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 博物館、というのだから、もっと小難しくて厳粛なイメージがあった。 「……すっごい」  しかし、初めて足を踏み入れたそこは、色とりどりのライトと模型に溢れた、まるでテーマパークのような空間だった。  上野に美術館や博物館が乱立していることは知っていた。が、そういうものは高尚な趣味であり、自分のような人間がおいそれと足を踏み入れる場所ではない、と汀は信じ込んでいたのだ。 「え、何アレ、カメですか? でかい。すごい」 「アーケロンね。男子は大体あれ好きだよね、わかるよ、おれも好き。ちょっと玖宙くん、その先は入っちゃダメなとこ。他のヒトの邪魔になるからね、線から出たら駄目。凌空くんどこ行った?」 「あっちで三葉虫見てます」 「あー……三葉虫めっちゃ好きな子、たまにいるよね。カブトガニとかグンソクムシとか好きそう」 「ダンゴムシすごい拾ってくるんですよ……」 「好きそう」  ふは、と笑う。佐塚のその、苦笑のような軽い息に、隣に立った汀は逐一心臓を掴まれる思いだった。  セラピストの方の仕事で佐塚の家を訪ねた。朝まで彼と過ごし、思い切り寝過ごした上に携帯を忘れて帰ってきた。そしてわざわざ汀の家まで携帯を届けに来てくれた佐塚に手を引かれ、甥二人と共に今は科学博物館に居る。  どうしてこんなことになったのか、本当にわからない。  昨晩からずっと予想外の連続だ。  まず、自分が年上の男に恋に近い感情を持ち始めていることからしておかしい。  普段から生活を回すことだけでいっぱいいっぱいで、恋などしている暇などない。それでも数少ない恋愛の対象はみな異性で、自分はストレートだと自覚していた。  いくら性的な接触を持ったとはいえ、それはお互い仕事の関係上だ。汀の手で何度佐塚が射精しようが、そこに恋愛感情も、恋愛関係もない。セラピストが提供するのは性的な快楽のみである。  所謂ガチ恋勢という客が居ないわけではなかったが、佐塚に関しては完全に向こうも仕事である。  きっかけはわからない。性的なことに弱すぎる彼の反応が汀の好みだっただけかもしれないし、ふいに見せる柔らかなわりにきっちりとしている性格が好ましかったからかもしれない。もはや恋の沼の淵で落ちかけている汀にとって、きっかけなど些細な問題だ。  自分が同性に完全に参っていることはこの際どうでもいい。そういう事もあるだろう、と思えばそれで終わりだ。  だが、年下の友人のように気を許してくれている――その上、汀を気遣い子守の手伝いまで申し出てくれている彼の友情を、じりじりと裏切っているようで居たたまれない。  シンプルな好意で手を引かれる時、無防備に笑ってくれる時、なんでもない風に名前を呼ばれる時、一々ときめいている自分が嫌になる。  この人は友人、この人は友人、この人は友人……と、一心不乱に心の中で唱えても、『どうしたの?』と見上げてくる佐塚の顔を見ただけで汀の努力など水泡に帰す。  ときめいて死にそうになるので、首をかすかに傾げる仕草をやめてほしい。――正直に言えば、自分以外の前でその仕草をすることをやめてほしい。 「……やっぱ具合悪いんじゃないの? ベンチで座ってなよ、凌空くん虫見てるときはわりと大人しいし、玖宙くん軽いからヤバそうならおれひとりでも拘束できそうだし」  佐塚の言う通り、長男の凌空は先ほどから壁の標本をきらきらとした目で眺めているし、普段から落ち着きのない玖宙はしっかり佐塚に手を握られている。  いちばん下の妹である海未は姉と共に外出していたので、三歳児を抱きかかえる労力は必要ない。これだけでも十分楽だ。 「いや、ほんと大丈夫です。普段あんまり人混みの中につっこまないので、ちょっと慣れてないだけで……博物館って、思ってたより人気なんですね」 「うーん、まあ、科博は割とテーマパーク気味だよね。お子さんがかぶりついてなんぼだから。たまに一人で来るけど、美術館と違ってものすごい場違い感出る」 「一人で……? え、佐塚さんて博物館とか好きなんですか?」 「普通。でも絵とか陶芸品を見るよりはでっかいカメの骨見てた方がわくわくするタイプ、かな? まあおれがよく居るのは地下三階だけども」 「地下三階……」  手元の小さな案内図に視線を落とす。地下三階の展示は『自然のしくみ』。どうやら科学や宇宙などの展示をしているようだ。  なんとなく、佐塚のイメージとは言い難い。  そう思ってしまったことがバレたらしく、軽く佐塚に苦笑される。……今の顔もかなり好きだ。いちいち好きで本当にきつい。 「まあおれ、理系っぽくないよね。わかるよ」 「その……佐塚さんて、科学や宇宙とかにそんなに興味なさそうというか。そういうものもあるんだ、ふーん、で流してしまいそうというか」 「わかるわかる。おれもそう思うし、思ってた。でもみんなが『おまえは宇宙人すぎる』って言うもんだから、おれはシンプルに同類に興味が湧いただけだよ。宇宙人ってどういう奴らなのかなぁって」 「…………佐塚さんて、変ですよね……」 「あはは。よく言われる」  珍しく軽く笑う。  彼の優しい笑い声だけで、汀の胸は息苦しくなる。まだ、ギリギリ落ちていない――そう思っている恋は、どうやら相当重傷らしい。 「元々、勉強は嫌いじゃないっていうか、まぁ情報を脳にぶち込むのは好きな方なんだよ。だから展示物の説明とかだらだら読むのは好きだし、そうやってなんとなく眺めてたら星とかにも結構興味湧いてきたよ。天体観測とかはまだやったことないけど。誰も付き合ってくれないから」 「え。そういうの、一人で行きそうなのに」 「あー……まあ、一人でもいいんだけど。でも夜中に一人で山の上とかってちょっと、うーん、怖いかな、と……おれ、あんまりジャパニーズホラー得意じゃなくて」 「おばけ怖くて天体観測できないってこと……?」 「うん」 「…………………」 「え、呆れてる? いやまあ、そうだよね三十三歳児じゃんって感じだよなって自分でも思う……」 「……いえ……もう、全然、なんていうか、そのままの佐塚さんでいいと思います……」 「うん? ……なんか今日の汀くんは、いつにもまして全肯定だねぇ。そんなに他人に優しいと、疲れない?」 「疲れ、たりは、今は全然そういうのないですけど、あー……。疲れてるのかもしれないけど、もう、よくわかんないです。疲れるのが普通だし、諦めるのは慣れてるから」  後ろが混んできたので、中央の通路から子供二人を抱えて移動する。壁際の動画ディスプレイを凝視する凌空と玖宙の手をしっかりと握りながら、全身に掛かる重力を嫌と言うほど感じた。  佐塚と休日を共にしている。子供が主役とはいえ、もはやこれは店外デートと言っても過言ではない。  浮かれ切った気分はずっと雲の上のように軽やかだが、疲れ切った身体は正直だ。  半分程度は汀のせいなのだが――実は昨日、ほとんど寝ていない。  宿泊コースの場合、セラピストは最低八時間の睡眠をとるように、と指導されている。しかし汀が佐塚の身体を解放したのは日付が変わってからで、そこから先も妙に興奮して眠る事が出来ずに、まどろみ始めた頃には夜が明けていた。  そのまま午前中は店を手伝い、そして午後からは小学生男子二人の子守だ。  健康的な成人男性である汀であっても、さすがにしんどい。  それでも『もう帰って寝たい』とか『すべてを投げ出して逃げたい』とは思わない。汀にとって疲労は当たり前の感覚すぎて、意識することすら稀だ。  若干息苦しいような疲労感を抱えたまま、気が付けば閉館時間が迫っていた。  まだ全部回っていないと駄々をこねる子供二人に手を焼いていると、すっとしゃがんだ佐塚が『また来たらいいじゃない』と真顔で言う。むやみやたらと笑いかけたりしないところが佐塚らしいが、子供たちは少しびっくりした様子で、恐々と彼の言葉にうなずいた。  おそらく佐塚は子供たちにとって『別に怒らないけど、あんまり笑わない不思議なおじさん』という位置づけなのだろう。それでも嫌われたり怖がられたりはしていないらしく、佐塚の不思議な人徳を感じる。  家に帰り着いた時にはすでに日が暮れ始めていた。冬の日の入りはまだ、いささか早い。  子守から解放された汀は、恐縮する佐塚を駅まで送ると言い張った。本当は夕飯を奢りたいと申し出たのだが、帰って寝なよと苦笑された。……自惚れではないと思いたいのだが、佐塚は汀の前では比較的よく笑う気がする。子供相手にはほとんど動かなかった表情筋が、少しだけ緩い。  駅までの道のりは十五分程度だ。  今なら一時間は余裕で歩ける。途中の信号が全部赤ならいいのに。なにかハプニングがあって彼の足が止まればいいのに。  そんな恋愛ドラマの主人公のような事を考えていた汀の横で、ふと思い出したように佐塚は口を開いた。 「…………もしかして汀くん、ご家庭の環境が複雑?」  一瞬、息を飲む。  反射的に笑って誤魔化そうとした汀だったが、三秒程固まった後、諦めて息を吐いた。 「複雑、というか……基本的に、姉の生活スタイルに振り回されている、って感じです」 「あー……お姉さん、ちょっと独特な人だったね。おれのことガン無視だったしなぁ。別にいいんだけど」 「良くないですよ……これだけお世話になったのに、ありがとうございますの一言もないんですよ」 「シンプルに気に食わなかっただけじゃない? おれ、客観的に見て怪しい独身男性だし」 「佐塚さんは怪しくないです。ちょっと怪しいお仕事をしてるだけの普通の男性です」  先程子供を迎えた姉の都波は、佐塚の存在を完全無視した。  もし佐塚の存在が不振で信用ならないというのであれば、きちんと自分で話して『関わらないでほしい』と言えばいいだけだ。その手間すらかけずに、ただ存在を無視して不快感だけを与えた。  姉はいつも、他人に対して平気で不躾な態度をとる。 「姉は結構早くに結婚したんです。あの店は、姉夫婦というか、姉の旦那さんの店です。でも、三年前かな……義兄さんが亡くなってしまって、結局店は姉が貰い受けました。お互い、両親もおらず親戚もほとんど縁のない状態でしたから……」 「その時、汀くんは一緒に居たの?」 「いえ、僕は当時地方で一人暮らししてました。といっても、フリーターでしたけど……でも子育てと店の経営で手が回らないからって、一緒に住むことになりました。その時に姉に借金があることを知って、今はその金を返すことを優先して働いてます」 「はぁ、うん。……なんとなく、お察ししてきた。ちょっとだけ、無神経かもしれない発言してもいい?」 「どうぞ、構いませんよ」  おそらく佐塚は確信を得た言葉を吐くだろう。その予測は正しく、佐塚の口から零れた言葉は耳に痛い。 「汀くんは、お姉さんにいいように使われてる、って感じにしか見えないんだけど」 「…………仰る通だと、思います。自分でも、わかってるんですけど――」 「いやきみは悪くないよ。そんな姉ほっとけばいいじゃん、ってのは外野だから言えることでさ……いや、まあ、ほっときなよって思わなくもないけど、でもお子さんいるしなぁ……」  そう、姉は最悪どうにでもなればいいと思う。もとよりあまり仲のいい姉弟でもなかった。ただ早くに両親を亡くした汀にとって、唯一の肉親という情のようなものがある程度だった。  だが子供達の存在は、見過ごすことは出来ない。  三人の子供達は、それこそ本当になんの罪もない。おそらく汀が手を差し伸べなければ、彼らは容易に今の環境から離脱する。よくて養護施設か里親、最悪の想像は口にしたくない。虐待をしない、死を選ばない、と自信を持って言える親ではないことは、汀が一番よく知っている。 「店でも調理をするのは従業員か僕だし、姉はほとんどなにもしません」 「あ。あの厨房のおじさん、旦那さんじゃなかったんだね、そうか、亡くなってんだもんね」 「飯山さんは普通の従業員です。随分、良くしてくれていますけど……店にはほとんど出てこないのに、自分に予定があると何故か店をすぐ閉めちゃうんですよ」 「え、なんで? 別にいたところでなんもしないんでしょ?」 「そうなんですけど……たぶん、『私の店なんだから、私のいないところで勝手なことはしないでほしい』って感じなんじゃないかな、と」 「えええ……面倒くさいな、なんだそれ……」  佐塚が引くなんて、とても珍しい事なんじゃないだろうか。できればこんな話以外でその可愛い表情を堪能したかった、と思う。 「まあ、でも、汀くんがそんなにきっちりしてるのに不思議と金欠な理由は分かったよ。別に、夜の仕事とか風俗を落とすわけじゃないしおれもその一旦だから人の事言えないんだけど、もっと普通の――せめてスーパーとかコンビニとかで働いたらいいのになって思ってたけど」 「姉の動向が読めないので、いつ店が休みになるか、子守をしなくちゃいけなくなるか、わからなくて……」 「うん。そりゃ、シフト制の仕事は無理だ。納得したし、こんなこと道端で聞いちゃってごめん。……きみのガチファンに刺される?」 「刺しませんってば。僕は基本的に、色恋営業はしません。御覧の通り、恋愛とかしている余裕もないですから。恋愛経験もあんまりないし、そういうものもよくわからない」 「そんな王子様フェイスなのに?」 「そんなこと言ってくれるの、佐塚さんだけですよ」  あはは、と苦笑する余裕がまだある。  佐塚のテンションはずっと一定で、重すぎる汀の身の上話を聞いてもほとんど変わることはない。それが優しさ故なのか、汀にあまり興味がない故かはわからないが……いや、興味がなければそもそも訊いてこないだろう。だとしたらこれは彼なりの優しさか彼の特性なのだろう。  汀は恋愛をしている余裕などない。  いつでも仕事と生活に追われている。  恋の沼に落とされている場合ではないし、そんな余裕は毛頭ない。  それでも汀は疲労した頭でぼんやりと考える。  ――誰かが、不用意に背中を押してくれたらいいのに。もしくは沼の中から、手を引いてくれたらいいのに。  ――這い上がれないくらい、どうしようもないくらい、落としてくれたらいいのに。  駅を前にして立ち止まった佐塚は、汀の激情など知らない。さらりと笑い、今日は振りまわしてごめんね、と零す。 「とんでもないです。僕の方こそ、助かりました。携帯も、子守も、ほんとうに」 「そう言ってもらえるとありがたいけど、そもそも急に泊って行ってよなんて我儘言い出したのはおれだしなー」  そう言いながら、佐塚はごそごそとカバンの中を漁り、財布を取り出す。  そして万札を二枚引っ張り出すと、何の説明もなく汀のブルゾンのポケットに突っ込んだ。 「……ん!? え!? 何――え、なんですかこのお金!?」 「店外デート代。料金表ちゃんと見てないけど足りてないってことはないでしょ、たぶん」 「いえ、こんな、そんな……僕はそんなつもりじゃ、」 「知ってる。おれだって普通にトモダチと遊んだつもりだよ。でもきみの体力をもぎ取ったのはおれだし、よく思い出したら汀くん入館料さらっと一気に払ってたし、お子さんたちにおやつ買ってたし、それは『なんかいろいろありがとう、あとおいしいもの食べて寝てね』代金」 「そんな…………パパ活みたいな……」 「ふは。いや、そうだね……次からはバレないようにきみの服のどっかにつっこむよ」 「つっこまなくていいです……!」 「でも、もらえるもんはもらっといていいと思うけど」 「……同情、みたいなやつですか……?」 「うーん……? いや、そう言うわけでもない……。なんかたぶんおれ、同僚が死にそうになってても普通に金渡すと思うよ。ちょっと肉でも食って元気だしなよって。おれは宇宙人で、うまく言葉を選べないからね。……本当に不快だっていうなら無理して押し付けないけど」 「…………これ、佐塚さんの愛情ってことですよね?」 「うん? うん。そうかな。おれはきみのことが心配だから、おれが差し出せるもので力になれるなら、って思っただけ。楽しい店外デートだったし」 「そういう、ことなら……。でも、店外デートプランにしては多すぎます」  そう言って汀は、佐塚の手を取って歩き出す。駅を通り過ぎた汀に、後ろから佐塚がだらりと声を上げる。 「汀くん、きみ、体力マイナスじゃなかったの……?」 「疲れてますけど、まだぶっ倒れる程じゃないです」 「で、おれはどこに連行されちゃうの? ホテル?」 「……ぶっ倒れる程じゃないけどそういうのはさすがに気力ないです。スーパー寄って佐塚さんち行きましょう」 「え。なんで」 「僕がご飯作るんで、食べてください。いや、違う、一緒に食べましょう。それでこの二万円は、食費と延長料金としていただきます」 「汀くん、時間平気なの?」 「さすがに僕の門限はないですよ。今日は姉は家にいるみたいだったし、平気です。あ、佐塚さんのご予定がなければですが――」 「暇」 「……じゃあ決まり」  握った手が冷たい。末端冷え性、と言った彼の声が蘇り、唐突にくすぐったく思える。  目の周りが重い。頭がぐらぐらする。それでもつないだ手が熱くて幸福のような感情が湧き上がる。どうしようもなく湧き上がる。  這い上がる気力がない程に、抵抗できない程に、泥沼のような恋に落とされたい。  佐塚さんに落とされたい。  そんな無責任な事を考える。それだけでも、汀にとっては大罪のように思えた。

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