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第1話 渉の狭い世界
一寸先も見えない闇の中、蛍石が灯す僅かな光を頼りに駆けていた。
渉は夕餉を腹がいっぱいになるまで食べていて、父の背に乗せられていた。
揺れる振動と顔に当たる風が面白くて笑い声を上げたが、父も母も恐ろしい形相でやめろと言うものだから、渉はしゅんとなって大人しく父の背にしがみついていた。
聞こえるのは風を切る音と、両親の弾む息と、母の啜り泣く声だけだった。
森をしばらく進むと、次第に後ろから低く怒鳴る声が聞こえてきた。
最初はなんだかわからなかったが、待てと言う言葉に、それが自分たちに向けられているものだと理解した。
何が起きているのかわからない。
それでも、恐ろしいことはわかった。
体を固くした渉の背を母が撫でた。
少し顔を後ろに向けて見れば、微笑む母がいてくれた。
だが、次の瞬間、その顔がふっと消えた。
「春子!」
「行って! 渉をお願いっ!」
母は木の根に足を引っ掛けて転んでしまった。
それなのに、父は引き返して母を助け起こすことなく走り続ける。
「父ちゃん、母ちゃんは? 置いてかないでよ! 母ちゃんっ……母ちゃん! 父ちゃん!」
「ごめん、春子……っ。ごめんな、渉……」
母がどんどん遠ざかる。
父の懺悔と苦しげな息遣いが聞こえる。
渉は叫ぶことしかできなかった。
松明の灯りが迫り、辺りは昼間のように明るくなっていた。
村の顔見知りの男たちが何十人も渉と父を追いかけてきていた。
逃げて、逃げて、逃げて。
そして、いつの間にか大きな川に追いやられていた。
父が昨日までの雨で増水した川に入るのを躊躇った一瞬の隙に、渉は父の背から無理矢理引き離された。
「やだ! 父ちゃん……っ父ちゃん!」
「渉!」
渉は村でも一番体格のいい男に抱えられていた。
そして、父は何人もの男たちに地面に押さえつけられていた。
「大人しくしていれば捧げる日まで共に暮らせたものを。愚かな……」
低くしゃがれた声が、呆れと憐憫と嘲笑を含んだ呪いの言葉を吐いた。
それが合図だったのか、鉈を持った男が父の傍に立った。
その鉈はすでに誰かの血でべっとりと濡れていた。
それが振りかざされ、松明の灯りに煌めいた。
「父ちゃん!」
渉の声も虚しく、それは無情にも父の首を目掛けて振り下ろされた。
*
「ああああああああああっ!」
叫び声で目を覚ました。
ドクドクと迅る鼓動が、勝手に上がる息が苦しい。
汗をびっしょりかいていて、纏わりつく寝巻が気持ち悪い。
「嫌な夢だ」
渉は悪夢を振り払うようにかぶりを振ると、立ち上がって濡れた寝巻きを脱ぐとそれを丁寧に畳んで格子の際に置いた。
ついでに厠で用を足した後、竹の籠の中に畳まれていた手拭いを取り出し、木の桶に汲まれた水に浸すと、それで全身を拭った。
まずは顔を。
それからすらりと伸びた腕、男らしく角張った肩、肉付きのよくない胴回り、歩かないために細くなった足。
そして、陰毛に隠れた秘部。
割れ目のあるそこを綺麗に拭うと、手拭いをまた桶の水に浸して洗い、畳んで寝巻の上に放り投げた。
竹の籠から着替えの着物を取り出すと、素早く体に巻きつけて帯を締めた。
足首まで伸び放題の黒髪は項の辺りでひとつに括る。
布団を畳んで壁際に置かれた机を出せば、朝にやることは終わりだ。
布団と厠と着替えなどを置く場所のみの、格子で外界と隔離されたとても狭い部屋が渉の世界だった。
ここに放り込まれたのは、渉が三歳の時だった。
訳もわからず両親を殺され泣き喚く渉を、大人たちは暴力で黙らせた。
騒げば殴られ、蹴られる。
それを覚えた渉は、諦めたふりをして大人しくすることにした。
すると、僅かばかりの食事を与えられ、格子越しに顔が皺くちゃ爺から文字や算術を教えられた。
答えられなければ木の棒で激しく折檻され、飯は一日抜きになる。
生きるために、両親の仇をとるために、渉は必死になってその地獄のような日々を過ごした。
幼なくとも、厳しい教育を受けていた渉には知恵があった。
それを理解していなかった世話役の下女たちは、渉をただの幼な子だと油断し、格子の前で仕事をサボりながら色々と喋ってくれた。
曰く、渉は神に捧げられる贄である。
外見は男だが性器が女である者、あるいは外見が女で性器が男である者。
これら半端者は、神が好んで食べるらしい。
そして、その見返りとして村を豊かにしてくれるという。
前回、半端者が捧げられたのは百年ほど前。
渉は外見が男で性器が女の半端者であり、久方ぶりの神への供物なのだ。
その名誉な役を渉の両親は拒んだ。
だから報復されたのだ。
下女たちは美しい容姿にそぐわぬ下劣な言葉で渉とその両親を貶めた。
暴れて殴りつけたい衝動に駆られたが、それをしてしまえばまた痛めつけられる。
警戒を強められ、逃げられなくなる。
渉は拳をきつく握りしめて、わからないふりをした。
だが、下女たちには感謝しなければならない。
両親が殺された理由と自身が閉じ込められている理由がわかった。
そして、神に捧げられるのは初潮を迎えてからだということを知った。
学問しか教えられていない渉に初潮が何のかはわからなかった。
それでも、体に起こる何かであることはなんとなくわかった。
それから数年が経ち、格子の隙間から体が抜け出せなくなる前にと逃亡を図った。
外に出て、久しぶりの新鮮な空気を吸った。
そして初めて、自身が閉じ込められていたのが村長の屋敷の地下にある牢だとわかった。
見つかる前に逃げようとした時、運悪く見回りの男に見つかった。
走って逃げようとしたが、渉はまだ子どもで、しかも数年閉じ込められていたためにまともに走ることができず、すぐに男に捕まった。
集まった村の男たちと村長らの話し合いで、渉は右の脚の腱を切られた。
そして、またこの狭い牢に閉じ込められた。
それからまた十数年が経ち、今もまだ渉は籠の中の鳥だ。
今年、渉は十八になる。
女は十三、四のころに初潮を迎えるというが、渉にはまだその兆候すらなかった。
村長や教育を施す爺は首を傾げ、世話役の下女たちは出来損ないの半端者だと嘲笑った。
それでも、贄にされなければ勝機はあると信じ、息を潜めて耐えてきた。
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