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第3話 始まった大学院生活

 スパルタなレッスンの成果で授業に躓くことはなく、イーサンと会話を積み重ねたお陰で友人関係も問題ない。  会話が多少変になったところで、まだ本調子じゃないんだなと心配されるだけ。  イーサンの人徳と友人たちの人の良さに救われてばかりだ。    それに、イーサンの下を離れて俺に付いてきたヨセフは相変わらず無表情だけど、さりげなくフォローしてくれる。  ありがたい話だ。    でも、イーサンに会う前に俺の服を容赦なく脱がせて風呂に入れたのだけは根に持っている。  それをわかった上で、毎日俺の体を隅から隅までピカピカに洗う彼は、きっと俺のことを犬か何かだと思っているに違いない。    順風満帆な大学院生活も楽なことばかりではなかった。  イーサンの専攻は言わずもがな治癒魔術。  新たな治癒魔術の開発を目指す教授の下で学んでいる。  通常の授業の先をいく魔術の研究開発は、難しいがとても面白い。   「はじめまして、イーサン・アクロンです。よろしくお願いします」 「ダニエル・ギレーデだ。よろしく」    そこでペアを組んでいるのが一学年先輩のダニエル・ギレーデだ。  平均よりも高い身長と逞しい筋肉。  煌めく銀髪と海のような瑠璃色の瞳。  俺やイーサンとは反対にキリッと上がった眉尻と目に、への字に曲がった口元。  顔が整っているのもあって、無表情だと怒っているみたいで胸がドキドキする。    常にそんな顔だから、最初はてっきりいつも不機嫌なんだと思っていた。  けれど、ひと月も一緒に過ごせばそうじゃないことがわかる。  この顔が標準装備なだけだ。    格好いい顔なのにもったいない。  ちょっとでも笑えば、その辺の女性だけでなく男性もフラフラと寄ってくるだろうに。  そんな外見だけど、話しかければ普通に返してくれる。しかも面倒見がいい。   「あ? 治癒魔術と上級ポーションによる裂傷の再生速度と効果の差異について述べよ?」    最終時限が終わり、自習室としても開放されている研究室で俺は頭を抱えていた。  最初こそ順調に滑り出した勉強だが、当然ながら少しずつ難易度は上がっていく。  治癒魔術は、元々父さんからマンツーマンで教えてもらっていた。  学校ではないために教科書はなく、感覚で魔術を覚えていく方式だ。  だからなのか、理論や統計を用いる課題が出されると途端に目が滑って設問も読めなくなる。    うーん、うーんと唸っていると、右からスッと一冊の本が差し出された。  はっと顔を上げると、むっすりとした顔のダニエルが音もなく佇んでいて、心臓が跳ね上がる。   「えっと……?」 「その本に各階級の治癒魔術師とポーションの効果比較の統計が載っている。治癒速度は『上級治癒魔術のすすめ』に書いてあるが、これは図書館の閉架書庫にあるから司書に声をかけて借りればいい」 「ありがとうございます。助かります」 「あの教授、毎年資料探しで困惑する学生を見て面白がってるからな。良い趣味してるよ」    やれやれといった様子で僅かに笑うと、ダニエルは俺の肩をポンと叩いて励ましてくれた。  そして、俺の隣に座ると、静かに自分の課題を消化し始める。    うっわぁ……この人、無自覚人たらしだ!    俺はありがたく本を受け取ってペラペラと捲り始めたが、頭はダニエルの微笑に占領されていた。  普段は無愛想な人の、時折見せる笑み。  それがほんの少しであれ、破壊力は抜群。  見るな触れるな危険とはこの人のことだ。  今のはさっぱり忘れて集中するぞ、俺。    雑念を払い、気合を入れて再び課題に向き合うこと数十分。  俺は統計と睨み合いをしていた。    このグラフは何なんだ。  読み解きにくいことこの上ない。  なんで縦軸の数値の単位が治癒魔術とポーションとで違うんだ。  腹立つ!   「イーサン落ち着け。ここだけ地震が起こっている」 「え? ……あ、すみません」    ダニエルに指摘され、俺は激しい貧乏ゆすりをしていることに気が付いた。  イライラすると出る悪い癖。  父さんからも人前ではやめなさいと言われて気を付けていたのに、まさかこんなところで悪癖を晒してしまうなんて。  ダニエルが置いたカップの中の紅茶がゆらゆらと波立っていて、さらにバツが悪くなる。    気まずくて視線を彷徨わせていると、ダニエルはことりと椅子を寄せてきた。  清潔感のあるせっけんの香りがふんわりと漂う。   「どこがわからない?」 「えっと、このグラフです」 「ああ、それか。七ページ後に計算式が書いてある。それに当てはめれば単位が統一できるぞ」 「ありがとうございます」 「どういたしまして」    ダニエルは俺にヒントを与えると、椅子の位置をことりと元の場所に戻して自分の課題に戻っていった。  彼はいつもこうなのだ。  俺が勉強でわからないところがあると、頼んでもいないのに教えてくれる。  教えると言っても少しずつヒントを出してくれるやり方で、決して安易に答えを導こうとしない。  甘やかすのではなく、さりげなく助けてくれるのは好感を持てる。    でも、完璧主義であるが故に少々面倒くさい。  長時間考えても理解できない問題があると、ダニエルは言葉を変えて解説し、何度も教えてくれる。  それはありがたいんだけど、俺がきちんと理解するまでダニエル教室は終わらない。   「あっなるほど。わかりました」 「……じゃあこの問題は? わかったんなら解けるよな?」 「ぅえ! えっとぉ……」 「イーサン?」    知ったかぶりをすると、冷たい視線とともに低い声で名前を呼ばれる。  悪いのは適当に流そうとした俺だ。  それは認める。    ただ、これが物凄くおっかない。  嫌な汗が浮かぶし、怖すぎて体がカタカタと震える。  割と早い段階でこれを食らった俺は、ダニエルを怒らせてはいけないと学んだのである。    完璧主義は勉強だけにとどまらない。  夏真っ盛りの昼下がり。  ダニエルと研究室に向かう途中、俺は暑さに負けてネクタイを緩め、第一ボタンを開けた。  これは夏になると誰もがやっていることで、特段珍しいことではない。   「ちゃんとネクタイ締めろ」 「いや、他の人もやってますよ?」 「他人は関係ない」    だというのに、ダニエルはそれを許してくれない。  俺の前に立ち塞がると、手早くボタンを止めてネクタイをキュッと締め、ついでに形を整えてくれた。    他にも、強風で髪がぐしゃぐしゃになったりすると、移動時間中は俺の後ろに控えているヨセフよりも先に手直しが入る。  さらに、俺が食堂で肉増し増しの料理を頼むと、必ず大盛りのサラダを持ってくる。  おかげで偏った食生活とは縁遠い。   「おい、トレチコを俺の皿に入れるな」 「だって苦いし」 「子どもか」 「子どもでーす……もが!」    ついでに好き嫌いも矯正された。  ダニエルは動体視力と運動能力を遺憾なく発揮し、俺の口の中に避けていた食べ物を突っ込んでくる。  それが嫌なら自分で食べろと言われればそれまでだ。  どうせ食べるなら自分で、となるのに時間はかからなかった。    細かいところまで完璧を追求するところは面倒くさい。  けど、なぜか居心地がいい。  慣れない貴族として、学生として、イーサンの代わりとしての生活の中で、唯一肩の力を抜けるのがダニエルの隣だった。    ヨセフといる時も気が抜ける。  でも、彼は執事だ。  イーサンの代わりだとしても俺を主人として扱い、一歩引いた場所にいる。    先輩後輩の関係だけど、対等な立場で一番心を通わせているのは間違いなくダニエルだ。  彼から受け取る親愛はゆっくりと心に降り積もり、やがて大きな山になった。    名前がわからない山だったけれど、それがわかったのは冬の始まりのころ。

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