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第5話 失ったもの

 目を開けた時、体を襲ったのは強烈な喪失感だった。  何かを失った。  でも、何を?  失くした物が何かわからないのに、涙が溢れて止まらない。    不可解な喪失感は不安を呼び、次第に息苦しくなっていく。  空気を求めて体を起こすと、今度は激しい目眩と吐き気が襲ってきた。  我慢することなんかできない。  咄嗟に体を横にしてベッドに倒れ込み、喉元まで迫り上がったものを思い切り吐き出した。  でも、吐き出したのは黄味がかった胃液だけ。  繰り返しえずいては液体を吐き出し、白いシーツを汚していく。   「ぐ、ぇ……っぉ、う……!」    何が起こっているのかわからない。  どうして。  なんで。  苦しい  助けて。  ダニエル……!    そしてまた、俺は意識を失った。    次に起きた時、汚れたベッドも服も綺麗になっていた。  ベッドの傍らにあるサイドボードの上には水差しが置いてある。  ノロノロとそれに手を伸ばし、緩慢な動きで温い水を口にした。    でも、三回嚥下したところで思い出したように目眩と吐き気に襲われる。  堪らず嘔吐したが気分は良くならない。  寧ろ悪化し、またもブラックアウト。    それを何度繰り返しただろうか。  五回?  十回?  とにかく数えきれないくらいだ。    意識が保てる僅かな時間でわかったのは、ここが一年前に僅かな期間を過ごしたアクロン家の塔だということ。  気を失っているうちに、体とベッドを清められているということ。  そして、実父が約束を破って俺を自由にしないことだ。    イーサンは無事に魔術大学院に行けたのだろうか。  忌み子ではないイーサンは大切に育てられてきた。  きっと元気になっているはず。    問題は父さんだ。  俺がここに軟禁されている以上、父さんがアクロン家に何かされていてもおかしくない。  父さんが危ない。  早くどうにかしてここから出ないと。    気は急くのに、体が思うように動かない。  もどかしくて、嘔吐の合間に漏れる悪態が止まらない。  謎の体調不良は、父さんの下で助手をしていた時にも聞いたことがない症状だ。    でも、確実に、少しずつ体は回復していっている。  喪失感は続いているが、目眩と吐き気がなく起きていられる時間が増えた。  夢と現実の狭間で、少し乱暴な手付きだが誰かに体を清められ、治癒魔術がかけられているのも認識している。  まずは確実に逃げ出せるまで体を休めることが第一だ。    やがて、日中、薄らと意識を保っていられるようになると、あれこれ考える余裕が出てきた。  どうやって逃げ出すか。  色々な方法を考えてはボツにし、これだというものはしっかりと頭に残しておく。    けれど、その思考の片隅には常に最愛の人の歪んだ顔が居座っていた。  あんな顔、させるつもりはなかった。  いや、もしそうなら、ダニエルが寝てからベッドを抜け出せばよかったんだ。    なのに、敢えて体の自由を奪ってまで別れの言葉を告げたのは、イーサンと入れ替わるのに支障があったからだ。  イーサンは何も知らない。  俺と入れ替わって、まさか大学院で恋人がいるなんてことになったら驚くだろうし、受け入れられない。  だから、手酷く振ったんだ。    ……いや、違う。  俺を忘れてほしくなかったから。  この先、誰かと結婚することになったとしても、一生俺のことを引きずっていてほしいからだ。  俺の身勝手なエゴでダニエルを傷付けた。  俺は最低最悪のゴミクズ野郎だ。    ここから出て父さんとイーサンの無事を確認したら、ダニエルに会いに行く。  そして、すべてを話して謝りたい。  ああ、でも。  これも俺のエゴだ。  ダニエルは俺の顔なんて見たくないのかもしれない。  いや、そうに決まっている。  会ったら追い返されるだろう。  そもそも、エリートである魔法騎士の彼に会う術もわからない。  それでも、やっぱり会いたい気持ちは変わらなかった。    カチャリ。  不意に思考を遮ったのは、唯一の出入口の鍵が解放された音だ。  俺はベッドに体を預け、寝たふりをしてやり過ごすつもりだった。    入ってきたのはいつもの二人。  こいつらはペラペラとよく喋る。  荒い手つきだがちゃんと俺の世話をするし、たまに外のことも話す。  視界が遮られる分、耳からの情報を逃さないように集中しつつ、俺はだらんと体の力を抜いた。   「はぁ……。なんで俺らが忌み子の世話なんか」 「気持ち悪りぃけどその分給金は倍だ。早く終わらせるぞ」 「ああ。……ふっ。にしたって、こいつも哀れだな。魔力心臓を知らぬ間に抜かれて、その魔力心臓はイーサン様に移植されたんだろ。んで、これからはイーサン様に何かあった時のための臓器スペアとして飼い殺し」 「しかもそれをやったのはこいつの義父ってのがまたなぁ。領主様もエグいことする」 「その医者、この領地出禁なんだろ?」 「そう。普段は元々いた診療所にいて、必要があったら呼びつけるらしい」 「やば。領主様、怒らせねぇようにしねえと」    ケラケラと愉快に笑う二人は、さっさと仕事を終わらせて後片付けを始める。    腹の底から湧いてくるドロドロとした灼熱の憤り。  今の会話の、どこに笑う要素があった……?  父さんが待つカルメルや、ダニエルとイーサンがいるであろう王都ネービアまでの長旅に耐えられる体になるまでは大人しくしておこう。  そのために、体を乱暴に扱われようと、俺への罵詈雑言を吐かれようと、息を殺してじっと耐えてきた。    でも、もう無理だ。  襲いくる喪失感は魔力心臓を奪い去られたから。  その処置を父さんにさせる残忍で冷酷な実父。  それを嗤笑する下卑た男たち。  限界だ。    俺はふらりと起き上がり、回収したシーツを持っていた男に掴み掛かった。   「お前らは……っぅ、ぐ……ぇ!」 「うわ汚ねえッ離せ!」    胸倉を掴んで、揺さぶって、殴り飛ばしたかった。  ふざけんなと。  魔力心臓を返せと。  父さんに謝れと怒鳴りたかった。    だが、それは叶わない。  脆弱な体は立ち上がっただけで目眩を起こし、そのまま男の胸元へと吐瀉物を撒き散らす。  男に強く突き飛ばされた俺は、固い床の上に蹲って再び嘔吐する。    短く悪態を吐いた男は、もうひとりを引き連れて部屋を出ていった。  あとに残ったのは、嘔吐物にまみれた俺だけ。    なんて惨めだ。  でも……。  でも、だからこそ、ここから逃げ出すんだ。逃げ出して、真っ先に父さんに会いに行く。  悔しいが、アクロンから見つからないところまで逃げよう。  そして、時間ができたらイーサンとダニエルの元へ行こう。    魔力心臓を失い、体のバランスが崩れたために引き起こされた目眩と吐き気。  体調不良の原因がわかり、少し気が楽になった。    吐き気が治ると体を起こし、ふらつきながらドアに向かう。  今出る精一杯の力でドアを叩けば、バチッと閃光が走り、手はドアに弾かれた。  手にはジンッと痺れが走っている。  内向きに施された結界魔術だ。    こんなもの、魔術大学院で治療魔術以外も学んだ俺なら、魔力さえあれば簡単に解除できる。  でも、魔力を生成する魔力心臓がない今、それは不可能だ。  他に手立てがあるとすれば、物理的に破る方法のみ。

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