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3/3(完)

俺は自分でもわけが分からないくらい、マシューに夢中になっていった。 ナオキと予定を合わせる必要も感じなくなり、1人でボロアパートに通うようになるほどに。 マシューはその言葉どおり、カネさえ払えば俺の要求に淡々と応じたが、何か質問をすると不機嫌になったり、面倒くさそうになったりした。 そうしながら、すべての質問に答えるのだ。律儀なのか、真面目なのか、それとも不器用で、はぐらかすというすべを知らないのか。笑ってごまかそうともしなかった。笑顔を見せる事はめったに無かったのだ。 「男が好きってワケじゃない。女の人よりお金持ってる人、多いから」 「じゃあ客によっては女とも寝るのか?」 「ちゃんと金額払ってくれるならね」 俺たちが話すことは、もっぱらマシューについてだった。 カネを介してしか他人と関係を持とうとしないマシューの考え方を探りながら、彼という人間について知りたかった。 「でも、そもそもこんな場所でも寝られる女なんて、たかが知れてる」 吐き捨てるように言ったところには、この部屋の環境の悪さに対する自虐も含まれていた。 床に散らばったまま、隅へ押し遣られた画材たち。鉛筆、練り消しゴム、チョーク、絵の具のチューブ、パレット……どれもすっかり使い古されていて、床は水溜まりのシミや消しゴムのカスだらけ。やっぱりお世辞にも整った状態とは言えない。広げられた新聞紙の上に立て掛けてあるキャンバスは今にも倒れて来そうだ。 マシューは改めて部屋の中を見回しながら、薄いマットレスを置いただけのパイプベッドに座っている俺を見下ろす。いつかのナオキがそうしていたように、この位置に居るのは当たり前になった。 「あんたは、何も気にしてないみたいだけど」 マシューの言葉にはこうした嫌味っぽさと、自虐が多かった。 「ここに住んでるマシューが言えることじゃないだろ」 そう言って手を引くと、マシューの口元が、一瞬だけ笑みを浮かべたように見えた。 会話を終わらせたマシューは俺にまたがり、狂ったように声を上げて、体を上下させる。わざわざ両手で捕まえなくても、自分からいい所に当てようと、腰を押し付けてくる。床に転がった電球の光に照らされる、湿って痩せこけた裸が、性的に思えるようにさえなっていた。 初めてマシューに会った時にいたセフレとも、もう連絡も取っていない。他の誰かに費やす時間が惜しいくらいだった。 生活のこと、体のこと。過去のこと、今のこと。マシューに関する事は何でも知りたかった。たとえいくらかかっても。どんなにくだらない内容でも。 だがある日、マシューがうんざりしたような口調で聞き返してきたのだ。 「あんたさ、何でそんなにいろいろ聞いてくるの? 何が目的?」 「え?」 今までにない反応だったので、驚いてしまった。マシューは相変わらず、むすっとした態度で、 「プレイの内容だけ伝えて、あとは腰振ってればいいじゃない」 「俺が知りたいから聞いてるだけだよ」 本心からそう答えたが、明らかにマシューが不機嫌になったのが分かった。 「何なの……」 いつもの睨むような目を、長い前髪の隙間から向けてくる。 「あんた、客の中で一番苦手」 そう言われ、自分はマシューにとって客の中の1人としか見られていないとようやく気が付いた。 当然と言えば当然だ。目的がセックスであれ、当たりさわりのない会話であれ、どちらにせよ相手に会う為に、カネを払っているのだから。 「マシュー、俺と付き合わないか?」 自分でも信じられないような、突拍子もない提案をしていた。しかもそれは続き、マシューにたたみかけてしまう。 「俺たち男同士だけどさ、そういうのもアリだろ?」 小さな目がじろりと見てくる。 「ねえ、今までフーゾクとか行かなかったタイプ? それともすでにやらかした経験ある感じ?」 「行った事あるし、セフレもいたけど、別に何もやらかしてない」 淡々と受付を済ませ、淡々と風呂に入って、淡々とサービスを受けて帰っていた。嬢にのめり込むなんてバカな経験はした事がないし、したいとも思わない。 けれどマシューはまだ納得がいかないらしい。 「いちばんメーワクな客だよ。そういうの」 そう言い、マシューは俺が渡した封筒をパンパンと叩く。 「カン違いしてるみたいだけど、これがないとあんたに会う理由とか、ないから」 「だから今話してるだろ、こういう関係じゃなくて……」 説得しようとしても、 「意味わかんない。調子狂う」 話が通じないというより、理解する事を拒まれている気がした。マシューは俺のどんな質問にも答えていたが、俺という相手にはそもそも興味すら持っていないらしい。 「待ってくれよ。俺のことが嫌いなら──」 言い終わらないうちに、マシューはまた面倒くさそうにため息を吐く。 「好きとか嫌いとか考えた事もないね。何様のつもり?」 大きな目覚まし時計のネジをガリガリと回し、上のボタンを押してセットする。 「時間ないから、始めちゃうよ」 いつも以上にぶっきらぼうな態度で、これまで淡々としていたマシューがイライラしているのが伝わってきた。 「今日って、この後予約入ってるのか?」 長い前髪の影になった顔で睨んでくる。 「……入ってないけど。今は」 「じゃあ、居させてくれよ! とりあえず、話だけでも聞いてほしい」 間髪を入れず頼み込んだ。 「追加の枠が要るならその分も……」 そこまで言った時、マシューがいつになく嫌そうな表情になった。 手に持ったままの封筒で指すように突き付けてくる。 「おれのこと見下してるよね?」 「えっ?」 「こっちも客商売だから、貰うものさえ貰えたら、やる事はやる。でも、あんたの要求はおかしいよ」 マシューの声が少し大きくなった。普段の平坦な声から、抑揚のついた話し方に変わっている。本人はそれに気付いていない。 「もう一回言うけど、“これ”がなきゃ会う理由も無いんだよ? あんたとおれ」 「今は確かに客だけど、こうでもしないとマシューに会えない」 咄嗟に言い返した。 「外で会おうって言ったら、会ってくれるのか? 俺のために服を着て、時間を作ってくれる?」 今日も上半身裸でいるマシューの細い目が、じろりと俺に向けられる。 「……他人と仲良くするとか、付き合うとか、おれには理解できないの」 それに、とまたいつものように嫌味っぽく続ける。 「前の彼女と別れたの、あんたの浮気が原因だったよね?」 確かにその通りだった。 ここへ通いながら、俺はマシューについてのことを聞く一方で、自分のことも話すようにしていた。たとえ返事が無くても。 マシューは俺が伝えた内容を言っているらしい。 「そういう人、時々いるけど、ほんとどうしようもないよね。病気だよ」 面倒に巻き込まれるのが嫌だ、とマシューは言っていた。来る客にいちいち相手の有無を確認するのは、過去に面倒を経験をしているからなのかも知れない。またひとつ、彼の過去を知る事ができた。 「それで今度はおれってわけ? いいもの食べ過ぎて、ゲテモノ料理にハマるみたいな感覚?」 そんなに話せたのか、と思ってしまうほど、マシューは一気に言葉を続けた。 「今は浮気じゃない。誰にも迷惑かけないし、悲しませない。こういう関係じゃなくて、一緒に居たい。それでもダメなのか?」 俺が過去にして来た事が心配なら、それはマシューの気にするところじゃない。そう伝えたかった。 マシューがふと、壁の方を見る。 「絵を認めてくれる方がずっと有難いよ……おれを褒める意味なんて、無いから」 出会ってから初めて、マシューの大切な部分に触れた気がした。 絵では食べていけないからこんな事をしているのだろうとは、最初から分かっていたが、それ以上踏み込もうとは思わなかった所だ。 立て掛けられたキャンバスに描かれた絵なんて、俺は意識して見た事がない。芸術に造詣もないし、興味もない。マシューがどんな絵を描いているのかより、マシューが何を考えているのかが気になる。 感情の読めない表情でまた俺に向き直り、見下ろしてきた。 「どうせあんたも、おれのこと、からかってんでしょ?」 「そんな事ない!」 大きな声で否定した。 「ただ、マシューのことが好きなんだよ……どうやったら付き合ってくれる?」 真剣に訴えても、マシューのひょろりとした体は目覚まし時計をいつもの場所に置いて、いつものように俺の前に座るだけだ。顔も見ようとしない。 「タダでヤりたいにしても、もっとマシな嘘つけば?」 取り合おうとしないマシューの肩をつかんで、力づくで上を向かせる。さすがに少し緊張した表情だった。 「ちょっ、そういうの……」 抵抗されるところに顔を近づけ、唇をふさぎにいく。腕を回せば、押し返そうとしてくる。ロクな生活をしていない痩せた体の力は弱い。普通の体格の男に勝てるはずがない。 汚れた床に寝かせるように覆いかぶさった。 キスをしながら、身をよじろうとするマシューを抱き締める。薄い肉の内側にある骨の感触が手に触れ、浮いたあばらが胸に当たる。 「俺、本気だよ、マシュー」 一瞬だけ唇を離し、真剣なのが伝わるように言った。 「カネ払いたくないとかそういうんじゃない。本当に、本気で……」 「メーワクだって言ってんじゃん!」 マシューが大きな声を上げた。少し高くなった、かすれ声だった。 ひるんでしまった一瞬の間。さっきまで迷惑そうだったのに、キスだけでとろけてしまったように真っ赤になった顔を、真正面から見る形になる。 床に背中をつけて、見上げる体勢のまま、マシューがすごい顔で睨んでくる。 「あんた……ほんとにおかしいんじゃないの?」 細い目は潤み、聞いてきた声は震えていた。それから、すぐに両手で顔を隠してしまう。 抵抗すれば逃げ出す事もできる状況で、マシューは俺の下から動こうとしなかった。 「何の得も無いんだよ、おれを好きになったって……」 何を言っているのか、聞き取れはしたものの、理解はできなかった。 俺は損得で付き合おうとしているわけじゃない。ただ好きになった相手と、深い関係になりたい。それだけなのに。 マシューはぐずぐずと弱音をこぼし始める。 「こんなカラダで、顔もブサイクだし……絵だって描けない。何の取り柄も無いのに……」 いつもの気だるげな様子や、喧嘩腰とも取れる態度はどこへいってしまったのか。別人のように弱々しい。 「マシュー……」 顔を隠してしまった手をどけようとしても、首を振ってますます強く隠してしまう。床に髪が乱れて広がる。 その手の下から、つっ、と涙が流れてきた。 「ワタル、おれさぁ……」 潤んだ声に呼ばれた。 今までずっと「あんた」と呼ばれていたのに、突然下の名前で呼ばれた。それだけでドキッとしてしまう。 マシューは顔を隠した体勢のままうじうじと話し続ける。 そんなことを言われた事がない、と言うのだ。 今にも崩れそうな建物に暮らし、暗く、狭い部屋で、売れない絵を描き続ける。才能も無いのに、夢を追いかけるだけでは生活もままならなくて、体を売る。痩せっぽちで醜い自分をひと目見たときから、どんな相手からも見下されているのが、手に取るように分かる。 生きるためと自分に言い聞かせ、無茶な頼みも聞いた。中にはナオキや俺のような、足しげく通う物好きも居るが、所詮は余裕ある人間の気まぐれだと。 自信や自尊心というものはとっくに無くなった。 客に対して無愛想にふるまう事で、なけなしのプライドを保つ。快感に身を任せる形で、他人から求められたつもりになる。 そうして地べたを這うようにしてでも、夢にすがり付く自分はみじめだと、涙を流しながら話した。 「す、好きとかそういうの、真に受けろってほうがムリじゃん……」 か細い声で言い、ようやく手を退けた。裸電球に光る涙で濡れた目が、俺を見ていた。 マシューは質問に答える時は不器用なくらい正直だったが、どうやら自分の感情を見せないようにするのは、もはや癖みたいなものらしい。 ようやく本音を見せてくれたのだ。そう思うと堪らなかった。俺はすぐに服を脱いで、泣いてしまったマシューにまたキスをする。唇だけでなく、顎や頬、首にも。 「こんなに好きって言ってるのに?」 そうしながら聞き返すが、それでもマシューはまた小さく首を振る。 「やだ、やだよ……」 「俺のこと、好きでも嫌いでもないんだろ? 好きになってもらえるように、頑張るからさ」 こんな言葉が吐けたのかと自分でも驚く。マシューに会って、惹かれて、俺は変わったのだ。 「もう……きっ、嫌いだよ……」 マシューが顔をそむけ、つぶやくように言う。短いまつ毛が涙に濡れて、細い目の全体がきらきらしている。泣き虫な子供みたいに、弱くて、可愛いと思う。 「なんで?」 聞き返すと、 「優しい、から……」 赤くなった目尻で睨みつけようとしてくる。でも、上手くいかないようだった。 「そうやって、誰にでも優しいんでしょ、だから浮気するんだ……」 前の彼女と別れた理由。聞かれたわけでもないのに、マシューのことを知りたいのと同時に、自分のことも知ってほしくて、話していたこと。 他人に興味はないというスタンスを取り続けていたのに、俺の言ったことを覚えてくれていた。意外な一面に、ますます嬉しさが込み上げる。 「好きな人にしか優しくしないよ、俺」 そう答えると、マシューがようやくまた俺の方を向いた。 「……うそついた」 マシューがおそるおそるという感じで腕を回してくる。 「ほんとは好き。好きだよ、あんたのこと……」 耳元でそう言われて、なぜか俺まで泣きそうになってしまった。 マシューの背中を撫でると、マシューの両腕に力が入った。ぎゅっと抱き付いてくる。 「初めて来た時、優しくしてくれた……おれのこと気つかって、大丈夫って聞いてくれた……」 「それだけで?」 思わず聞き返してしまう。そんな、自分でも忘れていたような行動が、マシューにとっては嬉しかったなんて。 「じゃあ、なんで俺のこと突っぱねてたの? 最初にした時から、好きになってくれてたんだろ?」 質問攻めにするとマシューは、もうほんとバカみたい、とやけっぱちに言い、腕でごしごしと涙を拭く。 「ダサくて、身のほど知らずで、惚れっぽい自分も嫌い……余計な夢見させないで……」 「夢じゃないよ。俺も夢みたいだけど。マシューと両想いなんて」 「うるさい……ああ、もう本当にイヤ」 また顔を見せてくれなくなったマシューを、何とかして元気づけたかった。 「もういい、マシュー。全部、ぜんぶ俺のせいでいいから」 それで機嫌が治るなら、俺のことを好きだと認めてくれるなら。人生が上手くいかないのも、泣いてしまったのも、全部俺のせいにすればいいと言った。 「そうだよ、全部あんたのせいだ」 マシューの返事はいつもみたいにぶっきらぼうだが、どこか甘えるような温度があった。そう感じただけかも知れないが。 マシューの顔を覗き込んで、ねだってみる。 「あんたじゃなくてさ、さっきみたいに呼んでほしい」 「なに?」 「さっき呼んでくれたでしょ? 俺のこと、ワタルって」 「覚えてないよ」 言い合ううち、口調がいつものマシューに戻り始めていた。平坦で、抑揚がなくて、ぶっきらぼうな言い方。今となってはそれすらも可愛くて、愛おしくて仕方がなかった。 事を終えた後、一緒にシャワーを浴びた。 マシューはこれまでと違い、繋がっていなくても、少し照れながら甘えてきた。狭いユニットバスでくっついて体を洗い合うのは、恋人っぽくて楽しかった。 安物の石鹸の匂いも、絵の具で汚れたタオルも、薄暗くて切れかけの照明も、これまでと違って見えた。誰かを好きになるのはこんなに楽しかったのかと、感激すらしてしまいそうなほど。 上がると、マシューが床に置いていた目覚まし時計を止め、コーヒーを淹れてくれた。火傷しそうなくらいに熱くて、味はほとんどしないほど薄い、インスタントコーヒーだ。砂糖もミルクもない。 すぐに熱が伝わる安っぽいマグカップを持って、並んで裸でベッドに座り、コーヒー味の湯をすすっていると、マシューが自分から話し始めた。 「おれ、本名は|柊真《しゅうま》っていうの。|柊《ひいらぎ》に|真《まこと》。だから、ひっくり返して、マシュー」 突然の告白に驚いて、マシューを見た。やはり日本人だと思ったのは、間違っていなかったのだ。 「神様からの贈り物、って意味なんだって」 マシューが続けるのを聞いていた。 毛先の湿った髪の隙間から、小さい目をじろりと向けてくる。 「確かに似合ってないよ。自分でも分かってる」 「別に何も言ってないじゃん」 困って、つい笑ってしまった。今となっては柊真という名前よりも、マシューの方が合っている気がした。どう見ても日本人、それもパッとしないほうなのに。 そんなマシューは熱いコーヒーを一口飲んで、 「そもそもカミサマなんて信じてない。もし居たら呪ってやる。おれに、こんな人生を歩ませた事」 と言った。熱い息をこぼす、赤っぽくなった唇から目が離せない。そのまま言い返す。 「俺も。でも、今日から信じようかな?」 ふり向いたマシューと見つめ合う形になる。暗い部屋の中で浮かび上がった裸は、抱き締めたくなるような細さだ。 マシューの目に、誘われているような気がした。 「バカじゃない。何言ってんの」 抑揚が少なくて嫌味っぽい、いつものマシューの口調。これでも両想いなんだ、と、そう思うとやっぱり夢みたいで。 「マシューは、カミサマが俺にくれたプレゼントなんだろ?」 我ながらクサいセリフだと思う。 でも、言わなければいけない気がした。言ってほしそうに見えたから。 それから、またキスをする。火傷しそうなほど熱くなって、痺れた唇が触れる。ぱくぱくと口を開いたり、甘く噛んだりすると、マシューは一生懸命合わせてきた。このまま食べてしまいたいくらいに、可愛いと思った。 口元のホクロが色っぽくて、顔を離してからもついつい見入っていると、 「……勝手にすれば」 すぐそばにある薄い唇が、ふっと笑った。

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