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「カシューナッツ炒めと空心菜炒め、あとキクラゲスープにチャーハン、お待ちどうさまです!」  ガラガラ、と、昔懐かしいガラスの引き戸を開けた瞬間、耳に飛び込んできたのは溌剌とした青年の声だ。  中華料理店『三幸』の店内は良くも悪くも下町の小さな店、といった情景が広がる。若干べたつく床、雑多な色の雑貨、無音の店内には食器がぶつかる音と店員の声だけが響く。 「いらっしゃいま――あっ、佐塚さん……!」  頭にタオルを巻いた精悍な青年が、佐塚を見つけて勢いよく振り返る。そのままばたばたと駆け寄ってくる顔をまじまじを見上げて、五秒後にやっと『あ、ホンモノのナギサくんだ』と納得した。  つい数時間前まで一緒に過ごしていたというのに、今目の前にいる青年は、すっかり別人に見える。 「ほんと、ほんとにスイマセン……! わざわざ、届けてもらわなくても……!」 「いや携帯は必要だって。財布と携帯は忘れてったら駄目だって。これが時計とかアクセサリーとかならおれも後でいいでしょって思うけどさ」 「佐塚さん、ご予定あったんじゃ……」 「ないない。今日は普通に休みだよ」  本当は持ち帰った仕事をこなすつもりだったが、さらりと無かったことにした。休みなのは本当なので、これは嘘ではない。  昨晩、佐塚は女性向け風俗サービスリベンジの為、自宅にナギサを招いた。  ついうっかり風呂場で盛り上がり、そのままなし崩しに延長してもらい、結局身を寄せ合って眠った。あわただしく身支度を整えるナギサを欠伸交じりに送り出したのは、今朝の八時だ。  そして心地よい疲労感と眠気に、二度寝を決め込もうとした佐塚は布団の端に転がっている見慣れないスマホを発見した、というわけだ。  一時間後、佐塚のスマホを鳴らした知らない番号はナギサ個人の携帯だった。彼が佐塚の家に置き忘れたものは、どうやらフェティッシュの仕事専用の携帯らしい。  本業が忙しくて動けない、しばらく預かっていてほしいと恐縮する彼に対し、佐塚は『いや届けるよ』とあくびをかみ殺しながら提案した。  フェティッシュのセラピストとのやり取りは、ほとんどSNSで行っていた。これが無いと本当に仕事にならないだろう。それに迷惑でなければ、ナギサの本業とやらも覗いてみたい。  そんな若干の好奇心があったわけだが――。  まさか、町中華のお兄さんだったとは、思いもよらなかった。 「……忙しそうだけど、話してて大丈夫そう?」 「はい、平気です、今日はもうここでいったん区切るらしいので。どうぞ座ってください。おなかすいてませんか? お時間平気なら、何かお出ししますよ。僕のおごりです」 「あ、本当に? おれそういうの、素直に甘えるタイプだよ」 「ぜひ。こんなところまで、わざわざご足労していただいたんですから!」  見た目は完全に下町バイトの青年だ。しかし声も表情も、その丁寧すぎる柔らかな口調も、佐塚が知るあのイケメンで若干エロい青年と一致する。  あたまバグりそう。という感想はひっこめて、お言葉に甘えて天津飯と杏仁豆腐を注文する。そういえば朝から珈琲しか飲んでいない。  厨房に戻っていくナギサの後ろ姿を目で追いつつ、なんとなく瀬羽が好きそうな店だなぁと思う。  厨房に立っているのは気難しそうな巨漢の男性で、ナギサのほかには店員はいない。客は一人客ばかりだ。おそらく近所の人間なのだろう。  地元の人しか知らないような、少し汚くて不愛想で、けれど味は美味い、そう言う店が瀬羽好みだ。  佐塚自身は特に外食に拘りはない。極論、摂取できればなんでもいい。そのせいで最近は延々と同じ弁当ローテを組んでいたが、昨日は久しぶりにデザートというものを口にした。  コンビニでプリンとアイスを買ったのは、ナギサがデザートの棚を物色していたからだ。  甘いモノが好きなのだろうか。佐塚はあまり、甘味を好んで口にするタイプではないが、修羅場作業中は脳への糖分補給という名目でケーキやチョコレートを貪ることもある。別に食えないというわけではないし、眉を顰める程嫌いというわけでもない。  ナギサごと眺めていたら食べたくなって、ついかごに入れてしまった。  風呂から上がった後、それを思い出してナギサにお茶とプリンを差し出すと、どろりと笑ったイケメンは『一緒に食べましょう』と佐塚の腕を掴んで引き寄せた。  そろそろ佐塚は学習したほうがいい。  ナギサは物腰柔らかで、爽やかな好青年だ。しかし『仕事中』の彼に捕まると逃げだすことは難しい。本気で嫌だと振り払わなければ、その甘い声で押し切られてしまう。 (イヤじゃないのが、またよろしくない)  腕の中に捕らわれて、ひとすくいずつプリンを口に運ばれて、これは一体何のプレイなのだろうと思いながら甘いキスをする。唾液がプリンに混ざって、あまりにも背徳的だった。  甘いキスは段々深くなり、気が付けば敷きっぱなしの布団に押し倒されていた。そこからはもう、ひどい痴態の連続だ。  途中で本当に理性がぶっとんでしまった佐塚は、ナギサの足を舐めさせてもらった。興奮しすぎて眩暈がした。もしかしたら一回くらい射精してしまっていたかもしれない。  どう考えてもやらかした。多様性の時代、と皆口にするけれど、足を舐めて快楽を得る男を目の前にしたらとりあえず一歩程度は引くだろう。自分でもそう思う。  しかしナギサは甘ったるく目を細め、最高に艶っぽい顔で『すごいえっちな顔してますよ』と囁いた。 (……あ、だめ、思い出すと勃ちそう……)  中華料理屋で勃起する男は、さすがに社会性を疑う。  かといって普段考えているのは仕事の事で、それもまた健全とも言い難く、仕方なく佐塚はテーブルの染みを数えて時間を潰した。  しばらく待ったのち、注文した料理を運んできたナギサは、そのまま自分も佐塚の向かいの席に座る。腰に巻いた短いエプロンを取り、頭のタオルをほどく。髪型はぐしゃぐしゃで、普段のきっちりとスタイリングしているナギサとまるで別人だ、と思ってから、『いやこっちが「普段」なのかも』と思い直す。  思いのほか量の多い天津飯の卵はふわっと軽く、醤油味の強い味付けは佐塚好みだ。 「……ナギサくん、午後からは別の仕事?」  もぐもぐと頬張る。味わって飲み込む。その合間にテーブルに頬杖をついてじっと佐塚を見ているだけのナギサに問えば、やっと自我を思い出したように表情が湧いた。 「あ、いえ……そっちの仕事はないんですけど、ちょっと子供の面倒見なくちゃいけなくて」 「え。……ナギサくん、お子さんいるの?」 「違います! 甥と姪! 姉の子供達です……!」 「あ、そうなんだ。いやー、ほら、今は晩婚だって言うけど、二十代なんて普通に結婚してる子もいるしさ」 「ちゃんとした相手がいるなら、ああいう仕事しませんよ」 「あー。ナギサくんは、そうだろうな。むしろちゃんとした相手がいなくたって、ああいう仕事してるのがちょっと不思議なくらいだし」 「それはその……シンプルに、お金が無いんです。掛け持ちしようにもちょっと、シフト制のところはむずかしくて。……夜も、子供たちを見てなきゃいけない時が多いので」 「ここ、実家?」 「はい。いや、実家ってわけでもないんですが、姉の店です。住んでる場所、って意味では実家みたいなものですけどね」  親の店ではないんだな、と少しだけ引っかかるが、別にそこまで根掘り葉掘り聞くこともないかと思いなおす。そもそも、セラピストの個人情報を聞き出す事自体が、NG行為にあたりそうだ。  最後の一口を咀嚼しながらそんなことを零すと、あははと笑ったナギサは眉を落とす。 「佐塚さんに関しては、もうなんか、結構今更ですよ。特別なことばっかりしてるし、実家までバレちゃったんだから、これ以上隠すようなことは何もないです。僕に関してたぶん一番詳しいお客様ですよ」 「そうかな。あだ名と電話番号と住んでるところと甘いものが好きってことくらいしか、知らないよ」 「あだ名じゃないです。倉持汀、本名です」 「……本当に詳しくなっちゃいそうだね。いいの? そんなあれこれ漏洩しちゃって」 「調べようと思えば、すぐにわかることですから。さすがにこの店にまで押し掛けてきたお客様はまだいませんが、いきなり私物の電話に連絡がきたことはありますよ」 「人気者じゃん。大丈夫? おれ、刺されない?」 「さすがに店の方でNGにしてもらいましたし、そういう人はめったにいません。そもそも僕は勤務時間が少ないですから……」 「いやぁ、コアなファン飼ってそうだけどなぁ……。………………………」 「……佐塚さん? どうかしましたか? 杏仁豆腐、口に合わない?」 「いや……おいしい、けど、なんか、昨日のプリン思い出して……」 「…………あー……」  汀は、妙に気まずそうな顔で目を細める。 「悪い、とは、思ってます……」 「え。何が? 悪い? ……え、あのプリンプレイってマニュアルとかがあるんじゃないの?」 「無いですよそんなの……ていうかたぶん怒られます。お客様から頂いた食べ物で、勝手にあんなことしたら。ご所望ならば別ですけど」 「いやでも、アレ良かったよ。すごい参考になった。汀くんのお陰で企画のプロットなんとかなりそう」 「お力になれたのなら、良かったです」 「あ、でも次からは特別扱いしなくていいから」 「………………次?」 「うん。取材も大体終わったし、他のお客さんにも悪いし」 「え。佐塚さん、次も予約入れてくれるんですか?」  杏仁豆腐に落としていた視線を上げる。心底驚いた様子の汀の目は笑えるほどに見開かれていて、元の顔の造形も相まって映画の美少女のようだ。  びっくりした顔かわいいな……と一瞬思考を飛ばしそうになったものの、佐塚ははたと気づく。  もしかしなくても、男性客である自分への接客そのものが『特例』であり、普通は予約を受け付けてもらえないのではないか? 「――あ。ごめん、女性用だよね、おれがホイホイ予約したらまずいか。まずいね。そりゃそう――」 「まったく問題ないです大丈夫です!」 「……本当に?」 「極論、お金を落としていただければどんなお客様だろうと店側は歓迎しますよ。勿論スタッフとお店に迷惑が掛からないことが前提です。佐塚さんは満子さんのご紹介ですし、無理な要求をする人ではないですし、きちんとルールを守ってくださいますから、問題あるはずがないです。あ、でも、男だけど女風行った~みたいな事を口外するのはちょっと、他の店やセラピストに迷惑かもしれないので……」 「言わない、言わない。本来の客層ではない自覚くらいはあるよ」 「……取材は終わったのに、どうして、うちの店をご利用してくれるんですか?」  じっと佐塚を見つめる青年とがっちりと目が合う。妙に真剣なその表情には不安と期待が見え隠れてしていたが、生憎と佐塚は宇宙人すぎて他人の機微に易々と気がつけなかった。  佐塚は人間の感情に疎い。けれどそもそもの人格が比較的まっとうな上、佐塚をよく知る人間としか付き合わないので、あまりヘマをすることもない。  この時も、いつも通り思った事をそのまま告げただけだ。 「汀くんの足、もっと堪能したいと思って」  そしてこの回答のあとに眉を寄せる汀を見ても、『あ、今の変態すぎたかなぁ』と若干申し訳なくなる程度だった。  佐塚はすっかり、汀を信頼しはじめていた。少しくらい引くかもしれないけれど、たぶん、急に手を離したりはしない。そういう子だと信じていた。  とはいえ面と向かって真昼間から『きみの足が性癖です』などと告げられても、嬉しくもなんともないだろう。シンプルに気持ち悪い可能性すらある。  しまった、また何も考えないで口を動かした。  若干反省した佐塚だが、汀はなんとも言い難い表情で唸りだした。 「足……足かぁ…………そっか、足……………」 「……あー……ごめん、気持ち悪かった……?」 「あ、いえ、そんなことはないです。……でも、男じゃなくて女性の風俗を利用したほうがいいんじゃないですか? 佐塚さん別にそこまで無理な要求してこないし、足を舐――堪能したい程度なら、デリのお姉さんは喜んでくれるんじゃないかと思いますけど」 「うーん……でもほら、ガチャ要素強すぎでしょう。顔はまあ、加工とかはおいといてなんとなく写真も出てたりするけど、足まで写ってる写真あんまりないし、いざマッチングした人の足がおれ好みかどうかわかんないし」 「足に、好みってあるんですね……」 「あるでしょ、そりゃ。汀くんだって『女の子が好き』だろうけど、『女の子ならだれでも好き』じゃないでしょ?」 「はぁ、まあ……そうですね」 「幸い足に関しては男女差があんまりないからね。というか男でもおっけーというか、むしろ結構イイって知っちゃったし、きみと話してるの面白いし楽しいし、かわいいし、相性もいいみたいだし、じゃあきみでいいじゃない。というか、きみがいい、みたいな――汀くん?」 「…………なんでもないです……全然、その、もっと続けてもらっても良いです……」 「疲れてるんじゃないの? 昨日ちゃんと寝た?」  テーブルにぐったりと突っ伏す青年を心配して額に手を伸ばす。なんとなく熱っぽいような気がしないでもないが、さっきまで厨房内で働いていたせいかもしれない。 「……佐塚さんの手、冷たいですねー……」 「不健康の証だよ。末端冷え性。汀くん、具合悪いなら休んでた方がいいよ。子守仕事、他に任せる人いないの?」 「生憎と、僕しか手が空いていません……というか、まあ、基本僕の仕事なんですよ……」 「甥と姪だっけ。何歳くらい?」 「小六男児、小四男児、三歳女児」 「……想定より一人多かった。一番元気な時期のお子さんじゃないのそれ」 「はぁ、なので、どっか勝手に遊んでもらえるところに行こうかなーと思ってるんですが、スケートリンクとか……?」 「きみ死んじゃうでしょそんな体力使うところ」 「でも映画館とかで静かに出来る感じじゃないんですよ。子供だから仕方ないんでしょうけど……」 「うーん……汀くんさ、魚と動物と恐竜、どれが好き?」  佐塚の挙げた三択を受けた汀は、本当に頭が働いていない様子だ。一瞬だけ不審げに眉をよせ、うーんと首をひねり、『恐竜……?』と答える。 「じゃ、上野だ。閉館十六時だけど今から行けば間に合うよ。ご馳走様でした、はい上着取ってきて、その子たちも連れてきて」 「え。え? 佐塚さん、何――」 「子守。別に得意ってわけじゃないけど、お手伝いくらいはできるよおれだって」  これはちょっとだけ嘘だ。子守なんてほとんどしたことがないし、小学生と触れ合うこともない。けれど彼の疲労困憊の原因は、佐塚が無理やりスケジュールを延長したせいでもあるだろう。  たまには外に出ないと本当に身体が椅子と同化する。家で横になっているだけが休養じゃない。  そんな言い訳を並べ立てて、佐塚は動揺している汀を追い立てた。

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