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後編
リビングのソファでスマートフォンをいじって1日が終わった。食事と風呂を終えて寝室に入ると、明かりがついたままだった。ベッドの右端が盛り上がっていた。
「なあ、もう電気消していい?」
「いい」
部屋の明かりを落とし、ベッドの左側に潜り込む。
「眠れそうか」
「ん。たぶん」
たぶんと言ってすぐ、直樹が咳き込む。
「ほら。絶対感染るぞ」
「だからもう感染ってるって言ったろ」
左側の壁に体を向けて目を閉じる。直樹が右側の壁を向いたのがわかる。昨夜はろくに眠れなかったので、すぐに意識が緩んでくる。直樹が寝返りを打つ。咳をする。眠気で頭がぼんやりとする。また寝返りを打つ。心底大丈夫かと思う、重たい咳の音がする。せっかくぼんやりとし始めた頭が起きだしてしまう。布団の端を強く掴む。咳の合間に直樹が言う。
「おまえこそ。眠れないだろ」
英治は体を直樹の方に向けた。背中があるのがわかる。息を止めて手を伸ばす。指先が背骨に触れる。そのまま手のひらをつけ、首元から腰の間を撫でる。直樹も息を止める。英治が息を吐く。直樹はまだ止まったままだ。と思ったとたん、また咳き込んだ。何度も何度もその背中を撫でる。熱い。確かに、こんなに熱くはなかったはずだ。
「熱。まだあるな」
「そうだよ」
「ほんとに眠れそうか」
「いや。ほんとのところ眠れそうにない」
「俺も」
手を止めると直樹が深呼吸した。もうどうとでもなればいい気がして、背中にあった手を頭に持って行った。髪に指を絡ませて、ぐしゃぐしゃとかき乱す。
「わ、ちょっとおまえ、なんだよ」
「や、久々に触ってるなと思って」
「久々にって」
「だってそうだろ。あー緊張した」
「こっちの台詞だ」
「なに。緊張したの」
直樹がふんと鼻を鳴らす。
「そりゃそうだろ。何年ぶりだ」
「もう5年ぶり」
「そうか。そんなになるか」
髪に絡ませていた指で直樹の頭を掴む。
「おい、だからなんなんだよ」
「頭皮マッサージ」
「なんでそうなる」
直樹が笑ったと英治は思った。顔は見えないけれどたぶん笑った。笑ったよなと聞こうとしたとき、直樹が体をこちらに向けて言った。
「もう5年も一緒に寝てなかったんだな」
「そうだよ。あの俺たちが」
「あのってなんだ」
「それはおまえ、身に覚えがあるだろ」
「品のない言い方だな」
「品のないこと考えたのか。品のないやつだな」
同じベッドで眠らなくなったのが5年前、2人で暮らし始めたのが20年前、出会ったのはもう25年前になる。運命的な出会いではちっともなく、セックスの相手を探す場でのことだった。英治が1人ぶらぶらとしていると、直樹は当然のように寄ってきて、あんたよさそうな男だなと言った。英治は、あんたこそ悪くなさそうだなと言った。若い、ほとんど底なしの欲をお互いに抱えていた。探り合いを早々に切り上げてセックスをした。散々英治を受け入れた後、直樹はにやにやと笑って電話番号を渡してきた。どう考えても複数の男に同じことをしてきた態度だったけれど、どうでもよかった。1週間も空けずに連絡を入れた。俺週末休みじゃないんだよねと言われたけれど、それがどうしたというところだ。平日の夜に何時間も体を重ねて、翌朝早々から仕事に出る体力があった。3度目は直樹から声がかかった。4度目も5度目も、2人とも夢中だった。
直樹が上半身を持ち上げた。喉の鳴る音で、サイドボードに置いてあったスポーツドリンクを飲んでいるのがわかった。
「やっぱ俺いない方が楽か」
同じベッドで眠るとなると、健康な側に感染る感染らないではなく、病人の負担になるのではないか。そのくらいのことは日中に思い当たっていたが、どうしても折れる気になれなかった。
「いや。ちょっと寝付き悪いだけだから」
「まだきついんだよな」
「熱のきつさはマシ。あとは咳。それとこのベッド、おまえのにおいがするから」
何度も会ったのはセックスがよかったからだけれど、何度も会った結果、セックスをするだけの知り合いをやめてもう少し親密な関係を築こうとしたのは、隣にいてそれなりに居心地がよかったからだと思う。だからこそ、多少の面倒事を乗り越えてでも2人で暮らし始め、大きなベッドをひとつ買って、並んで眠り続けた。それが今では、おまえのにおいがするから、なのだから笑ってしまう。
目を開けると天井が見えた。隣に首を向けると、布団がめくれてシーツが露出していた。跳ね起きた。まさかと思いながら寝室を出ると、直樹はキッチンに立っていた。鍋を2つ並べて湯を沸かしていた。英治を見て、おう、と言った。
「いやおまえ、熱は」
「7度2分。お粥じゃないもの食べたくなって。せっかくだから食う? 卵とじうどん、きざみ油揚げ入り」
「卵だの油揚げだのあったか」
「俺はちょいちょい自炊してんだ。おまえと違って。で、食べる?」
「食べるけど」
「わかった、ちょっと座っとけ」
病人が立ち仕事をしているというのに座っているのも落ち着かない。せめてなにかしている風には見せたくて、2人分の箸と水、直樹の分のスポーツドリンクをテーブルに並べた。直樹は冷凍のうどんを大鍋で茹でて、別の鍋で作っていた、きざんだ油揚げの卵とじスープと一緒に丼によそった。1人ひとつ丼を運び、向かい合って座った。
「いただきます」
「いただきます」
直樹は箸を取り、うどんを啜った。英治は丼を持ち上げ、スープを飲んだ。つゆの甘みと卵のだし、油揚げの深みが口の中で混ざり合う。
うどんをきれいに食べきってから、英治は言った。
「おまえ、昨日の朝眠れたって言ってたの嘘?」
「なんで」
「寝付き悪いって昨夜は言ってただろ」
「ああ。嘘じゃない。一昨日はとにかく体辛くて薬飲んだらすぐ寝れたんだけど、昨日はちょっと落ち着いてきた分、気になって」
「俺もおまえのベッド、おまえのにおいがして眠れなかった」
「そりゃ5年も別々に寝てりゃな」
「おまえ、なんでベッド買ったの」
「いや、お互い忙しいから別のベッドもあった方がいいよなって、2人で言っただったろあのとき」
「は?」
「は?」
直樹はぽかんと口を開けたあと、おまえ、と一音ずつゆっくりと言った。
「おまえんとこのほら、なんかトースターとかノンフライヤーとか。そんなのが売れて売れてしょうがなくて朝から晩まで働かないといけないって、あのころ言い出しただろ」
噛んで含めるような口調を聞いているうちに思い出してきた。ちょうど直樹が異動になったころ、英治の会社の出した新作のトースターが、値段の割にデザインが小洒落ていて性能もいいというので、当初期待していた以上のヒットを記録した。それがきっかけになって、似たようなデザインコンセプトを打ち出していたノンフライヤーや電気圧力鍋にまで評判が及んだ。メディアの取材を受けることもぽつぽつと増えた。英治自身は製造、営業の最前線ではない本社内勤だが、影響を受けないはずはなかった。
「俺は俺で持ち帰り仕事もあったし。寝起きする時間があんまり合わないとお互いきついから仮眠ベッド買うかって言ったらおまえ、わかったって言ったろ」
「全然覚えてない」
直樹はため息を吐いたあと、でもまあ、と言って後ろ頭を掻いた。
「おまえ、あのときもう忙しくてそれどころじゃなかったんだろ。俺だって、変な時間に寝るときに使う仮眠用のつもりで買っといて、結局毎晩そっちで寝るようになっちまったし」
「そう、何も毎晩あんな、かたくて狭いとこで寝なくてもいいじゃないか」
「そうなんだよな。でも1度別で寝るようになったら、あっちはおまえのための部屋のような気がしてきて、入りづらくなって」
直樹が丼2つと箸2膳を重ねて持ち、席を立った。英治は直樹のパジャマの裾を掴んだ。
「なに」
「いや、その、俺が運ぶから」
「そこまで辛くはないけどな」
直樹はまた腰を下ろし、テーブルに肘をついて、組んだ両手に顎を載せて言った。
「帰ってきてもう明かりが消えてても、前は普通に寝室に行って、寝てるなって考えながらベッドに入れたんだけど。疲れてるところ起こすかもしれないって思うことが増えた」
「わかるけど。でも俺たち、ベッドで会わなくなったらちっとも顔見ないんだな」
「そりゃまあ、ベッドから始まった仲だしな」
「品がないぞ」
「わかってる」
直樹が笑った。つられて英治も笑った。直樹が続けた。
「おまえ、今日何してるの」
「別に、なんかいいドキュメンタリーとかそういうの探して見ようかと」
「悪いなせっかくの連休に」
「いや外出る元気ないし別に、あとその悪いなはあんま言うなっていったろ」
「悪い」
「いやだから」
「わかったって。な、俺隣で本でも読んでていいか」
「いいけど体」
「そんな辛くないんだって。これ飲んだら治まる」
直樹は風邪薬を口に放り込み、コップの水で飲み下した。その唇を見ながら、5年も経つのか、と英治は思った。
月曜の朝、2人はほとんど同時に起き出した。直樹がパジャマからシャツとパンツに着替えているのでどうしたのかと聞くと、熱引いたから家でできる仕事やる、まだ様子見で出社できないからと返ってきた。
直樹が仕事をしている間に、英治は1人で買い出しに出た。近所のスーパーで、ネット上のレシピを見ながら食材をかごに入れた。家に戻ったのは正午前だった。玄関に上がると、自室から出てきた直樹がおかえりと言った。これも久しぶりだなと思いながらただいまと言った。
「何買ってきたんだ」
「昼飯作ろうと思って。クリームパスタ。食える?」
「食える。ちょうど食おうと思ってたとこ」
直樹が寄ってきて、買い物袋の中身を覗いた。その横顔を見て、英治はとうとう決心した。直樹の肩に手を置いた。は、とでも言いたげな顔に顔を近づけて、唇を柔らかく重ねた。触れ合った瞬間直樹は目を開いていた。そのあとは、英治の方が目を閉じたのでわからない。しばらくそのまま立っていた。
唇が離れたとき、直樹はわあ、とつぶやいた。
「おまえいきなりそれは、いきなりはないだろ」
「していいかって聞いた方がよかったか」
「そういうことじゃなくて、ってかおまえ」
直樹は人差し指の先で、自分の下唇を何度か撫でた。
「おまえ、こんなかわいいキスできたんだな」
英治は顔をしかめた。
「なんだその言い種」
「いやなんていうか、もっとえげつなかったイメージが」
「えげつないとか言うな」
言って、もう1度キスした。直樹の腕が背中に回ってきた。片手で抱き返した。長いキスを終えて体を離した。
「えー、だから、とりあえず作るなクリームパスタ」
「手伝う」
「いいよ、病み上がりは座っとけ」
「最近料理してないんだろ」
「大丈夫だって。レシピ通りやれば」
「てか顔赤」
言われて、英治は頬に手をやった。確かに熱い。
「感染ったか」
「違う」
「じゃあなんだ、照れてんのか」
熱がまた顔に上がるのがわかった。このやろうと思い、このやろうと言う。5年もしてなかったんだから仕方ないだろ。続けると、直樹が愉快そうに笑った。
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