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第1話 36の言葉で紡ぐ物語 1

1 奇蹟 生まれた時や場所、育った環境が違う2人が何億人もいる地球で出逢い、想いを通じ合わせる。それがどんなに奇蹟であるか。俺はそれをよく理解している。なぜなら、俺にはその奇蹟が起こっていないからだ。これは罰なのだろうか。同性の幼馴染を好きになった俺に何の罪があるのか。誰か、教えてくれ。 2 序章 物語を書く上で大切なのは序章だ。この先を読みたい。続きが知りたい。読者を物語に引き摺り込み、文字の海に溺れさせる。そのために心血を注いで言葉を紡ぐ。作家はすべからく現代に生きるセイレーンで、俺はその群れの片隅に縮こまっている1人だ。俺は今日もパソコンを前に、真っ白な海に飛び込む。 3 物語作家 幼馴染は物語作家だ。二十歳の時にコンテストで大賞を獲り作家デビューを果たした。大学は卒業したが、そのまま作家として生計を立てている。本人はしがない作家だと言っているが、彼の本はどれもベストセラーとなっている。彼の欠点は自己肯定感が低いことと、執筆を始めると寝食を疎かにすることだ。 4 求める 目の前にことりとカップが置かれる。淡い黄色の水面からは白い絹髪が靡いていた。鼻腔を擽る甘い匂いに唾液が溢れ、体が求めるままにそれを飲み干す。温もりが体中に染み渡り、糖分が疲れた脳を癒すと同時、脳裏に映像が流れていく。そのすべてを表現したい衝動に駆られ、再びキーボードを叩き始めた。 5 独白 驚くべきスピードでキーボードを叩く幼馴染は、コーンスープを差し入れた俺に気付くことはない。筆が乗った彼は、あと3時間は目まぐるしく手を動かし続けるだろう。その間に俺は掃除をし、風呂と食事の準備をする。「好きだ」彼の背に向けて溢した俺の独白は、今日もまた彼の耳に届くことはない。 6 もうすぐ 「もうすぐ授賞式なんだ」身の回りの世話を焼いてくれる幼馴染に報告すると、彼は雪解けから顔を出した福寿草のように口元を綻ばせた。彼の控えめな笑みは美しい。物語を編むことしかできない俺にできる、彼への唯一の恩返し。それは誰もが知るいずれかの文学賞で賞を獲り、名を揚げることだ。 7 承諾 授賞式と同時に開催されたパーティは盛況に終わった。その後は家で2人きり。気兼ねなくホールケーキを切り崩す。高いシャンパンを飲み干して酔いが回ると、授賞式で彼に纏わりついていた女の姿が過った。彼を横取りするな。俺は醜い衝動に駆られ、承諾を得ないまま彼の薄い唇に噛みついた。 8 拒絶 不意に押し倒され唇を貪られる。幼馴染の蛮行は許し難く、蹴り飛ばすことで拒絶する。だが、彼からの口付けに心が震えた。なぜ。彼の体は戦慄き、顔からは血の気が引いていた。彼は今にも倒れそうな顔をしているというのに脱兎の如く玄関を飛び出していく。俺は焦燥に駆られ、すぐさまその後を追った。 9 まばゆい 愚行を悔いても時は戻らない。彼の隣に居続けるために心を殺し忍び耐えてきた。それを壊したのは他ならぬ俺だ。なぜ。こんなに苦しいのなら、この気持ちなど消えてしまえばいい。そうしたら、また彼の隣に立てるだろうか。青信号の横断歩道に差し掛かる。まばゆい光に包まれると同時、体が宙に舞った。 10 役割 信号無視の車に跳ねられたというのに、幼馴染は軽傷だった。だが意識はまだ戻らない。俺の役割は彼の家族に連絡を取ることと、新幹線の距離にいる彼らが病院に到着するまで付き添うこと。俺はどうすればよかったのだろうか。彼の白皙の顔を見つめても、答えは泡沫となり弾けて消えていくばかりだった。 11 だれ? 消毒液の臭いが鼻につく。瞼を上げると、見覚えのあるような、ないような、1人の男が憔悴しきった顔で俺を覗き込んでいた。「だれ?」掠れた声が白い空間に響く。すると、目の前の彼は静かに涙を溢した。それはとても儚く美しかった。それと同時に、身を引き裂かれるような胸の痛みと悲しみが襲ってきた。 12 食事 幼馴染が記憶喪失になった。彼は今、13歳だ。俺と彼は保育園からの仲で、13歳までの俺を覚えていた。大人になった俺を見て驚き、そっと涙を拭ってくれた。彼は精密検査で未だ入院中だ。コンビニ弁当を砂を噛むような思いで嚥下する。彼が作る温かな食事が恋しい。俺は弁当の半分を残したまま箸を置いた。 13 鍵 目を覚ましたら10年以上時が進んでいて驚いた。俺は大学の学食の管理栄養士として働いているらしい。仕事は休職し、ある程度記憶が戻るまでは作家になった幼馴染の家で暮らすことになった。合鍵で玄関を開錠する。気分は高揚しているのに胸が締め付けられるように苦しい。この奇妙な感覚は、なんだ? 14 声もなく 何かが違う。気付いたのは彼と暮らし始めてすぐだった。今の彼の瞳には青く澄み渡った友愛しか写っていない。それじゃない。彼の硝子玉には、凪いだ朝のような、ひと匙の温もりがあった。それが、彼の劣情をひた隠しにしていたのだ。声もなくはらはらと涙の粒を散らす。今更悔いても時は巻き戻らない。 15 装飾 幼馴染の名を呼ぶ度に期待と落胆の表情を向けられる。彼が求めているのは記憶を失う前の俺だ。それを理解した瞬間、ビルの屋上から突き落とされた気がした。その日から俺は俺の装飾を身に纏った。家事をこなしボロボロの管理栄養士の教科書を開いて食事を作る。それなのに、彼の表情は晴れないままだ。 16 真似る 元の自分を真似ることはしなくていい。早く仕事に復帰しようとアルバムや参考書を捲り興味深げに凝視する彼は、家事に対する礼を伝えた時に現れるはにかむような笑みは、空に散った宝石のように美しく魅力的だ。でも、どこかであの視線を探している。彼の好意に胡座をかいた報いを今まさに受けている。 17 バウンダリー 記憶が戻る順番はバラバラだが、仕事内容を思い出したため復職を果たした。けれど、幼馴染に関する記憶は霞のように掴めない。まるで俺自身が思い出すのを拒否しているようだ。記憶喪失になる前後の自分のバウンダリーは溶け合いつつあるのに、彼のことだけが磁石のように反発して弾かれている。 18 幕間 高校と大学との幕間で、彼は俺に秘めた熱を告げてきた。勘違いだろうと受け流すと、彼は「そうだな。忘れてくれ」と明るく笑った。そして、次の瞬間から幼馴染として俺の隣を歩き始めた。あれは彼の精一杯の強がりだったのだと、今ならわかる。消えない心の熾火が何年も彼の心も焼き焦がしていたのだ。

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