体が痛くて目を覚ました。時計を見るとまだ8時前だった。せっかくの連休なのだから、わざと寝坊してやろうと画策していたのに。とはいえ起きてしまったものは仕方がない。コーヒーでも飲もうと部屋を出た。寝室から声が聞こえてきた。何を言っているかはわからないが、仕事の話をしているのだろうことくらいは想像ができる。英治は廊下の壁にもたれ、直樹の声が途切れるのを待った。  寝室が完全に静まり返ってから、英治は扉をノックした。なに、と直樹が応えたので、入っていいかと尋ねた。ああ、と声が返ってきて、扉を開けた。ベッドの右半分が人の高さに盛り上がっているのが見えた。 「眠れたか」 「眠れた。悪い」 「飯は」 「食う。けどまず体温。体温計。どこ」 「そういやそうだな」  寝室はベッドだけでいっぱいで棚も何もないので、体温計があるとは考えにくい。この20年、体調を崩したことは2人ともほとんどないので、居間に置いているとも思えない。考えを巡らせたあと、英治は1度廊下に出て、物置の扉を開けた。備え付けの棚の1番上に、黄ばんだ救急箱があるのが見えた。箱ごと手にとって、中から体温計を取り出した。試しにスイッチを入れてみると、とりあえず数字は表示された。  ついでにと思い、脱衣所の箪笥から下着とパジャマ一揃い、大判のタオルを持ち出して寝室に戻った。直樹はベッドの上で上半身を起こしていた。思った通り昨夜のシャツのままだった。 「着替えも持ってきた。昨夜気が利かなかった」 「いや。それどころじゃなかった。クリーニングで済む」  直樹はシャツのボタンを半分開けて、体温計を脇に挟んだ。英治は直樹の喉元を見た。ひどく汗をかいている。 「仕事の電話してたのか」 「面倒かけるから。お」  音を立てた体温計を、直樹は目の高さに持ち上げた。 「8度2分。病院よりマシ」 「どんだけあったんだ」 「9度」 「着替えるか」 「ん」  英治は直樹の枕元に、着替えとタオルを並べた。直樹はシャツとアンダーシャツとをまとめて頭から脱いだ。50に手が届く年になっても相変わらず、適切なワークアウトで引き締められた体だ。英治は目を逸らした。 「飯用意するわ。またお粥だけど。座れるか」 「座れる。悪い。着替えたらいく」  英治はキッチンに戻り、直樹のために粥とスポーツドリンクと水、自分のためにブラックコーヒーを用意した。直樹の分だけテーブルに並べ、自分は今朝も立ったままコーヒーに口をつけた。パジャマ姿の直樹がのそのそとやってきて、椅子にかけた。 「おまえもなにか食べないのか」 「いらない。昨夜ラーメン餃子食ったからコーヒーで十分」 「体に悪いぞ」 「おまえに」  言われたくないと言いかけて、今は違うと思い直した。何か他の話をしようと口を開いて、なんの言葉もなく閉じた。  昔は、少なくとも5年前までは、会話の糸口くらいあったと思う。まる1日の休みが合わなくとも、平日の夜に時間を作って外に出るなり、ゆっくりと食事をするなりしていたから、次はどこに行くかとかこの間の店はどうだったかとかいった程度の話ならできた。休みをやりくりして、泊まりがけの旅行をしたことだってある。観光地を巡ってうまいものを食べて風呂に入って、重なり合って眠るだけだったけれど、それで十分だった。  直樹は黙々と粥を口に運ぶ。飲み込むたび喉が動く。昨夜はインスタントのたまご粥、今朝は同じメーカーの鮭粥だ。なにかもう少し代わり映えのするものでも出せればいいのだが、生憎と、1人で食事をとることの多かったこの5年の間に、料理らしい料理の仕方を忘れてしまった。キッチンに立つのは、どちらかといえば英治の仕事だったのだけれど。  直樹はスポーツドリンクで口を洗い、薬を飲んでまた、悪いなと言った。その悪いなを聞いて、英治はつぶやいた。 「そんな、悪い悪いって言うなよ」  直樹は驚いたようにこちらを向いた。 「せっかくの連休なのに迷惑かけて。悪いだろ」  しまったと思ったが、言ってしまったものは言ってしまったものなので、英治は返した。 「病気なんだから仕方ないだろ。というか、朝からきつかったなら朝のうちにそう言ってくれ」 「顔合わせなかったじゃないか。昨日の朝も」 「連絡一本スマホ入れてくれるとか、何かあるって。そうすれば俺も呑気にラーメンなんか食べてないで帰ってきたのに」 「子どもじゃないんだから自分でなんとかしようと思ったんだ」 「なんともなってなかったじゃないか」  直樹は顔をしかめた。英治は続けた。 「おまえあのベッド。あれじゃ風邪引いて当たり前だ。ちゃんと寝室で寝ろ」 「だっておまえはどうすんだ」 「寝室で寝る。看病ついで」 「感染るぞ」 「もう感染ってる」  直樹は呆れたように首を横に振った。 「俺は知らないぞ。どうなっても」 「いい。俺たちのベッドだ」  直樹はそれ以上言わず、食器を持って立ち上がった。英治は直樹から食器を奪い取り、食洗機に押し込んだ。

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