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第1話 会いたくなかった人との再会
砂塵に霞む遠い――いや、数年前の――記憶。
西陽で逆光になったシルエット。
滅多に嗅がない瑞々しい花の香り。
どこまでも響き渡るような低く透明な声。
差し伸べられた褐色の手。
「俺と友達になってくれる?」
その言葉に疑いもなく頷いた俺は、なんて愚かだったんだろう。
あの時、首を横に振っていれば、俺は自由に旅をしていたはずだ。
後悔しても、もう遅い。
俺は、あの人の作った見えない檻に囚われている。
*
砂塵が吹き荒れる砂漠を越え、ようやく次の目的地が見えてきた。
蜃気楼でないことは、魔導望遠鏡で確認済み。
その知らせを聞き、キャラバンのあちこちから歓声が上がる。
オアシスからオアシスを渡る一ヶ月の旅は過酷だが、仲間と力を合わせて困難を乗り越えるのは案外楽しいものだ。
何度か野盗の襲撃も受けたが、無事に返り討ちにした。
仕入れた商品は無事。
次のオアシス――ユーラティス国――でも、良い商売ができそうだ。
だが、俺の心には暗雲が立ち込めていた。
もうしばらくしたら、恵み以上の雨が叩きつけ、雷が落ち、砂嵐に襲われる。
俺は息が詰まりそうな感覚に、ぎゅっと眉を寄せた。
歓声を上げない俺を心配したんだろう。
キャラバンの中でも医者のような役割を果たしているダーニヤが俺の顔を覗き込んできた
「アースィム、どうしたの? 具合が悪いのかい?」
「いや、大丈夫」
「そう」
手を振って否定すると、ダーニヤは眉尻を下げて納得し、姦しくおしゃべりをしている女性集団の中へ戻っていった。
彼女たちは、早く湯浴みをしたいだの、稼いだ金で何を買おうだの、この前も話していた話題で盛り上がっている。
眺めていれば自然と頬が緩む光景は平和そのもの。
何も知らないくせに。
その平和は、俺の犠牲の上に成り立っている。
俺の苦しみを知らず、はしゃぐ仲間たちが羨ましくて、恨めしい。
それを選択したのは俺自身だ。
八つ当たりだとわかっていても、そう思わずにはいれなかった。
ユーラティス国。
東と西の人間と物、文化が交わる中継地点。
交易で栄えているユーラティスの王が住まう街、ジェルイス。
そこは砂漠に囲まれているとは思えないくらい緑豊かで、様々な肌の色の人間が行き交う。
そして、東西の果てからやってきた珍しい商品が人から人へと渡っていくのだ。
王宮にほど近い市場にあるキャラバン用の滞留地。
その王宮に一番近いスペースに、俺たちは腰を落ち着けた。
到着して早々、俺は女性陣よりも先に公衆浴場に行き、砂埃だらけの体を清める。
足元に溜まった水たまりには、俺の姿が映し出されていた。
黒い髪は短く、暑さを少しでも和らげるため襟足を刈っている。
並行な眉とやや垂れた翡翠の瞳は客受けが良い。
だからなのか、新規の客や取引先の客をよく任される。
とはいえ、どこにでもいる容姿だ。
体を綺麗にした俺は、三ヶ月前に立ち寄ったオアシスで仕入れた、西の国の絹で織られた民族衣装を身に纏った。
貴族が着るはずの服は分不相応にもほどがあるが、これから行く先を考えれば妥当な判断だ。
ラクダに荷物を乗せ、準備完了。
明日の市で売る商品の準備でばたついている仲間の間をすり抜け、隊長を探す。
隊長のワッハーブは、野太い声で指示を飛ばしていたからすぐに見つかった。
忙しそうにしているが、声をかけなければ俺も出発できない。
俺は声を張り上げで隊長を振り向かせた。
「隊長、いってきます」
「おお、アースィム。今回も頼むよ。帰りは五日後だな?」
「はい」
隊長は豪快に笑うと、俺の肩を叩いた。
そして、すぐに他の隊員に指示を飛ばす。
今夜から始まる地獄を考えれば、こんな一瞬の激励で済まされるはずがない。
だが、仕方ないんだ。
隊長でさえ、俺がこれからどんな苦痛を受けるのか知らないのだから。
俺は重い足取りでラクダの綱を引き、目と鼻の先にある王宮へ向かった。
王宮の門番には顔を覚えられている。
上質な紙にサインし、通行証代わりに碧玉のネックレスを首から下げれば、あとは案内の衛兵についていけばいい。
通されたのは、王宮の南側にある第四王子の宮殿だ。
白い壁に金の屋根。
直線と曲線が調和した宮殿は巨大な美術品だ。
宮殿の入口に立ち、ラクダから荷物を下ろす。
ラクダは召使いに木屋に連れて行かれ、俺は中へと案内された。
廊下は白い壁と緋色の絨毯が延々と続いている。
ぽつりぽつりとある窓の下には、繊細な彫刻が施されている弁柄色のテーブルがある。
その机上には、砂漠では珍しい色とりどりの花が生けられていたり、一見して意味不明なモチーフのオブジェが置かれていた。
しかし、商人ならば、それらにどれだけの価値があるのか、一目見ただけでわかる。
相変わらず趣味がいいようで……。
シンプルだが上品な調度品が散りばめられた宮殿は、目を肥やすにはうってつけの場所。
宮殿の主があの人でなければ、一年中滞在したっていい。
俺はあの人の顔を思い出し、衛兵に聞こえないようにため息を吐いた。
あの人が待つ部屋はもう目の前だ。
今すぐに踵を返し、仲間のもとへ帰りたい。
しかし、それができないことは、俺自身がよくわかっていた。
衛兵が鳶色のドアをノックする。
「入れ」
「失礼します」
入室の許可を受けた衛兵は、躊躇うことなくドアを開けた。
彼に促され、俺はゆっくりとその中へ足を踏み入れる。
すると、ドアは衛兵によって音もなく閉まり、俺を閉じ込めた。
あの人と、二人きりの部屋に。
外壁と同様に真っ白な壁。
大きくくり抜かれた窓の縁には花と蔦ををモチーフにした彫刻が施されており、見る者を魅了する。
そこから垂れ下がるのは、まるで朝焼けのような、白からターキーレッドへと色を変えていく紗のカーテンだ。
床にはクロムオレンジを基調とした暖色系の絨毯が敷き詰められている。
ふわふわとした足元の感触は、まるでベッドのようだ。
その絨毯の中心に、あの人は優雅にクッションに寄りかかって寛いでいた。
胸元まで伸びた、緩くウェーブがかったぬばたまの髪。
褐色の肌は砂漠の真ん中にある国の人間とは思えないくらい瑞々しく、彫りの深い顔は野生的な雰囲気を醸し出している。
整えられた濃い眉の下には、琥珀色の瞳が光っていた。
「この時をどれほど待ち侘びたことか。アースィム、こちらへ」
手招きをしたあの人の腕からさらりと落ちた、カナリーイエローの寝衣。
ぎらつく琥珀の瞳と俺を呼ぶ低い声に、背筋に稲妻が走る。
行きたくない。
しかし、それでも、行かなければならない。
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