50 / 60
第十五章 クローズ・コール③
ここをどこだと思っているのか。平日夜でもある程度の賑わいを見せる大衆的な居酒屋。満席とはいかずともある程度の座席は埋まり、周囲にも人目がある。
騒々しい店内の中、青木は真顔になって佳嘉を見上げる。
「……知ってるよ?」
僅かに間があった。
「じゃあ真生の居場所を教えてください。今すぐに」
すでに〝一杯だけ〟の約束は果たした。これ以上青木の酔狂に付き合う義理は一切ない。
青木は佳嘉に掴まれた腕をぶるんと振り払う。それでも佳嘉が威圧するようにじっと青木を見ていると、怖気づいたのか青木は奥まで詰めていた位置を徐々に通路側へずらしていく。やがて青木が隣の席から立ち上がると、佳嘉がこの場を切り抜ける確かな道筋が空いた。
一度席から立ち上がった青木だったが、向かい側の席にどかっと座り直すとふてぶてしく足を広げ、ちらりと自らの腕時計へ視線を落とす。
やはり青木が真生の情報を持っているなんて嘘に間違いがなかった。何の時間を確認しているのか佳嘉には分からなかったが、これ以上この場に留まる理由は見当たらなかった。
「あの、やっぱり真生は私一人で探しますのでっ……」
後から難癖を付けられても堪らない。佳嘉は財布から千円札を取り出してテーブルの上に置く。得られる情報は無く、不快感しか残らなかったが、これも佳嘉にとっては手切れ金のようなつもりだった。青木との時間の価値は千円が精々で、これを期に二度と青木と関わるつもりもなかった。
椅子に腰を下ろしたまま、青木が移動したことで出来た場所をスライドして通過する。青木の座っていたその場所が少し湿っているように生暖かくて、咄嗟に鳥肌が立った。
端まで到着するとそのままテーブルに手を付いて腰を浮かせる。青木はただ向かい側の席に座ったままじっと佳嘉の行動を見ていた。その真顔がとても不気味なものに見えて、佳嘉は青木からふいっと視線を反らして立ち上がり足を踏み出す。
その瞬間、腰のあたりから背筋を通り頭のてっぺんまで、電流のような強い刺激が走り佳嘉は膝から崩れ落ちる。
「あ、っ……」
「オイオイ、大丈夫ですかあ?」
危うく床へ倒れ込みそうになったところ、青木が佳嘉の腕を掴む。
掴みながらも隠しきれないにやけ顔を晒す青木を見て、佳嘉の瞳孔が激しく収縮する。どくどくと全身の脈が速く打ち始めているのを感じていた。
ここに来てからビール以外はなにも口にしていない。一度も席を外さなかったし、グラスからも目を離していない。普段あまり酒を飲むことがないとしても元からそこまで酒に弱いわけでもない。たかが二杯のビールで立てないほど回りが早いわけもない。
青木の醜悪なにやけ顔を見た佳嘉は、まさかと思いながらもゆっくりと振り返る。テーブルの上には空になったビール瓶が置かれていた。
もし青木が初めから薬物の混入を予定していたとしたら。
もし青木が、真生から話を聞いた佳嘉が飲み物のグラスだけを注視すると考えていたとしたら――。
真生の情報が得られるかもしれないという焦りが佳嘉の注意力を鈍らせていたが、全身に感じる体温の上昇は焦りからくるようなものではなかった。冬も深い時期なのに店内の暑さのせいなのか、それとも久々に酒を煽ったせいか――それ以外の可能性を考えたくなかった。
「こういうとこに引っかかるマヌケなとこ、ほんと親子そっくり」
耳元で青木がネチャリと囁く。佳嘉の全身が総毛立った。喋るだけでも微かに聞こえる唾液が絡む不快音。耳元でそんな水音を聞かせられると鼓膜が直に揺らされているような感覚があった。心臓の鼓動が普段よりも大きく聞こ始めていた。
囁きついでに青木の舌先が佳嘉の耳をなぞる。生暖かく、まるで粘度の高いジェルかなにかのようで、佳嘉の耳殻をなぞりその孔の奥へ無理に舌先をねじ込もうとしてぐちゃりという音が響いた。
「さわ、るなっ……」
ぞわりと鳥肌がたち、その場から動けなくなる佳嘉だったが、青木から今すぐ離れろと脳が強い警報を鳴らしていた。掴まれた腕を振り払いながら、青木の身体を押し返すと、手が肉と脂肪の中に沈んでいく感覚があった。
青木は佳嘉に追い返されると耳元で啜るような音を立てていたのを一度止め、耳の奥へ直接囁く。
「いいの? それ睡眠薬じゃないよ」
「……は、っぁ?」
全身が異常に熱い、呼吸が浅くなっている感覚もあった。青木がビール瓶自体になにかの薬物を混入したのは明白だった。
どこかが、なにかが、疼くような感覚だけがあった。
ただこれを盛られたのが真生じゃなくて良かったと安堵する自分が確かにいた。
コメントする場合はログインしてください
ともだちにシェアしよう!