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知佳子さんの話
社会人になって数年ほど経った息子から、引っ越しをしたいから保証人のサインが欲しい、ついでにルームメイトを紹介する、と言われた時、ついに来たかとスマートフォンを握りしめた。
私はあまり緊張をしない。冷静な性格、というよりは何ごとも『まぁ、別にいいんじゃない?死ぬわけじゃないし』と思ってしまう。その性分がなぜ息子に遺伝しなかったのか……と思わないでもないが、今はそんなことどうでもいい。
さすがに心臓がドキドキするし手汗が出る。更年期の症状も相まって暑くなる。いや、これは嫌な緊張じゃない。多分、そう、嬉しいのだ。
息子は、赤ちゃんの時は少し育てにくい子だった。よく泣くし母乳もミルクも離乳食も手こずった。大きくなってからは手がかからない代わりに大人しくて心配になった。大学に入るまで友達を家に連れてきたり、友達と出かける、なんてことがあまりなかったように思う。本人は気にしてなさそうだったので、私もあえて放っておいた。彼の父親、つまり私の旦那は温和ではあるが、あまり育児に関与してこないタイプで頼りにならなかったので息子の成長はほとんど私が見守っていたと言っていい。
その息子が大学に入ってアルバイトを始めた。まさかのコンビニエンスストアで働くと言い出した時は少しだけ心配もした。愛想のない息子が接客なんてできるのか?と。しかしかえってコンビニという店員の質をそこまで求められない場所は彼に向いていたようで、意外にも一ヵ月、二ヵ月……半年と続いた。そうか、この子はお金を稼ぐ能力はあるのか、とホッとはしたがあとは友人なり彼女なりなんなり作ってもう少し青春を謳歌してくれたら……なんて勝手な欲と期待を持て余していた。まぁ、それでもこの子は音楽が趣味なようで自分の世界で楽しんでいたので、それでよしとするか……と思っていた矢先のことだった。
ある日突然、アルバイト先で友達ができた。今度一緒に遊びに行く。と言い出すではないか。私は密かに狂喜乱舞というほどに喜んだ。息子に一緒に遊びに行くほどの友人ができるなんて。表には出さないようにしたが、寿司でもとってケーキでも買いに行きたいほど喜んだ。
その後も息子はやたらその『友人』とつるみ、遊びに行く、ライブに行く……に続いて家に泊まりに行く……ということが増えた。もしかしてその友人とは女の子で、彼女ができたのではないのだろうか?と訝しむようになった。
それから大学三年生になった頃、家を出たいと言い出した。聞けば、その『友人』とルームシェアをしたいと言うのだ。いやいやいやいやいや、いくらなんでも仲が良すぎだろう。さすがに私は問いただした。本当は彼女と住むんじゃないの?と。それなら話が変わってくる。学生のうちから同棲なんてするもんじゃない。するにしても親同士で顔を合わせるとか筋を通すべきだ。
すると、息子は写真を見せてきた。『この人とだよ』と。なぜか自慢気に。だいぶイケメンの男の子だった。『か、かっこいい子ね……』と思わず言ってしまった。息子はニヤっと笑った。いやいやいや、何そのドヤ顔。初めて見たわ。じゃなくて。
とりあえず、家を出るのは早すぎる。家から通えないわけじゃないのだし、今はしっかり勉強をしなさいとか、生活費はどうするの、とか、とりあえず親らしいことを言ってみた。しかし、私の頭はそれどころじゃなかった。
あれ?もしかして、息子って同性の恋人がいる……?
薄っぺらい反対の言葉を並べていると、息子がまくし立ててきた。学業は順調だし、アルバイトも楽しいからお金の面も大丈夫だ。貯金もこれくらい貯まった。なんとか生活できると思う。迷惑かけることもあると思うけど、今まで自分から何かやってみたいと思うのは初めてだったからやってみたい。社会人になったらきちんと家にも入れる……とかなんとか。私は、普段無口で割と何を考えているのか分からない息子がシャベッタァァと面食らってしまってしばらく固まってしまった。
これは、確実にアレだ。初めての恋で舞い上がってるソレだ。親が反対すると余計燃えるヤツだ。
いや、あんた単に彼氏と新婚ごっこしたいだけでしょ、という言葉をかろうじて飲み込んだ。
しばし保留にして旦那に相談したところ、『別に友達とルームシェアくらいいいんじゃない?』という非常にどうでもいい返事が返ってきた。いや、友人じゃなくて彼氏かもよ。という言葉も飲み込んだ。その頃、私の胃袋は飲み込んだ言葉でパンパンだった。
かなり悩んだのち結論を出した。可哀想だがそんな若気の至りで始めた同棲生活なんて長くは続かないだろう。しかし、息子は人間関係の経験値がだいぶ乏しい。これも経験かもしれない。
私は学業・就活をおろそかにしないこと、援助もするが基本的に生活費は自分で賄うこと、どっちかが難しくなったら即ルームシェアを止めることを条件に許可した。
その時の彼の喜びようといったら、ない。大学に受かった時より遥かに喜んでいたような気がする。
結局、息子はきちんと卒業、就職をして今に至る。卒論や就活が忙しく、仕送りやどうしてもという期間だけお金は貸したが、きちんと返済してくれている。何より会うたびになんだか顔が明るくなっているのが目に見えて分かった。端的に言うと幸せそう。幸せそうだった。私はそれが何より嬉しかった。
一体、どんな子なのだろう。息子をこんなふうにしてくれたのは。会ってみたい。何度かそれとなく促してみたけれど、はぐらかされている。まぁ、そうよね。と思いながら日々を過ごしていたのだが、先日連絡が来た。職場からもう少し近いマンションに引っ越すから、保証人のサインが欲しい。ルームメイトも連れてくるからランチでもしないか、と。
私は超特急で美容院を予約した。
待ち合わせから十分遅れて、私はファミリーレストランに入った。遅刻したのはわざとだ。私が先にいたら彼らは緊張してしまうだろうと思ったのだ。
休日の昼下がりのファミリーレストランはそれなりに混んでいて、ざわざわと賑わっていた。店内の奥の四人掛けのテーブルに息子と彼はいた。以前見せてもらった写真より、なんだか地味だ。金髪に近い髪色は今は黒に近い茶色だった。遠目から見ても明らかにそわそわしている。私は微笑ましくなり、心の中でふふっと笑った。
「お待たせ~!遅くなってごめんね~」
私は努めて爽やかに席に近づいた。その瞬間、息子の隣にいた彼は即座に席を立ち、
「初めまして!川﨑です!」
と九十度に背中を曲げて叫んだ。息子もぎょっとしていたが、周りの客もちらっとこちらを見た。しかし、赤ん坊の泣き叫ぶ声や若者のお喋りにかき消されて、すぐにみんな興味を失う。
「初めまして、夕大のママです」
とにこっと笑うと、彼は初めまして!と再度言った。息子はどこかげんなりした顔で私を見た。
「とりあえず、座ろっか。もう何か頼んだ?」
「まだだよ。来てから頼もうと思って」
息子は私にタブレットを渡してきた。私はタブレットを操作するふりをしながら、息子の隣に座る彼を見た。ベージュの薄手のジャケットに紺色のチノパンを履いている。うんうん、爽やかだ。それにしても、だいぶ今風でかっこいい子だ。髪もきちんとセットしているし、ピアスの跡も見える。息子とは明らかに系統が違う気がする。はぁ、美容院行っておいてよかった~と心底思う。
注文を一通り終えて、さて。という雰囲気になった。そこでおもむろに息子は口を開いた。
「あのさ、気づいてると思うんだけど、俺、この人とずっと付き合ってる」
嫌なことは早く済ませたい、とばかりに息子は一息で言った。
いや、早い早い早い。隣にいる陽也くんも面食らったようで「うぐっ」と小声で唸った。
息子は『というわけでよろしく』とばかりに早々にしらっとした顔をしている。可哀想なのは陽也くんだった。
「あのっ、あの……、あのっ、ご挨拶がとんでもなく遅くなってごめんなさい!本当はもっと早くに挨拶しにいかなきゃいけなかったんですけども、定職に就いてるとは言い難いような状況でもっとちゃんとしてからとか思っているうちにこんなに遅くなっちゃって!ご心配おかけして申しません…!あれ、いや、申し訳ないです!」
申し訳ありませんとすみませんが混ざった?というツッコミを飲み込んで、頭を下げる陽也くんを見た。なんというか、とんでもなく良い子なんだろうな、というのは分かる。
「それで、今は!カフェの店長見習い的なことやってて!とにかくちゃんとしてるんで大丈夫です!」
と続けた。うん、まぁお金は大事だしね。
「っていうか、すみません、いきなりこんな話されてもびっくりですよね……」
いや、いきなり話出したの息子だしね。陽也くんは目をぐるぐるさせていた。
「ハル、落ち着いて」
息子が助け舟を出す。お前は落ち着きすぎだ、と心の中で呟いたところで猫型ロボが呑気に食事を運んできた。
「そんな緊張しなくて大丈夫よ。別に反対とかしないからね」
緊張のせいか、ハンバーグをひき肉に戻しかねない調子で切り刻み続ける陽也くんに声をかける。ありがとうございます!と机に額をぶつける勢いでまた頭を下げる。ハンバーグのソースが前髪につかないか不安になった。
「それより、そちらのご両親は大丈夫なの?何か言われない?」
「うっ、うちは……その、ちょっと複雑で……。一応夕大くんと一緒に住んでることとかは報告しているんですけど、特に何も言ってこなくって」
「でも紹介とか挨拶とかした方がいいんじゃないの?私もご両親にご挨拶とかできたらいいんだけど……」
「いえ、すみません。でも多分、断られると思うんです、ほんとにすみません……」
「そう……?」
陽也くんはこの話を切り上げたいように謝った。まぁ、そうよね。それが一般的な反応かもね。と思う。
そんなことを思っていると息子はちょっとトイレ、と言って席を立ってしまった。生理現象とはいえ気の利かない息子で申し訳ない。取り残された陽也くんは「えっ!」と声を上げてあからさまに心細い顔をした。別に取って食ったりしないので怖がらないで欲しい。
「…………」
「…………」
陽也くんから何か言い出すかなとしばらく待ったが、何も言わない。だから私は言おうと思っていたことを口にした。
「あのね、陽也君」
「ふぁ、はいっ!」
陽也くんは背筋をピンと伸ばした。
「ごめんね、私、気の利いたこととか言えないんだけど」
いやそんなことないですっ!と何も言わないうちからフォローされた。私は苦笑しながら続ける。
「あの子、あんまり友達とかもいないと思うのね」
「あ、はい、そうですね」
やっぱりそうかーっと心の中でずっこける。
「でも会社は楽しそうに行ってますよ。同期の人とかと仲いいみたいだし……」
「え、そうなんだ」
遠くもないのに、いや遠くないからか実家に滅多に顔を出さない息子の近況をほとんど知らなかった。
「まぁ、とにかく。あの子が誰かと楽しそうにしてるのって初めて見たから。私はね、嬉しいなって思ってるよ。ありがとう」
私は、例え一人でいるのが好きであっても孤独じゃないといいなと思う。息子がひとりぼっちじゃないといいなと思っていた。ずっと。それが簡単なことじゃないことは分かっていた。特に息子には難しいだろうと。あの子は一人でいる方が好きな子だったから。
親のエゴだとしても、嬉しい時に一緒に喜んでくれる人、悲しい時に一緒に悲しんでくれる人。感情を共有してくれる人がいるのは少しだけ生きる難易度を下げてくれる。そういう人が一人でもいればいいなって思っていた。それがどういう人かは私はどうでもよかった。友達でも恋人でもなんでも。親以外の他人からそういう愛をもらう経験をして欲しかったのだ。
お礼を言ってから陽也くんは下を向いてしまった。あれ?ちょっと重かったかな?
「ぐすっ」
「え?」
陽也くんから洟をすする音がする。まさか。
「あのっ、俺の方がありがとなんです。ほんとに、いっぱい迷惑かけてるのに見捨てないでくれて、こんな振り回しちゃってるのに一緒にいてくれて……!」
やばい。陽也くんの目がうるうるしている。私は狼狽えた。
「でも夕大くんのこと大事にするんでっ!!ありがとうございますっ!お母さまぁ!」
陽也くんはぽろぽろ涙を流した。どこから突っ込んでいいのか分からない。周りから若者を詰めてるおばさんだと思われたくなくて、とりあえずポケットティッシュを差し出した。
「えっ、泣かせた?」
息子が引きつった顔をして戻ってきた。
帰り道、まだ明るいファミレスから駅までの短い距離をくっつきそうなほど肩を並べて歩く二人の少し後ろを歩いた。
改札までのエスカレーターに前後で並んでじゃれ合いながら乗る二人を眺めた。なんだか恋人というより兄弟みたい。二人はきっともう家族なのだろう。そういえば兄弟、欲しかったなと遠い過去を思い出した。結局一人しか授からなかったけども、兄弟が欲しかったなとたびたび落ち込んだこともあった。
改札で別れて、ホームへ向かう二人の背中を見えなくなるまで眺めた。
急に胸がぎゅっと締め付けられた。息子が初めて歩いた日とか、お遊戯会で踊ってた時とか、運動会で走ってた時とか、そんな気持ちを思い出す。
同級生にはもうおばあちゃんになった子もいる。孫とかお嫁さんとかそういうのに憧れないわけではない。でも息子が増えたと思うととっても嬉しい。柔らかく笑う二人を思い返すとなぜだか胸が詰まる。
私、尊いものが増えたんだ。
ああ、いい日だった。ケーキでも買って帰ろうかな。私はそのまま駅ビルの食品街に向かった。
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