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第三章 イエス・ノー・イン・シンク③
上映が終われば連れ立った者たちは皆口々に感想を述べたりしながら劇場を後にする。暗い空間から通路に出れば、その眩しさに思わず目を瞑りたくなってしまう。
「面白かったねー」
「真生くんちゃんと観てなかったじゃないか」
「えー観てたよ」
指の一本も動かせなくなったのはいったい誰のせいなのか。おかげで二時間何も考えられずに目の前の映画に集中せざるをえなくなった。
決して力強いわけではない。それなのに安心できるような心地よさが佳嘉の手にはあった。
指を絡ませるという行為の意味を佳嘉は分かってやっているのか、とても大人の関係を拒絶している相手への対応だと思えなかった。
疎らではあったが周囲に他の客がいたからいけなかったのか。これがもっと客の少ない、極端にいえば客が二人だけの上映だったならば違う反応が得られていたのか。
客入りの少ない映画など、それこそ平日の上映を選ぶしかなくなり、佳嘉を誘うハードルもぐっと高くなる。
ただ全く脈がないわけでは無いのかもしれないとこの上映で感じた真生の視界に、偶然トイレの入口が飛び込んでくる。
「あっぼくちょっとトイレ行きたい!」
一度感情を立て直す必要が真生にはあった。このまま佳嘉のペースに巻き込まれてしまえば、折角の映画館デートでもこれ以上の進展が望めない。
捕まっていた佳嘉の腕から離れ、視界の先にあるトイレへ向かおうとした真生だったが、そのことばかりに意識が集中してしまっており、振り返った瞬間後方から現れた男性とどんと大きな音を立ててぶつかってしまう。
相手は中肉中背の男性、衝突すれば百六十センチと少しの身長しかない小柄な真生が吹き飛ばされて転倒するのは当然で、ぶつかった瞬間に大きな衝撃が走った。
しかし真生は転倒することなく、咄嗟に出された佳嘉の支える手によって、身体を引き寄せられ転倒を間一髪免れていた。
「ちゃんと周り見て。他の人とぶつからないように」
「あ、りがと……」
どこまでも子どもとしか見られていないかのような佳嘉の言動に、顔から火が出るかのような思いを抱く。
身長差としては十五センチ程度か、男女であれば理想の身長差ではあったが、真生はそれを自分が実感するとは思ってもいなかった。
「じゃあ私は売店のところにいるから」
劇場の出口を抜けた先にある、パンフレットなど上映作品の関連グッズを売っている売店を指さして佳嘉は告げる。
分かった、と了承の言葉を返した真生は再び佳嘉の整った背中へ視線を送る。佳嘉に支えられた腰のあたりがじわりと熱くなるのを感じていた。
考えてみれば、〝私〟という一人称も対外的な言い方であることが多く、プライベートでも自分のことを〝私〟と称する男性は佳嘉の年代では多くない。
もちろん佳嘉がその少数派であるという可能性は捨てきれないが、依然として佳嘉のプライベートを垣間見れていないという焦りが真生の中にあった。
冷たい水道水を顔面に叩きつけ、気合を入れ直す。
「……よしっ」
目の前の鏡と向き合えば、ぼたぼたと水を滴らせる幼い自分の顔が同じくこちらを見ていた。
少し茶色がちな大きい黒目。アーモンドのように目尻がわずかにつり上がった形状は、猫のようだと評されたことが何度もある。
口角に指をあてて笑顔を作ると、やんちゃさや無邪気さの象徴でもある八重歯が覗く。
成熟しきらぬ少年性は、若い女性相手では気が引ける中年男性には非常に効果的なものだった。はた目ではパパ活には見えないし、それでいて男としての特徴が薄いので、擬似的にでも劣情を抱くことが可能となる。
間違いなく、自分は可愛い。
角度を変えて自分の姿を何度も確認する。ヒゲだってないし、頬もキメが細かくもちもちで、誰だって一度は触ってみたくなるような柔らかさを誇っている。
流れる水を眺めながら真生は決意を新たに固める。
今日は佳嘉との関係をなんとしても一歩先に進めるために来た。今日大人の関係に至れずとも、せめてその合意だけでも言質が得られればいい。
佳嘉といるとつい気が緩んでしまう。映画に対する興味もそうだったが、長年の親友だったような感覚を抱くことがあった。これまでのパパとは根本的になにかが違う。
最後にもう一度だけ、鏡の中の自分に視線を向けて今日という日という重要性を再認識する。
「佳嘉さーんっ!」
劇場を出て、売店にある見慣れた高身長の後ろ姿に声を掛けて駆け寄る。
真生の呼び声に気付いた佳嘉は何気なく声のする背後を振り返るが、次の瞬間佳嘉が見たのは、絨毯とケーブルの盛り上がりに足を引っ掛けて盛大に転倒しそうになっていた真生の姿だった。
慣性の法則に従い、そのまま豪快に倒れ込もうとしていた真生の小さな身体は、先程と同じく――いや先程よりもしっかりと、佳嘉の両腕に抱き留められることで難を逃れる。
佳嘉の腕が、前方へ倒れ込みそうになっていた真生の身体を支え、その細いながらもしっかりとした大人の男性の腕の中は、真生一人が倒れ込んだところでびくともしなかった。
ふわりとメンソールの香りが漂い、苦いはずなのに何故だから真生にはそれが甘いものに感じられた。
「……周りだけじゃなくて、ちゃんと足元も見なさい」
甘くて苦い。自分が全く同等に見られていないという現実に、じわりと目頭が熱くなった。
佳嘉の腰に両腕を回して抱きつけば、一周しても腕には余裕が残る。あまりにも華奢なのに、それでも佳嘉は大人の男性で、たった十五センチの身長差がただ恨めしかった。
ならば今だけは、子どもと思われている立場を存分に利用してやろうとぐりぐりと佳嘉の胸元に頭を押し付ける。エアリーに仕上げたヘアセットが崩れたって構わなかった。
「……煙草くっさい」
「そんな訳あるか」
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