1 / 10
第1話
真夏の夜というのは嫌いだ。
ビル風も湿っているし、なびいた服も汗で濡れた肌にまとわりついて気持ち悪い。
深夜のビジネス街は奇妙なほど静まり返っていた。昼間は人混みで溢れる表通りもいまはひっそりとしており、車道には「割増」と表示されたタクシーが数台停まっているだけだ。
僕ーー筑摩映司 は、牛丼屋から出てくるなりため息をついた。
洗濯しただけのシャツに折り目が完全になくなってしまったグレーのスラックス。くたびれたスーツ姿と言われても何も反論できない格好だ。
歓楽街が近いせいか、腕を組んで歩く男女とすれ違った。
彼らはきっとこのままホテルに消えて、共に一夜を過ごすのだろう。
対して、自分はこの後職場に戻り、〆切の迫ったプロジェクトに向かってひたすらキーボードを打つだけだ。
(僕が死ぬ気で仕事してる間、あいつらはヤってるんやろなぁ〜、死ね!)
僕は生まれてこの方、恋人が出来たことがない。
風俗にも勇気がなくていけず、気がつけば二十四歳童貞だ。
幸せな人間を妬む権利ぐらいはある。
(恋人欲しいなぁ)
一日一回は考えるフレーズを今日も繰り返した僕は車道を横切った。
深夜の車道は車通りもめったになく、油断していた。
甲高いブレーキ音とクラクションに気づいた時には、すぐそばまで車が迫っていた。攻撃的なヘッドライトが僕を包む。
目の前に車が迫っているというのに、時間がとてもゆっくりに感じた。それなのに、僕の身体は金縛りにあったように全く動かない。
ガンっと派手な音を立てて、僕の身体は、ベンツによってはね飛ばされた。
先の潰れた自分の靴が飛んでいる。ああ、死ぬかもな。なんて冷静に考えている自分がいる。考えるべきことはたくさんあるはずなのに、僕の頭に浮かんだのはただひとつ。
(ーーあぁ、明日仕事行かなくてええんか……)
ふわふわとした水の中を漂うような感覚の中、僕は目を覚ました。
どうやら誰かに抱きかかえられているようだ。そして僕の視界に飛び込んできたのは、都会を見下ろす夜景だ。見慣れた職場の風景が車がおもちゃのように小さい。
「あれ、僕……、飛んでる?」
いや、飛んでいるのは僕ではなく、僕を抱えている誰かだ。
白い手が僕の足と背中を支えている。見上げると琥珀色の瞳が僕を捕えた。白いに近い金髪の髪に端正な顔立ちの少年が僕を抱き上げている。とても男一人持ち上げるとは思えないほどの華奢な体だったが、僕の目が奪われたのは、そのせいじゃない。その少年の背後から見える白い翼だ。
「天使……?」
『君の命を助けてあげようか?』
少年とも少女とも聞ける澄んだ声。僕は思わずその声に聞き惚れてしまった。
天使は続けて僕に語りかける。
『その代わり、君の大切なものを僕にちょうだい』
「大切な……もの? なんや、金ならあらへんで」
『お金? 君の大切なものってお金なの?』
天使の声になんの悪意も感じられない。純粋な疑問に僕は言葉を失った。
『君にはないの? 何か大切に守っているもの』
「……童貞ぐらいしかないけど」
それは守っているというより、捨てられない呪われた装備に近いものがあるが、天使の声の返事は意外なものだった。
『じゃあ、それでいいよ』
「ええんか!」
驚いて声を上げたが、どこからともなく照らされた強い光が視界を奪った。
ともだちにシェアしよう!