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1 後悔しない人生がよかった
時計の針が午後十時を指す。
「僕がミスしたせいなのに……」
「ダブルチェックしたのは私です。なのに……課長、本当にいいんですか?」
「いいよいいよ。あとは俺に任せて」
一時間前と同じことを言われて、二人はさすがに折れてくれた。
明日から有給休暇の山田くんも、重そうな腹をした佐藤さんも、何度も頭を下げてオフィスを出ていく。
すると、自分ひとりになる。
デスクに座り直し、パソコンと向き合った。こうやって残業を肩代わりすることは苦ではない。趣味や家庭、やるべきことがある人はそれを優先したほうが良いし、誰がやっても同じなことは暇な人間がやればいい。
俺の場合、定時退勤できたとしてもやることといったらスーパーで弁当を買って、家でテレビをだらだら見るだけだ。そう考えれば仕事をしているほうがよっぽど有意義な人生に思えた。
キーボードを叩き、書類をめくる音が静かな空間に響く。
自分の仕事も片付けて、トラブったデータの修正も終わらせる。あとは顛末をまとめた引継書を作成するだけ。
「ふぅ」
時計は日付の変更を伝えている。
窓の外を見れば、東京の地上はまだ明るく、真っ黒な空を薄ぼんやりと照らしていた。
……みんな、仕事してるなぁ。
こんな生活をしている人間が自分だけじゃないことに、どこか安心してしまう。
窓ガラスに自分の姿が反射していた。
赤茶けた地毛に白髪が混じっている。少し伸びたな、今度切るか。
それにしてもくたびれた顔だ。黒い瞳に光がない。年相応の顔と思うべきなのだろうか。
来週には三十歳の誕生日が来る。死んだ母の代わりに家事をして父を支え、高卒で働いて……もう三十路。時の流れはあっという間だ。
「痛っ……!?」
背中に違和感があり、座りっぱなしが良くなかったかと立ち上がった。
声にならない悲鳴を上げる。――俺は床に倒れ込み、胸を押さえてのたうちまわっていた。
(痛い痛い痛い! これ心臓だ! ……死ぬ!)
人生で経験したことのない激痛。鋭利な刃物で何度も胸を刺されているみたいだった。
あまりの痛みで起き上がることもできない。机の上のスマホがはるか遠くに感じる。
パニックになった頭は「死ぬ!?」「こんなところで」「これで終わり?」「誰か助けてくれ」を一瞬で思考し、次の瞬間にはなぜか自分の人生を振り返り始めていた。
(い、イヤだ……走馬灯なんて……! 本当に死ぬみたいじゃないか!)
ずきん、ずきん、ずきん。
どき、どき、どき。
あのころ――子供のころの俺は、緊張しいだった。
幼稚園のお遊戯会では脇役の代名詞たる《木の役》だったくせに、本番でガチガチに固くなって、心臓が喉から出そうになっていた。
劇が終わった後、先生は褒めてくれた。ホッとしたのを覚えている。
あのときの俺がああも緊張していたのは、自分が余計なことをしないか怖かったからだ。
だから、ホッとすると同時に虚 しくも感じていた。
別の人間がやっても、同じ言葉をかけられただろうから。
木 に個性はいらない。
余計なことさえしなければ、誰がやっても百点満点。
思い返せば、俺の人生はあのときからずっと《木の役》だ。子供時代も、社会人時代も。
長い闘病の末に亡くなった母にとっても、後を追うように亡くなった父にとっても、幼い俺は子供ではなく、天へ飛び立つまでの止まり木に過ぎなかった。
『課長ってさ、良い人なのに独身だよね』
『だってねぇ、誰にでも気ぃ使い過ぎっていうか。男ではないなって思うよ』
『こんな部署に配置されてニコニコ働いてるのもなんか、欲ないよね』
『無趣味らしいし、生きてて楽しいのかな?』
『アハハッ、それは言い過ぎ』
『いやでも、あたし課長のこと好きだよ。あんな良い人いないもん』
『わかるわかる、幸せになってほしーよね』
(こんなこと、思い出したくない)
走馬灯って悪夢って意味なのか。
卑屈な大人に育ち、別れを惜しむ相手もいないからこんな悪夢しか見れないのだろう。
思い返せば、親にも、友達にも、同僚にも、さしたる思い出がない。薄っぺらい関係 しか築いてこなかったから。
──つまらない人生だったな。
ぜんぶ自分が悪い。
褒められても素直に受け取れない。感謝の言葉も受け流してしまう。相手の好意と目を合わせられない。
木 らしくしてくれてありがとう、そんなあなたが好き──そう言われているように聞こえるからだ。俺が俺を殺していることを祝われている。
そこまで自覚があって、いつまでも当たりさわりのない善人ぶる。
嫌われるより、うわべだけでも愛されるほうが良かったから。
ずき、ずき、ずき。
心臓が痛い。悲しいからじゃない、おそらく物理的に心臓の血管が詰まって痛い。
呼吸もおかしくなってきた。これは本当に死ぬのかも。
「仕事……終わってない……」
最期の言葉が、これか。
■ ■ ■
「……!?」
ハッと飛び起きた。
しわくちゃのワイシャツをまさぐり、胸を確かめる。痛くも苦しくもない。
心臓が規則正しく脈打っている。
「生きてる……」
生還を喜ぶのも束の間、風に撫でられて気付いた。
オフィスじゃない。ここはどこだ?
ざわざわと木立が揺れる。四方どこを向いても同じような景色に囲まれていた。
「東京にこんな森、ないよな? ――……おーい!」
遠くへ声をかけるが、当たり前のように返事はない。
満月に薄い雲がかかり、世界がほんのり暗くなる。
どんどん心細くなっていく。
ちゃり、と手元で金属の擦れる音がした。
覚えのないネックレスが右手の中にある。品のあるシンプルなチェーンに、宝石が嵌 ったペンダントトップ。アンティークっぽいデザインだ。
ずっと握りしめていたらしく、手のひらに痕がくっきりとついている。どうして気付かなかったのだろう。
「一体いつから手に持ってたんだ……」
へくしゅん。くしゃみが出た。
ジャケットがないせいで肌寒い。
緊張で汗ばむ手をスラックスで拭き、ネックレスを持ったまま立ち上がる。
ポケットにも地面にもスマホは見当たらなかった。
足もとの土を革靴の踵で掘り起こし、バツ印を描く。印を起点に周囲を探索しようと考えたからだ。
何もわからないままじっとしているのも不安だった。
「誰かいませんかー……」
獣道のようなものがうっすらある。それをたどって歩き出す。
そうして俺は、ばっちり死にかけることになった。
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