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第1話 筋トレ中毒者の成れの果て
施術台の上にうつ伏せになると、体の上にふわふわのバスタオルが掛けられた。
それは仄かに柔軟剤の匂いが香り、自然と体から力が抜ける。
温かく大きな手が背中に二つの円を描くように滑り、真ん中に戻ると真上から優しくゆっくりと力が加えられた。
適度な圧は疲労を蓄積した体に心地いい。
ふぅ……と息を吐き出して目を瞑り、これから訪れる癒しの時間に備えた。
だが、元の位置に戻った背中が押されることはなかった。
その代わり、頭上から地を這うような低い声が落ちてきた。
「勝間さん?」
「は、い……」
この山下整骨院に通って早一ヶ月。
院長である山下咲良がこんな恐ろしい声を出せるなんて知らなかった。
先程までの柔らかな声からは想像できないそれに、大河はぎくりと体を跳ねさせた。
「三日前に僕が言ったこと、忘れちゃいました?」
「いえっ……、その、ごめんなさい……」
「筋トレはダメですって。筋肉を休ませないからこうやって固くなるんです、よっ」
「いっ⁉︎」
山下に説教されながら肩甲骨についている僧帽筋をぐりぐりと指圧されるとツキンと痛みが走った。
運動しているはずなら柔らかい筋肉は少しばかり固くなっている。
こうなってしまったのは大河の趣味のせいだ。
大河の趣味は筋トレだ。
警備員である大河は空港保安警備業務に就いている。
空港の保安検査場で乗客の身体や荷物を検査するのが仕事だ。
時には危険物を持ち込もうとして駄々を捏ねる困った客の対応もするのだが、その時に有効なのがこの厳つい体格と顔だ。
二メートルに近い高身長に、柔道で鍛えた厚みのある体。
髪は邪魔にならないように短く揃えており、きりっと上がった濃い眉と一重瞼の目は鋭く、下がった口角は常に不機嫌に見える。
加えて、ドスの効いた低い声。
これが大河の普通なのだが、耐性がなければ恐怖でしかない。
大河が応援に駆けつけると、困った客はそれまでの横柄な態度から塩を振ったナメクジのように萎縮して大人しくなる。
そのため、大河は複数ある保安検査場の中でも中央に位置する場所が担当で、困った客の連絡があるとその現場に駆けつけるのだ。
だが、ごく稀にそれでも騒ぎ立てる輩もいて、そういった場合は実力行使に出ざるを得ないこともある。
そんな時、見た目だけのハリボテでは意味がない。
月に数回ある会社の訓練に加え、週に一度は子どものころから世話になっている柔道の道場に通い、それ以外の日は退勤後にジムで筋トレに励む。
はじめは義務感でやっていたことだが、今では立派な筋トレ中毒者だ。
そもそも、アフターファイブや休日に過ごす相手がいない。
仕事ではきちんとコミュニケーションを取れるのだが、プライベートになった途端に化けの皮が剥がれる。
厳つい顔のせいで怯えられ続けた大河は、立派なコミュ障になっていたのだ。
同僚たちはそのことに気付いてくれていて、休憩中などに気が抜けてコミュ障モードになっている大河には仕事中よりも段違いに優しくしてくれる。
とてもありがたいのだが、コミュ障のせいで一人が好きと誤解され、会社全体の飲み会は誘われるが有志の飲み会には誘われない。
否定しようにも口下手で誤解を解けないでいる。
しかも、親しみを込めて『牛頭馬頭の勝間』なんて呼ばれている。
これも筋トレ中毒を加速させるガソリンにもなった。
近頃、大河は誤解を解くのを諦めている。
広がりすぎた大河の人物像は同僚たちに浸透しているからだ。
だがいいのだ。
鍛えた筋肉は裏切らないのだから。
ところが、一ヶ月前に体に違和感を感じた。
上半身の筋肉の要でもある肩甲骨の筋肉――僧帽筋――が僅かに動かしにくくなっていたのだ。
これまで感じたことのない不調に大河は不安になった。
ジムの更衣室で近くの整骨院や整体院を検索し、一番評判が良かったのが山下整骨院なのだ。
その翌日、大河は山下整骨院に足を踏み入れた。
施術者が院長の山下しかおらず完全予約制ではあるが、運良くキャンセルが出てすぐに予約ができたのだ。
山下は大河と同じくらいの身長と体格ではあるが柔和な顔立ちをしている。
少し癖のある栗色の髪に平行な眉。
二重瞼の目は垂れていて、血色のいい桜色の唇は弧を描いている。
低いけれど落ち着きのある声は聞いていて心地よく、大河をリラックスさせた。
山下は大河のペースに合わせてゆっくりと聞き取りをした後に全身を触って体の状態を確認した。
そして告げられたのは大河にとってショックなものだった。
「筋トレのしすぎで筋肉が固まってきています。筋膜炎の一歩手前ですね。悪化させないためにも筋トレはしばらく控えてください」
筋トレは大河の生きがいと言ってもいいものだ。
それを取り上げられたらどうしたらいいのかわからない。
余程悲壮な顔をしていたのだろう。
山下は筋トレの休止期間中にするべきストレッチを丁寧に教えてくれた。
なるほど、こういった対応が人気の理由なのだろうと大河は頷いた。
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