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第6話 鳥籠の忌み子は月光に抱かれて羽ばたく
翌日から、部屋には誰も来なくなった。
代わりに転移魔法陣で食事や生活必需品が送られてくる。
うるさい奴らの顔を見なくなっただけマシだ。
そして、俺は体調が安定したタイミングで、幾度となくドアに向かって手や足を振り下ろし、時には体で体当たりしたり、椅子や小ぶりのチェストを投げつけたりした。
体調が回復して俺の攻撃力が増すにつれ、結界も強化される。
さらに、結界を破ろうとした時の反動も、結界の強化に連動して激しさを増す。
一度は治癒魔術を会得した俺だが、もう魔術を行使することは叶わない。
嫌味ったらしく転移魔法陣で送られてくる包帯や塗り薬は当然の権利として使った。
この部屋に窓はあるが天井付近にあり、外の様子を窺い知ることはできず、毎日同じことの繰り返しで、何度季節が巡ったのかわからない。
ヒントになるのは、背中まで伸びたミルクティー色の長い髪くらいだ。
邪魔だと思っても刃物や紐状のものは徹底して取り上げられているから、切ることも結ぶこともできない。
ただ、その分体は回復し、今は魔力心臓を失ったこと以外は以前と変わらない。
うざったい髪を傷だらけの手で掻き上げ、背中に流す。
月明かりしか光源がなく、物の輪郭が薄らと浮かび上がる部屋の中。
俺は暗闇に慣れた目で床に転がった椅子を確認する。
椅子の脚の先は、少し欠けていた。
それでも迷わず椅子の後脚を持つ。
手のひらに鋭い痛みが走り包帯に血が滲むが、それを気にしたら負けだ。
深呼吸して気合いを入れ直し、椅子を掴んで頭上に掲げたそれを、助走をつけながら振り下ろす。
「今度こそ……!」
その瞬間、眩しい光が目を焼き、視界がホワイトアウトした。
勢いを殺せなかった椅子はそのままドアへ。
けれど、そこにドアはなかった。
「う、わ……ぇえ!」
空振りした椅子は床に叩きつけられ、俺はその勢いのまま床に転がった。
何度瞬きをしても中々視界がはっきりしない。
強打した顎を摩っていると、頭上から懐かしい声が降ってきた。
「ノア……?」
嘘だ、違う。
ありえない。
これは幻聴だ。
だって、彼は俺の本当の名前を知らない。
その低く柔らかい声が、俺の名を呼ぶことは決してないんだ。
「ノア!」
けれど、幻聴は触覚を伴うだろうか?
床に突っ伏した体を優しく掬われ、温かい腕の中に収められる。
ふわりと香った匂いは記憶にあるものと寸分違わない。
俺は震える手でその輪郭をなぞっていく。
これは胴体……胸?
ああ、ここは肩だ。
何となく体の形がわかり、徐々に上へと手を動かしていく。
そして、温かくて少し骨ばった、けれど柔らかい頬を両手で包み込んだころ、俺の目ははっきりと愛しい人を映した。
「ダニエル……?」
「そうだ。ああ、ノア。やっと見つけた」
瑠璃色の瞳が潤み、ポロリと目尻から雫が溢れる。
それは俺の頬に着地し、するりと肌を撫でて顎の先から伝い落ちていく。
喪失の瞬間を思い出したからなのか声は震えているし、顔は笑っているのか泣いているのかわからないくらいクシャクシャになっている。
格好良い顔が台無し。
でもいいんだ。
そんな顔も好きだし、きっと俺も同じ顔をしている。
「ダニエル、ダニエル……。好きだ。好き、愛している」
「今も?」
「今も。本当はずっとずっと愛していた。あの言葉は嘘だ。ごめんなさい。許して」
「許さない。でも愛している。だから、一生俺の傍にいて償え」
「うん」
ダニエルの顔が近づき、ゆっくりと唇が重なる。柔らかな感触は胸を焦がすほど求めたもの。
もっと欲しくてダニエルの唇を食むと、深い吐息と共にそれは離れていった。
「あ、なんで……」
「一応、仕事中だからな」
「仕事?」
首を傾げると、ダニエルは長い腕を伸ばして俺の両手を包み込み、治癒魔術をかけて傷を癒した。
跡も残っていないし、痛みもまったくない。
「領主が犯した罪の清算にな。横領、密輸、禁忌薬物の売買その他諸々。それから、ノアの誘拐と監禁、ノアとイーサンの不同意で行われた臓器移植もな」
「待って! 父さんは」
「大丈夫。脅されてやったことだってわかってるし、彼は騎士団で保護している」
一番気掛かりだった父さんが無事だとわかり、どっと体の力が抜ける。
ダニエルは重くなった俺の体をしっかり受け止め、ギュッと自身に引き寄せた。
「そうか。イーサンとヨセフは?」
「イーサンもヨセフも元気だ。アクロン家の罪を告発したのも彼らだ。ただ、ノアや他のことが心配で心労気味だけどな」
「そっか……」
イーサンが臓器移植に同意していないのは、馬車の外にいたヨセフの様子でわかっていた。
二人には随分と心配を掛けてしまったな。
「早く会いたい」
「そうだな。ここでの仕事を片付けたらすぐに会いに行こう」
ダニエルは俺を抱きかかえると、造作もなく立ち上がって歩き始めた。
きつそうな顔も呼吸もしておらず、短い廊下の先にある階段を軽快に降りていく。
嘘だろ。
俺、一応成人男性だぞ。
「ダニエル、降ろしてくれ。自分で歩ける」
「一年もあの部屋から出てないんだ。そんなに長くは歩けないだろう。それに体軽すぎ。怪我もしていたから却下だ」
「頼む。これは、その……恥ずかしい」
「そんな可愛い顔しても駄目。それにな」
ダニエルがこそりと俺の耳に顔を寄せる。
吹きかかる吐息が少しくすぐったい。
「仕事で堂々と恋人を抱いてられるんだ。役得だろ」
「えっ……な、ぁ!」
何を言い出すんだこいつ!
そりゃあ、俺もダニエルと会えて嬉しい。
触れるだけのキスだけなんて物足りない。
でも、今はその時じゃない。
俺だって必死に我慢している。
なのに、ダニエルは浮かれすぎだ。
あの真面目で融通が効かなかったダニエルはどこに行った?
俺は抗議しようとダニエルを睨みつけ、けれどすぐに止めた。
「もう絶対に離さない。いいな」
俺が大切だと、愛おしいと語るはちみつのような甘い顔をされたら。そんなこと言えない。言えるわけがない。
「うん……俺も、もう離さない」
手を伸ばし、清廉を表す白い騎士服の上からダニエルを抱き締める。
顔を寄せれば頬にキスが降ってきた。
俺もダニエルの頬に唇を落とす。
そして、額を合わせて見つめ合う。
瑠璃色の瞳に吸い込まれそうだ。
それでも構わない。
俺は瞬きをするのも忘れ、ダニエルの瞳を眺めた。
やがて階段が終わり、塔の外へ出た。
一年ぶりの新鮮な空気を胸一杯に吸い込む。
ああ、美味しい。
少し肌寒いが、体に当たる風は気持ち良い。
腰まで伸び、後頭部の低い位置で結ばれていたダニエルの髪が風にさらわれる。
ふわりと舞った銀糸が満月の光に照らされて煌めき、まるで月光が実態を持ったかのようだ。
白い騎士服も相まって、ダニエルが月の精霊に見える。
問題は山積みだ。
アクロン家の不祥事が明るみに出れば、領内だけでなく国内が混乱するのは必至。
俺には好奇の目が向けられることも想像に容易い。
考えるだけでうんざりする。
でも、ダニエルと一緒なら、何があろうとも乗り越えられる。
そんな確信があった。
ぶわり、と一際強く風が吹く。
追い風が俺とダニエルを包み込み、グイグイと背中を押す。
こんなに強い風なら、どこまでだって飛んでいけそうな気がした。
風に細めた目を開ければ、幸せそうに微笑むダニエルと視線が交差する。
際限ない愛しさが胸から溢れ、俺とダニエルはまたひとつ口付けを交わした。
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