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第十三章 ダウン・ジ・アビス⑤

 大量の紙幣が室内に舞い乱れる。それが完全に畳の上に落ちきるまではものの数秒。  ただ目の前の真生に対して恐怖を抱き、最後の一枚が畳に落ちきったその瞬間――佳嘉は立ち上がって逃走を図る。  真生より早く、和室を出て、キッチンとを隔てるガラス戸を勢いよくスライドさせて閉じる。そんな時間稼ぎは少ししか持たず、それよりも早く佳嘉は玄関へと向かい薄暗い中玄関ドアへ倒れ込むように駆け込む。靴を履いている暇など無い。  レトロな円形ドアノブを掴んでサムターンを横から縦にして開ける。一刻も早くこの部屋から逃げ出さなければならないという気持ちに圧されていた。サムターンが回り鍵の開いた音がガチャリと響く。  ドアノブを回して扉を開く佳嘉だったが、扉が開いたのはものの十センチ程度。扉はドア脇のチェーンロックで阻まれていた。それは佳嘉が初めて見る形式のものだった。  特別珍しい形状という訳ではない、ごく一般的なチェーンロックではあったがアパートが古い木造建築ということもあり、そのチェーンロックは古い形式のものだった。旧式のチェーンロックを初見で外すことは未経験の佳嘉には至難の技だった。ほぼ不可能と言っても過言ではない。  サムターンを開けただけでは扉は開かず、チェーンロックに阻まれた佳嘉はそれをどうやって外せば良いのか、困惑して視線を向ける。  チェーンロックに伸ばした佳嘉の手を、数秒遅れて追いついた真生が掴み、捻り上げるようにして佳嘉を扉に押し付ける。 「いっ……!」 「――佳嘉。イイコだから……ドアから手を離して」  佳嘉の背後にぴったりと貼り付いた真生が、佳嘉の耳元で囁く。それは今まで聞いたことがないようなとても低い真生の声で、佳嘉はぞくりと背筋に寒気を覚える。  この瞬間の佳嘉を占める感情は〝恐怖〟以外のなにものでもなかった。  真生に言われるがまま、佳嘉はそっとドアノブから手を離す。真生はドアノブを掴み扉を閉めるとサムターンを回して再びガチャリと鍵を掛ける。その音はこれ以上ないまでに絶望的なものとして佳嘉の耳に響いた。 「待って真生、こんなのおかしい……」  こんなこと、とても許容できるはずがない。真生から腕を解放された佳嘉はそのまま閉ざされた玄関扉の前で膝から崩れ落ちる。  容易に出られるはずの扉が、固く閉ざされた岩壁のようにも見える。佳嘉の背後からはガムテープを千切るビーという独特の音が聞こえる。 「セックスができない訳じゃないんでしょ? あのオッサンに何度も股開いてたくらいなんだしさ」  真生は淡々と告げながら、佳嘉の両腕を背後で纏め、着々とガムテープを巻き付けていく。  二ノ宮の存在を引き合いに出される度、心臓が張り裂けそうになる。やはり真生のトリガーを弾いてしまったのは二ノ宮の存在で、二ノ宮が余計なことさえしなけば、真生に月極五十万円の出どころがバレることはなかった。 「おれも本当は中坊じゃないんだし、佳嘉さんが気にしてた〝子どもだから〟って部分も問題ないだろ?」  ――本当は、真生が中学生ではないことくらい、初めて会ったその日から気付いていた。  だけれど、パパ活だからということを理由にして、ずっと真生とそういう関係になることを避けてきていた。  真生の手が、背後から滑り込んで佳嘉の腿を厭らしく撫で上げる。  熱が、一点に集中する感覚があった。それと同時に深い後悔と絶望もあった。 「じゃあなんで……縛るんだ……」 「アンタを買った金の分、逃げられたら困るからね」  嘘だと分かっていながら、年齢を理由にして真生とそういう関係になることを避け続けてきていた。  その報いが、今すべてこの瞬間に集約されている。  真生の舌が佳嘉の耳の裏をなぞり、首筋へ音を立てて口付けを落としていく。 「だぁいすきだよ、パパ」  僅かな光すら拒絶された薄暗い玄関先で、リフレクターバンドがそれぞれの手首で淡く優しい光を失おうとしていた。
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