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50 決闘の日【2】

 衝撃はいつまでもこなかった。  なのに生暖かい飛沫が顔にかかり、肉が破壊されるイヤな音が聞こえる。  自分が目を閉じていることに気付いて、おそるおそる前を見る。  そこにはジェードの背中があった。  彼の右腕がもぎ取られている。 「そこまでこの人間が大事か?」  ベクトルドが腹立たしそうにジェードの腕を放り捨てた。 「ジェー……ド、腕……!」  驚きのあまりかすれた声しか出ない。  (うつわ)の水をこぼしたように、真っ赤なそれがびちゃびちゃと床を叩く。 「ベクトルド、いくらおまえでも私のものに手を出して良い道理は無いぞ。次は無いと思え」 「わかったわかった。こいつの無礼はおぬしの腕に免じてやる」  ジェードが右肩の断面を左手で覆った。黒い霧がそこを包み、一時的な止血をする。  床に広がった血溜まりを見て腰が抜けそうだった。握るナイフでそれ以上を流そうとしていたのに、怖気(おじけ)付きそうになる。  ……違う。こうまでなってしまったのだから、なおのことやり遂げなくては。  こちらの都合などあっちには関係ない。リオンが地面を蹴り、接近するのが見えた。  すると、足元から黒い影が無数に伸び上がり、棘のある(つる)となって彼と使役獣を拘束する。ジェードがやったようだ。  それが数秒の時間稼ぎにしかならないのは見てわかる。 「やはりおまえは屋敷に帰るべきだ」  ジェードは振り向かずに背後の俺へ声をかけた。  俺の周囲に黒い霧が集まってくる。リオンの拘束にも力を使っているからか発生が遅い。──それは俺にとってのありがたい猶予だった。このまま足だけ引っ張って退場なんて、許されるはずがない。 (俺がジェードを守るんだ……!)  握りしめたナイフを振り上げ、自分の腹へ突き刺した。 「い゛ ッ……!!」  あまりの激痛でキィーンと耳鳴りがして、意識が飛びかける。  思わず手を離しても、深く刺さった刃が抜け落ちることはなかった。息をするたび熱く痛む。  血の匂いにいち早く気付いたジェードは驚いた顔で振り向きながらもすばやく俺から離れた。自分が理性を失うわけにはいかないという、とっさの判断だろう。  黒い霧も動揺のせいか消えていた。 「ハヤトキ、何をしているッ!?」  ジェードの悲鳴じみた呼びかけに返事する余裕はない。  力の入らない手で柄を握り直すと、その振動だけで絶叫しそうになる。奥歯を噛みしめ、勢いづけてナイフを引き抜いた。  熱の中心から血があふれ、シャツを、ズボンを染め上げていくのがわかる。自分の体内の温度が外に流れ出ていく。  ベクトルドは顔をしかめて袖で鼻元を覆った。  そして──予想した通り、リオンも使役獣も、興奮した様子で霧の拘束を破り、ジェードから俺へ矛先を変えて向かってくる。 「よせ!!」  ジェードが駆け寄ろうとしてベクトルドに羽交い締めにされていた。  魔王の力で、黒霧になって移動する術も封じられているらしい。押さえつけられ、跳ね除けようとする筋力の戦いになって、ジェードの額に青筋が浮いていた。  にやにやと笑うベクトルドは、俺が奇行に走ったことに興味が湧いて顛末を見届けたいのだろう。……それだけじゃないかもしれない。彼がリオンを(うしな)って苦しんだように、ジェードにも同じことを味わわせたいんだ。  衝撃を受けて視界が揺れる。リオンが突っ込んできて地面に押し倒されたのだ。したたかに後頭部を打ちつけて目が回る。  魔物としてか、それとも勇者としての力なのか、魔法の刃をまとった彼の爪が俺の身体を引き裂いた。ちっぽけなナイフの穴がばっくりと割れ、血だけじゃない中身までぶちまけられて──。 「~~~~~ッ!!」  痛みを通り越して吐き気がした。声が出ない。  一方で、だんだんと自分の身に起きている苦痛が他人事みたいに感じはじめた。脳が早くも死を察知して、痛覚を遮断した結果かもしれない。気がつくと痛みは鈍い麻痺感に変わって、身体の感覚が消失する。 「離せ!」 「なんだあの人間の血肉は。おぬし、わざと黙っていたな?」 「リオンにあんなことをさせるな、ベクトルド!」 「わけてやってもよかろう」 「おまえというやつは……ここまで……!!」  遠くに口論が聞こえる。  視界がかすむ。  身体が揺れて、自分が食べられている音だけが聞こえる。  リオン、これで良かったのかな?  なぜか俺の中にある女神の加護ごと捕食されれば、力を取り戻したリオンは復活して、みんなが救われるルートにもっていってくれるんだよな。 「ギ……!」  ふいに捕食が止まった。食べたがる身体を見えない力が抑えつけるようだった。──リオンの身体をベクトルドが制御してるんだ。  食事の中断は困る。心臓を食べてもらわなければ苦しみ損の無駄死にになるのに。 「おぬし、人間の国へ竜を遣わせただろう? 我に隠し通せると思ったのか? 何を考えている。やはりもう、おぬしは我の臣下(とも)ではないのか」  ああ、とことん俺の存在が話をややこしくしている。  俺を安全な場所へ送ろうとしていただけなのに、人間と裏で手を組んで魔王へ仕掛けようとしているように見えたのだろう。リオンが予言した「ジェードは裏切る」という言葉を支えてしまった。  ベクトルドは、ジェードが一番傷つくタイミングでリオンに俺を殺させるつもりかもしれない。  良くない。何もかも。  でももう身体が動かない。 「ま……お……」 「! リオン……!?」  かすかな声が聞こえて、皆がびっくりする。それがリオンの声だったからだ。  真っ先にベクトルドが反応していた。  魔王の力に支配されているはずの彼が、自発的に発言することなどありえるのだろうか。ベクトルドの驚いた声色から、想定外の事態だとわかる。  俺の血肉を介して女神の加護(チート)が少しずつ彼に戻っているのかもしれない。  封印された意識(たましい)が目覚め始めている。  けれど、完全に復活したようには思えないから、やはり俺の中にあるすべての加護を彼に移さないといけないのだろう。  動揺するベクトルドの隙をついてジェードが拘束から抜け出し、すばやく俺を回収してリオンから距離をとった。  しっかりと抱きかかえられている。ぼんやりとした視界に愛おしい姿が見えた。  力を振り絞って唇を震わせると、彼が耳を近づけてくれる。 「心臓、リオンが……食べれば、ぜんぶうまく、いく、から……。頼む、ジェ、…ド……」 「な…にを言っている。そんなことより、治療を──」  小さく首を左右に振った。  もともと俺は死んだ身だ。  ジェードやロコやバウや、ベクトルドやリオン。友達の幸せを祈って死ぬなら、何もなかったあのオフィスでの終わりかたよりずっとずっといい。  ようやくわかった。  神様は俺に、死になおすチャンスをくれたんだ。  やるべきことをまだ成し遂げられてはいないけれど、ジェードがいるなら大丈夫だ。  ロコのときと同じ。筋が通っていれば鞭を振るえる彼なら、やってくれるはず。  もっと説明してあげたいが、疲れ果てて目を開けてるだけで精一杯だった。  視界がぐらぐらして、どれくらいまぶたが開いているかは定かではないが。 「ダメだ! ここで死ぬのがおまえであっていいはずがない! ハヤトキ!」  俺のほうへ這ってくるリオンが見える。  指示していない動きなのだろう。ベクトルドはもう俺たちのことなど眼中にないようで、イレギュラーと化した──まるで生き返ろうとしているような──リオンを見つめている。  意識を取り戻したリオンが、愛するベクトルドではなく俺のほうへ向かうことにも戸惑っているようだった。  だが、俺の血肉を食らって自我を取り戻したことを思えば、さらなる栄養を求めているのだと予想することは難しくない。 「ベク……トルド……、ご……めん……、ごめ、ん……なさい……」  あのプライドの高そうなリオンが、魔王ともう一度話すために砂埃にまみれて這いずっている。 「ごめ……なさ……、ご……──」  この場に裏切り者なんていない。  人間を嫌い続けるために、リオンの手も、ジェードの手も振り払ってしまったことを、ベクトルドはきっと自覚している。  だからこそ、引っ込みがつかない。今更取り戻せないものばかりだから。手の中に残したものまで捨てたらもう何も残らない。  でも、失ったはずのリオンが戻ってこようとしているいま、彼はどうするのだろう。  ──もっと見届けたかったけど、俺は意識を失った。

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