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4 食われたくないなら、食われるしかない?【2】
昔、何かで読んだことがある。
鞭の先端は音速を超え、肉をたやすく切り裂き、骨を砕くとか。
どう弁明したらいい?
盗んだつもりはなかったんだ。助けてくれ。どうか。
自分が覚えていないことの言い訳などできるもんか。
冷や汗をかくことしかできなかった。
――俺の顔をじっと見ていた男が、ふいに笑いだした。
「くくっ……ははは! 鞭で打たれると思ったか?」
「えっ?」
くっくっと喉の奥で笑いながら、男の手から鞭が黒い霧になって消える。
……打たれずに、済む?
「危機を感じたら魅了能力 で私を操ろうとすると思ったが……その気配がないところを見るに、力を制御できないようだな」
もしかして、俺の出方を見るためにわざと怖がらせてた?
ひ、ひどい。こっちは自分の無力さに打ちのめされてるというのに。これ以上ビビらせても何も出ない。出せたとして小便くらいだ。いいのか、この高価そうな絨毯 台無しだぞ。
気が抜けて床にへたりこむ。
震える手を相手へ差し出し、ネックレスを見せた。
「あなたのものなら返します……」
「よろしい」
手の中が軽くなる。
男はそれ以上、何も言ってこなかった。「なぜ」とか「いつ」とか、聞いてこない。
盗まれたことを気にしてない? そんなまさか。
「それにしても、おまえの血は言いようがないほど馨 しいな」
しゃがみこんで目線の高さが同じになった男の手が、俺の顎に添えられた。
目と目が合えば、その顔の造形の美しさに何度だって驚く。
月の光のような色の瞳は神聖ささえ感じる。冴え冴えとした切れ長の目にすっと通る鼻筋。薄い唇のほのかな血色が男のくせに色気があって、つい視線を逸らしてしまう。長く艶やかな黒髪は吸い込まれそうで、夜闇の擬人化のような人だ。
「かぐわ……? よくわからないけど、年齢的に体臭を指摘されるの心にクるので……勘弁してもらえませんか」
「なら、体質を制御できないくせに一人でノコノコ出歩くな、迷惑だ。――今までどうやって生きてきたんだ?」
「丸の内で会社員してましたけど……」
「マル……?」
「あ、はい、この森で目覚める前の記憶がなくて」
嘘はよくないが、そういうことにしておいたほうが良さそうだ。
東京丸の内をまったく知らない大人はなんだかおかしい。彼らのファッションといい、ファンタジーなあれそれといい、ここが日本ではない可能性を受け入れつつある。
「記憶を? ならば名前も思い出せんのか」
「いえ、それは……大丈夫そうです」
「ふむ。家はわかるか?」
「帰れなくて迷ってたらああなりました」
「なるほど」
男が踵を返し、階段を上がっていく。
黙ってその後ろ姿を見ていると、不思議そうに彼が振り返った。
「来ないのか」
ついて行っていいんだ。
追うと、書斎のような部屋に案内された。
高級そうな書斎机の手前に、ローテーブルと長ソファがある。来客用だろう。
「そこに座れ」
うながされるままソファの隅に座った。クッションのふわふわさに少し驚き、上等な暮らしの片鱗を感じる。
彼は書斎机の引き出しを開け、ハンカチと小さな器を取り出した。
かたわらの水差しとグラスが置かれたトレーを引き寄せ、トレーの上でハンカチを濡らして絞る。
「傷を拭いて、これを塗っておけ。傷の治りが早くなる」
ハンカチと小さな器を手渡され、戸惑ってしまう。
このくらいの傷で人様のものを借りるなんて、恐れ多いというか。
「え、でも」
「そのクサい傷を一刻も早く塞げと言っているのだ」
「すみません……」
ハンカチはぎょっとするほど手触りが良く、汚していいのか躊躇 するほどだった。
器のほうは丸くて平たい。フタがついていて、開けるとクリームのようなものが入っていた。乳白色で特に匂いはしない。指ですくう。おそるおそる腕の傷に塗ると、沁みることもなく馴染んでくれる。
「おまえ、名は?」
「……三ノ川 早閧 です」
「良い名だな。私はジェードでいい」
器のフタを閉じるタイミングを見計らって、彼はハンカチと一緒にそれを回収してくれた。礼を伝える。
「ハヤトキ、森の風紀を乱されると困るのだ。私の領地にいる以上は私に従うように」
「あの……《私の領地》ってことは、あなたは地主? 領主? なんですか?」
「ここ、大陸の南東を包括するヴィニは、魔王が私に任せた土地だ。私はヴィニ辺境伯ジェード・ドラキュリア。……この名も風化しつつあるということかな」
「ヘンキョウハク……」
すごい人なんだぞ感は伝わってくるけど、ぜんぜんわからない。申し訳ない。
「さて、ハヤトキ、街への道を教える。少し遠いが数日歩けば着く。魔除けの携帯灯 も餞別 にやろう。返さなくていい」
あ、これは《今すぐ出ていけ》の意だ。
どうやらジェードは俺を早く領地から追い出したいようだ。
返さなくていいというのも、二度と来るなという意味だろう。
余所者がトラブル起こしているのだから、自然な流れではある。
だが、《数日歩く》が《少し遠い》か。夜にあんな森を野宿しながら突っ切らせようというのはなかなか……。
無茶振りをわかって言っているのか、それとも俺の可能性を信じてくれているのか。
ここまできたら、かえって肝も据わってくる。
流され続けていると身の危険が悪化するだけということがよくわかったから。
勇気をふりしぼって、交渉をこころみる。
「あの……今夜だけでも泊めてくれませんか? 朝になったら出ていきますし、その、死なない程度なら血を捧げるので、なーんて……」
男の目の色が変わる。
その言葉がどんなにうかつだったか、後悔先に立たずだ。
近づいてきた男に腰を抱き寄せられた。耳元でくすぐったく囁かれる。
「本気で言っているのか? 吸血鬼に血を飲まれることがどういうことか、知らないのだな」
俺はきょとんとしてしまった。
日常で聞かないワードを聞くと、脳が理解するのに数秒を要してしまう。
狼男に人魚ときて……吸血鬼?
「お……俺も吸血鬼になってしまう、とか?」
いつの間にかネクタイを緩められ、ワイシャツのボタンをひとつ外されていた。
「バカを言うな。種族を変えるなんてこと、魔王ほどの力がなければ無理だ」
じゃあなに、と思う矢先に首筋を噛まれた。
答えを身体で理解させられてしまう。
──牙を突き立てられた痛みが熱に変わり、燃えるような快感に変わる。
あふれる血を舐め取られれば、身悶えするほどの心地に困惑した。
「あ、あぁあ……!?」
痛いのは最初の一瞬だけ。それきり。
その後はずっと、甘く疼く快感があるばかりだ。
じゅ、じゅる。
血をすする音が耳元で鳴っている。妙にいやらしく聞こえて耳を塞ぎたかった。
「っぁあ……!」
生暖かい舌が皮膚を撫でる。
血を絞るように出血箇所を扱かれるたび、ビクンと腰が跳ねてしまう。
「~~~っ……!」
無意識に男の服をつかみ、しがみついていた。
なんだこれ。捕食行為だろ? こんな感覚、普通じゃない。
赤くなってしまった顔はもう仕方がないが、せめて声だけは漏らしたくない。恥ずかしい。
感じている ことを悟られまいと、唇を引き結んで必死に耐えた。
最後にねっとりと舐められると、不思議な力で出血が止まったのがわかる。
「は、ぁ……っ、ぁ……っ」
男が離れると、俺はぐったりとソファへ倒れ込んだ。
余韻が長く、どきどきする高揚感がおさまらない。
みっともなく呼吸を乱したまま、呆然としていた。
なんだったんだ、今の。
強烈すぎる……。
ジェードはおもしろいものでも見るように、やんわりと笑う。
「……ふ、生娘のような反応をするのだな」
ただでさえ熱い顔から火が出るかと思った。
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