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第2話 山下からの誘い
それから週に二日の頻度で山下整骨院に通っている。
その間、当然道場通いも筋トレもやめて家で映画を見たりしてゆっくりと過ごしていた。
だが、筋トレをしていないと落ち着かない。
筋トレ中毒者に筋トレ禁止令は過酷な試練だった。
そしてとうとう我慢できなくなり、一昨日と昨日、自宅で筋トレをしてしまったのだ。
それは山下に易々と見抜かれてしまい、彼の怒りの起爆スイッチを踏み抜いてしまった。
大河はカタカタと体を震わせた。
「治す気あります? なければもうここには来ないでください」
「そんな⁉︎ 治す気あります!」
山下から冷たく告げられて大河は勢いよく振り返ると、そこには無表情の山下がいた。
大河は初めて見るその表情が恐ろしくて目尻に涙を溜める。
迷惑な客や赤の他人にならいくら嫌われたって痛くも痒くもない。
だが、同僚や山下のように親しくなった人には嫌われたくない。
特に山下に見放されれば大河の素敵な筋トレライフが遠のいてしまう。
自分が悪いのは承知の上だが、それだけは何としても阻止したかった。
「本当に?」
「本当です!」
何度を首を縦に振ってアピールする。
それが功を奏したのだろう。
山下は徐々に表情を緩ませ、ついには顔を綻ばせた。
「いいでしょう、勝間さんを信じます。でも、次はありませんからね」
「はい……! ありがとうございます」
「じゃあ続きやりますから顔を伏せてください」
「はい」
大河は山下の指示に従い、診察台にぽっかりと空いている丸い穴に顔を突っ込んだ。
それを確認した山下が背中を優しく指圧する。
山下の施術は素晴らしい。
痛くもなく物足りないでもない適度な圧が加えられ、まるで寝かしつけされているような心地になるのだ。
それでいて全く揉み返しがなく、日常生活に支障が出ない。
こんな腕のいい人をなぜもっと早く見つけていなかったのか。
大河は初めて山下の施術を受けた時、あまりの悔しさに涙を流したほどだ。
「それで? なんで筋トレしちゃったんですか?」
体を揉み解されウトウトしかけた頃、山下の柔らかい声が落ちてきた。
大河は夢地心地の中、それに応えた。
「筋トレしていないと落ち着かなくて」
「そこは他のことで気を紛らませましょう。何試しました?」
「映画です」
「最低でも一時間はありますよね。ダメでしたか」
「じっとしていることができませんでした」
見ていた映画はアクション映画だ。
俳優が敵と戦っている姿を見ると体を動かしたい欲が刺激されてウズウズとしてしまう。
特に、殺陣が現実でも使われる技だったり美しかったりすると余計に興奮する。
かといって恋愛ものを見ていると途中で飽きてしまう。
暇つぶしに映画を見るのは大河に向いていなかったのだ。
「なるほど。それでしたら料理はどうですか?頭使いながら体も動かしますし」
「実家でキッチン出入禁止を言い渡されていたくらい下手くそなんです」
あれは小学六年生の時だ。
家庭科で習ったカレーを自宅で作るという課題があり、料理担当の父に見守られて作っていた。
にも関わらず、大河はカレーを焦がしてしまったのだ。
子どもだから仕方がない。
そうフォローされて酷く落ち込むことはなかったが、決定打は中学二年の時だ。
朝、出勤が早い母を見送り、体調の悪い父のためにおかゆを作っていたら、なぜか炭混じりのおかゆが出来上がったのだ。
レシピ通りに作ったのにおかしい、と思っていたのは大河だけだったようで、両親から一人の時はキッチン出入禁止を言い渡されたのだ。
高校生になってからは、父の監督の下であればまともに料理を作れるようになったが、一人でやるとやはり炭混じりの料理が出来上がる。
一人暮らしを始めてからは料理をしておらず、キッチンは物置と化している。
「まさかとは思いますが食事はプロテインだけなんて言いませんよね?」
「……鶏胸肉やサラダも食べています」
筋肉のためにプロテインと鶏胸肉、サラダを食べている。
今のプロテインは優秀だ。
サプリメントのように様々な栄養素が入っているし、味も種類豊富だ。
大河はその時々の気分によってプロテインの味を変えて飲んでいる。
それが本来の食事からすると不健康であることはわかっているが、料理ができない以上他に選択肢がないのだ。
「その間で察しました。今日、この後時間あります?」
「えっと、はい」
「僕が筋肉にいい食事の手本を見せますので、僕の仕事が終わるまでストレッチして待っていてください」
「いいんですか?」
大河は山下の誘いに飛びついた。
ちゃんとした食事にありつくのは先月のお盆に合わせて帰省した時以来、一ヶ月ぶりだ。
想像しただけで大河の口内に唾液が溢れ出す。
「見てられないから言ってるんです。あとはちょっとした事務処理だけですし。ちなみに僕の家、この上です」
「通勤が一分以内っていいですね」
「楽ですよ……っと。はい、これで終わりです。じゃあストレッチ、お願いしますね」
「はい」
山下が背中から腰を撫でると大河の体から離れる。
至福のひとときが終わってしまった。
大河は名残惜しくなりつつも、彼の指示のとおりストレッチ用にマットが敷かれたスペースに向かい、腕を交差してストレッチを始めた。
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