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第1話

 《仕事が終わりました。これから水族館に行っ てきます》  《お疲れ様。楽しんできてください》  口元がだらしがなく緩みそうになり笹岡海璃(ささおかかいり)は慌てて表情筋を引き締めた。  スウェットからシャツとジーンズに着替え、顔に食べかすがついていないかの最低限のチェックのみで外に出る。  二日ぶりの外は夏特有の湿度が高い空気で満ち、わずかに混じった肉の焼ける匂いを一身に浴びると自分も唐揚げになった気分だ。  下りの電車は帰宅ラッシュと重なりぎゅうぎゅうに詰め込まれているが上りは座れるほど余裕がある。こういうとき在宅勤務はいい。  目的の駅に降り、イルミネーションで煌びやかな外階段を上り、奥まった場所にある建物を目指す。  ゲートに年間パスポートをかざして入ると現実切り離された別世界にワープしたような錯覚に酩酊を覚えた。  灯りを絞った室内に水槽の魚が目に飛び込 む。ゆらゆら好き勝手に泳ぐ名前のわからない魚たちを眺め、溜息が漏れてしまう。  なににも縛られず、なににも脅かされずただ泳いでいるだけで一日が終わる。人間に見られていようがお構いなしに魚は自分の人生を全うしている。  だからこっちも気兼ねなく眺めて、日々の疲れを癒すことができた。  カップルとすれ違っても誰も海璃を見ない。暗くて表情が見えないし、みんな魚に夢中だ。  その疎外感が居心地よく、閉園の八時まで居座りラーメンを食べて帰宅ラッシュをずらして帰るのが水族館に行ったときのルーティンだ。  車窓を流れる夜の風景はどことなく水族館に似ている。  戸建てやマンションにはぽつぽつ灯りがつ き、大勢の人が住んでいて、それぞれの生活がある。魚と同じだ。  だが車内は明るいせいで自分の顔がガラスに反射してしまう。  カラスのような黒い髪と不健康極まりない白い肌。目はアーモンド型で大きく、ぎょろぎょろしていて気持ち悪い。それに口元のほくろが最悪だ。  嘘吐きは唇の横にほくろができると子どものときに揶揄われ以来、コンプレックスの一つとなっている。  逃げるようにスマートフォンに視線を落とした。  アプリを立ち上げ、マリンにメッセージを打ってい ると陰鬱だった気持ちが消えていく。  《水族館に行ってきました。平日の夜は混んでなくてゆっくり楽しめますね》  《土日はファミリーも多くてじっくり見られないですよね。こうめちゃんは元気でしたか?》  マリンのお気に入りのペンギンの名前だが、あれだけの数がいるので見分けがつかない。  《たぶん元気だと思います。みんな楽しそうに泳いでいました》  《それはよかったです。最近会いに行けてないので心配してました》  やさしい文面に心の水位が上がる。日々沈む一方の自己肯定感がマリンとメッセージを交換するようになって均衡を保てている。  マリンとはゲイ向けの出会い系アプリで知り合った。  水族館が好きという理由でドルフィンというハンドルネームで登録した途端、山のようなメッセージがきた。  「今夜暇?」「ネコとタチどっち?」から始まり、好きな体位やえげつないプレイ内容の シナオリを送ってくる変人も多く、登録したことを後悔した。  そんなかでマリンだけが「イルカ好きなんですすか?」とまともなメッセージをくれた唯一の常識人。  海が好きだと言うマリンとはすぐに打ち解け交流を重ねるようになって一カ月が経つ。  マリンは博識で海の生物に詳しい。しかも知識をひけらかすような浅はかさもなく、訊けば答えてくれその説明もわかりやすくて好感が持てる。  プロフィールには三十歳と書いてあり、海璃の三歳上だ。  (マリンさんはどんな人なんだろう)  プロフィールには写真を載せていないのでどんな容姿かまったく検討がつかない。  その空白の写真に妄想が膨らんでしまう。  できればスーツが似合う理知的な大人がいい。  襟元をきっちり整えられた短髪で、細身で、ノーフレームの眼鏡をかけていたら満点だ。  逆に筋肉質でタンクトップを年中着ている男は苦手だ。そういう男は大抵声や態度がデカく、酒や煙草、ギャンブルが好きそうだ。ガサツな男は好みじゃない。  でもメッセージのまめさや文章から滲み出るマリンは間違いなく自分の理想としている男だろう。  手を繋いだり、キスをしてみたい。ゆくゆくは甘い快楽に溺れてみたいーー  妄想を膨らませ口元がだらしがなくなっているのに気づき、慌てて下を向く。  中学生のときに自分の性的思考に気がつい た。いつも本を読んでいる同性のクラスメイトを目で追うようになり、それが恋だと気づいたときは失意の底に突き落とされた気分だった。  海璃の父親は市議会議員をしている生真面目を絵に描いた人で、教育熱心な母親と優秀な弟に囲まれ、少しの不祥事でも許されない家庭環境に身を置いていた。  噂が広まりやすい田舎町でゲイだと知られたら、父親は市議会議員を辞めさせられ、町から迫害されるに決まっている。  ゲイだということは友人にも言わなかった。悟られないよう人付き合いも慎重になると友人が一人また一人と減っていき、次第に集団から孤立するようになった。  寂しさを紛らわせるために偶然見つけたゲイの恋愛掲示板に出会い、そこに書いてある小説のような恋愛話に思いを馳せて心を癒す毎日。  大学進学を機に上京し、自動車メーカーの営業に就職した。だが人付き合いを避けてきたツケが回り顧客と信頼関係が築けず、車は一台も売れることなく成績が後輩に抜かされるばかり。  精神的に辛くなり、完全テレワークの会社に転職したのが半年前。  三十歳を目前に寂しさをこじらせてすぎて酒に酔った勢いでアプリに登録し、マリンと知り合った。  メッセージなら文章を考える時間があるから自分なりのペースでできるので友好な関係を築けている。  だがそろそろマリンがどんな人なのか会ってみたい欲望が抑えられなくなってきた。  風呂から出るとまたマリンからメッセージがきていた。毎日やりとりはしているが、いつも二、三回程度。今日はかなり続いているなとほくほくした気持ちでアプリを開く。  《実はM水族館のナイトツアーに当たったんです。よかったら一緒に行きませんか?》  ついに来た!  マリンから誘われるのをいまかいまかと心待ちにしていた。年齢=恋人いない歴の海璃にとって千載一遇のチャンス。広いネットの海で唯一出会えた運命の人に心ときめかない男はいないだろう。  でも、と指が止まる。  「おまえがそんなんだから舐められるんだ」「どうしてお兄ちゃんなのにできないの」と詰られて自尊心を土足で踏みつけられた心は原型がわからないほどズタズタだ。  顔を合わせるだけで両親から罵倒され、そんな兄の姿を見て育った弟には莫迦にされ続けた。  だから自分はダメなクズだという意識に心が取り囲まれている。  (マリンさんも俺を見て幻滅するかも)  これと言って可愛いげがある見た目でもない。  並んで歩いているだけで恥ずかしい思いをさせてしまうのではないか、とスマートフォンを持つ手が震える。  うじうじと考えていると再び通知が鳴った。  《迷惑だったら断ってもらって大丈夫です。メッセージを交換するだけでも楽しいです》  押しすぎない誘い方と逃げ道を用意してくれる大人な対応に撃ち抜かれた。  ここは腹をくくるしかない。  《ぜひご一緒したいです》  送ってしまったと頭を抱えそうになったが、どうにか踏みとどまる。  こんな大胆な行動はアプリを登録した以来 だ。心臓が鼓膜のすぐ横でバクバクと拍動している。  《よかった。楽しみにしていますね》  ガッツポーズをしてベッドにダイブした。会える。  マリンに会えるのだ。  もう一度画面を見て、マリンからのメッセージをスクリーンショットで残しておいた。

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