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第1話

***  電子レンジと壁の間に誤って落としたレシートを取ろうと腕を伸ばしていたら、リビングの方からスマホのバイブ音が聞こえてきた。アラームをセットした覚えはない。通知音の正体は電話だろう。 「く、っそ」  着信音に急き立てられるように、綾戸希声(あやときこえ)は肘の先をぐっと伸ばした。  二本の指を使って、薄い紙を外に引っ張り出す。近くの公園脇にある弁当屋で、さっき買ってきた昼飯のレシートだ。そこの弁当屋ではわざわざ催促してレシートをもらおうとする客は珍しかったのか、昼時で忙しそうに立ち回っていたパートらしき中年女性に睨まれた。  希声は雑所得で生計を立てている、いわばフリーランスだ。すべての買い物に関して、レシートや領収書はいただいておきたい。さすがに近所で購入した一人分の弁当が、経費として認められるとは思わないけれど。  レシートに絡まった埃をさっと手で払い、希声は冷蔵庫にマグネットで張り付けた。まだ鳴り続ける主を迎えに行く。デスクの上で震えるスマホを手に取る。 「はい」  相手も見ずに電話に出ると、久しぶりの声がした。 『おつおつおっつっつー、俺だけどよ』  俳優養成所時代の同期で、現在は小劇場の舞台で脚本兼演出をやっている和気文字(わき)だ。希声と同じ二十九歳とは思えないぐらい軽いノリと、挨拶代わりの独特な出だしだけで特定できる。  突発的に電話をしてきたときは、だいたい飲みの誘いか演出業のアシスタント、もしくはワークショップの手伝いの依頼だ。一度だけ公演日の二日前に飛んだ役者の代わりに代役を頼まれたことがあるが、和気の書いた脚本が前衛的すぎるために二日で役作りできる気がしなくて断った。 「今日はなに。ワークショップの手伝いしか受けないぞ」  和気からの依頼や誘いの中でも、一番楽かつまだ金になるもので先手を打つ。  希声はスマホを片手に、最近購入したゲーミングチェアの背もたれにもたれかかった。スマホの音設定をスピーカーにして再びデスクの上に置く。 『なに、今日機嫌悪い感じ?』  和気の割れた声が部屋に鳴り響く。 「べつに。今月は金がないから、金にならない手伝いなら断ろうとしてるだけ」 『金がないだ~? 嘘つけ。この前言ってただろ。投資とかニーなんちゃらとかやってるって』 「NISAな」 『あーそれそれ』 「パソコン一式新しくしたし、来月はカメラも欲しいから今月は節約してんの」  目の前には、先日買い換えたばかりのモニターが二台ある。これはさすがに経費で落ちるだろう。というか絶対に落としてやる。 『またまたぁ。持ってるんだろ? 実際のとこさ』  やけに金のことばかり聞いてくる男を不審に思い、希声は低い声で「金は貸さないからな」と伝える。  和気は『ちがうちがう』と慌てた声で否定した。どうやら金を借りたいわけではないらしい。和気によると、養成所時代の同期が再来月に入籍するとのことだった。結婚式は挙げないそうだが、先日他の同期数名で集まった際に祝い金を渡そうという流れになったと説明した。 『それぞれ経済状況もあるだろうし、祝い金を渡せるか渡せないかは一応こうして聞いて回ってるんだけどさ』 「その様子だと全然集まってねえんだろ」  和気は『くぅう~っ』と悔し泣きの真似をした。  養成所に所属していた当時の仲間には学生や社会人もちらほらいたけれど、大多数がフリーターだった。養成所を卒業したあと、そのまま芸能プロダクションや俳優・声優事務所に所属できた者でさえどれだけ稼げているか知らない。事務所にも会社にも所属できず、結局フリーターのまま年を食っている同期も多いはずだ。他人にあげる金なんてない、自分たちの生活や趣味で手一杯だと言われても頷ける。  細々とはいえ、自分は好きなことや投資で生活や将来の資金準備ができている。『フリーランス』と名乗れる自分も和気にまだ成功している方なのだろうと思わざるを得ない。 「いいよ。祝い金出せるやつらの相場は?」  ケチっぷりを全面に押し出していたためか、和気はまさか希声が一口乗るとは思っていなかったようだ。『え? まじ? ほんとに?』と驚きの声を放った。 「三万なら、まあ。普通の相場もどうせそれくらいだろ。今調べるけど」  スリープ中だったパソコンを、マウスを動かして起こす。  稼働を始めるハードウェアの音とともに、起動したままのウェブカメラがモニター画面に見慣れた自分の顔をパッと映す。思わず画面から目を逸らした。 希声は自分の顔があまり好きじゃない。  センターパートのショートヘアは栗色で癖がなく、水に漬けたビー玉のような青みがかった目を囲むのは雰囲気のある気だるげな二重。昔祖父母の家で見たロシア人の曾祖母の写真は、驚くほど自分にそっくりで美人だった。曾祖母の血を色濃く継いだせいか、希声は日本人離れした容姿をしている。  そのくせ小ぶりの鼻と唇は日本人由来で親しみやすさもあるように見える。良く言えば愛嬌のある顔立ちらしいが、悪く言えばお高く留まらない。ようは舐められてしまうのだ。この顔で得したことはないこともないが、苦い思い出の方が多い。  自分の顔に被せるように、さっさと検索エンジンを立ち上げる。【結婚 祝い金】と入力し相場を確認する。 「へー、結婚式をしない場合は一万でいいんだと。知らなかったわ」 『三万はさすがに俺も厳しいわ』  来月年下劇団員との間に子どもが生まれるという和気は弱気な声だ。

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