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正直、きつい。
年季の入った机に突っ伏した汀の吐露を前に、ゲラゲラとした下品な満子の声が響く。
「そりゃぁ、そうでしょうよぉー! あんな宇宙人にガチ恋だなんてさぁ、そこらへんのカタツムリと真剣交際考えるくらいには不毛だわ!」
「佐塚さんはカタツムリでも宇宙人でもないですよ……思いのほかちゃんと人間の情緒持ってるから逆に辛い……」
「わはははは! そんだけ理解したうえで落ちちゃったんならもうダメじゃん! ていうかそんなおもろいことになってんならはよ言うてよー今日佐塚くんも呼んで特等席で弄ってやれたのに」
「ほんっとやめてください。あとまだ病み上がりだと思うんでそっとしてあげて」
「ガチじゃーん。いいねぇ、青い春だわ、相手がアレなのがマジでやばすぎるけども。あ、すいませーんネギマたれ二本追加で~!」
満子が張り上げた声に、厨房スペースから『ネギマたれ二つ!』と声が上がる。煙の向こうに居る大将も、やたらと近い席に密集した客たちも、満子の笑い声に注意を向けることはない。
それどころか『おねえちゃん、若いイケメン侍らせて景気いいねぇ』と酔っぱらった中年男性に肩を叩かれる始末だ。
中年男性ご用達といった雰囲気の焼き鳥屋には、満子以外の女性はいない。
女性客に付き合う時はカフェやラウンジばかりの汀にとって、満子との食事場所はいつも新鮮だった。
アフタヌーンティーを囲みながらあんな風に笑ったら、すぐに店員が飛んできて窘められてしまいそうだ。けれどビールを仰ぐ彼女の声は、周囲の酔っ払いの喧騒の中にうまく溶け込む。
満子はいつも通り、着古したスウェットに洗いざらしのジーンズで現れ、若干大きめの尻を固い椅子の上にぎゅっと収めた。
ぼさぼさのボブカットに、黒縁の分厚い眼鏡。眉毛は整えることもなく、当たり前のようにすっぴんだ。
これでも一応、女優さんに会う時は化粧すんのよ。と若干嫌そうに語る彼女は、絵に描いたような『古いオタク女性』といった風貌だった。
海野満子は数か月感覚で、思い出したようにフェティッシュに予約を入れる。
彼女はセラピストを呼び出すと個人経営の居酒屋に入り、二時間程度飲み食いした後にホテルにも入らずに解散する。
曰く『たまにイケメンを堪能しとかないと、自分のセクシャリティがあやふやになんのよ』とのことだった。満子の自認はストレートだが、性癖は女性への嗜虐だと公言している。
「いやぁ~でも今日ナギちゃん捕まってよかったわぁ~。この前の子さぁ、顔は美人だったんだけど、どうにもなよなよしててね~オカマかよ! って感じでちょっと違ったんだよな~。ナギちゃんは基本ジェントルで顔美人だけどちゃんと男! って感じで丁度いい」
「満子さん、その発言全体的にアウトですよ。外でしたら燃えますよ……」
「知ってるっつの、だから居酒屋で喚いてんだっつの。これでも一応気をつかって生きてんのよ、酒飲んでる時くらいはストレスフリーで喋らせろ。そして素敵なつまみを聞かせろ」
「つまみって言われても……今僕佐塚さんの話以外できないですよ……」
佐塚が目の前で盛大に倒れた日から、一週間が経とうとしていた。
あの日汀は本当に迷っていた。
汀のLINEに届いたメッセージはあからさまに不審だった。もしかしたら冗談だったのかもしれない。けれど朝見送った彼の様子から、あまりにも心配になり、『お邪魔だったらすぐに帰ろう、いらなくても誰かが食べてくれるだろう』と決意してアッパーズキャストの事務所の地図を調べた。
結果、佐塚は同僚数人に抱えられて病院送りになった。
といっても、診断は過労で、点滴をうけてその日のうちに帰れたらしい。
汀は遠足帰りの凌空を迎えにいかなければならなかったので、病院までつきそうことはできなかった。一応夜に佐塚本人から謝罪の電話があったが、それ以降は特にやり取りをしていない。
彼の同僚の男性たちは、思いのほか若く、頼りになりそうな面々で、おそらく汀が手を出さなくてもどうにかしてくれるのだろう。とはいえ、正直なところいまだに心配すぎて、汀の方が吐きそうなくらいだ。
「わはは! 何度聞いてもおもろいわほんと! いやぁーまさかナギちゃんがアレに落とされちゃうなんて」
「いや、まだ、落ちてない、……筈……」
「完全にドボンしちゃってるじゃんよ。鏡見てみ。バチクソ恋する二十五歳イケメン爆誕しちゃってっから」
「鏡嫌いだからあんま見ない……」
「なーんでナギちゃんはそんなに自分に自信がないかな~~~こちとらデブス眼鏡で毎日ハッピーですが~~~?」
「満子さんはなんか、人類の中でも圧倒的な強者じゃないですか」
「そうかぁ? ま、でも他人に期待してねーからね。こちとら小学校からあだ名はうんこま○こよ。まあそうなるわよ。そんな生活してたらもう色々どうでもよくなるわ」
ぎゃははと笑う。その声が、耳に痛いが少しだけ気が楽になる。満子はどんな話題でも笑い飛ばしてくれるので、汀はいくらでもナーバスになれる。
満子に関しては、汀がテンションを保ってリードする必要が微塵もないからだ。
女性向け風俗に特例で訪れた男の客に、うっかり恋のような感情を抱いていて辛い。
そんな話、満子以外の常連客に出来るはずもない。
「でも意外だわー。落とされるならナギちゃんじゃなくて、佐塚くんの方じゃね? って思ってたから」
追加で届いたネギマを頬張りつつ、したり顔で満子は言う。
「……どういうことですか、それ。くわしく。くわしく説明してください」
「んー。だってさぁ、佐塚くんてアレたぶん、圧倒的に人類との接触の分母が少ないだけだもん。すっげー人見知りですっげー引きこもりで、自分のことをすっげー変人だと思ってっから、出会いが皆無なだけ。別に、足に欲情するってだけで、あとはわりときちんとしたお兄さんなのにねー」
「その、足フェチが結構なハードルなんじゃ?」
「そんなことないでしょうよー。恋愛は性癖でするもんじゃないよ。別にサルが相手じゃないとオナニーできない男と、クジラの交尾見ないとイけない女だって結婚できるじゃん」
満子の例えはとんでもないが、言っていることは思いのほかロマンチックに聞こえた。
確かに、佐塚の性癖はあくまでも彼の好みであって、恋愛対象が足だとかそう言う話は聞いていない。
「ええと……佐塚さんは、足フェチって事以外は普通の人見知りお兄さんだから、素敵な人に出会いさえすればすぐに恋愛関係に発展するだろう、って事、です……?」
「そうそう。だからあたし、佐塚くんの方が先にメロっちゃうと思ってた。ナギちゃんはどっからどう見てもバッチリ素敵なイケメンじゃん? 男ってちょっといちゃつくとすぐ好きになるし。そういうとこマジでチョロいし」
「耳に痛い……」
「や、きみは鉄壁の理性の持ち主でしょ。あーでも、実は女のコじゃなくて年上の男が好みだっただけ、とか?」
「わかりません……そうなのかもしれないけど、とりあえずサンプルが佐塚さんしかいないので……今のところ他のサンプルをためそうという気持ちも一切ないので……」
「一途~~~青春~~~あの男のどこがそんなにイイのか詳細聞きたい~~~」
「全部」
「やっぱ訊かなきゃよかった~~~!」
恋は盲目だ! と満子は笑い飛ばす。
まったくもってその通りすぎて、汀は微塵も笑えない。
何をしていても、うっすらと佐塚の事を思い出しては胸がつかえるような苦しさを思い出す。
キスして、と囁いたあの熱い声が耳の奥で欲情を撫でる。しかしその後に続いた『お金は払うから』という言葉が、まるで冷や水のように熱を冷ます。汀と佐塚の関係はいまだにセラピストと客のままで、もう少し好意的に解釈しても関係良好なパパ活だ。
「パパ活うける」
くどくどと辛い心の内をぶちまける度に、満子は豪快に笑う。
「まーでも、佐塚くんがさぁ、都度お金払おうとしてるのって、シンプルに好意だと思うよ。ナギちゃんを下に見てるとか、お金の関係だと割り切ってるとか、そういうんじゃないでしょ。あの人そんな性格悪くないよ」
「はぁ、まぁ……それも、わかっているつもりです……。でもなんていうか、僕が彼に対して示してる好意もすべて『仕事』だと思われてるのかなぁ、と思うと結構しんどくて」
「あー……んんんー……それはもう、告るしかないでしょ」
「ですよねー。でも告白……うまく行く気がしない……」
「あたし的には佐塚くんは押せばすぐ落ちると思うけどね、そんなことよりナギちゃんの生活環境改善が先じゃないの? きみ、恋愛なんかしてる時間あるのかい?」
「満子さんは本当に耳に痛いことばっかり言ってくる」
「それがあたしの役目でしょ。年取るとねー自分の後悔を材料にして、若い子の人生にちょっかいかけたくなんの。ま、ナギちゃんは超絶しっかりしてるイケメンだから、自分を大事にする決意さえ決まっちゃえばあとはどうにでもなるでしょう。ね、佐塚くん!」
「何――」
「え、何の話? うるさくてよく聞こえなかったんだけど」
汀の動きがぴたりと止まる。ついでに息も鼓動も止まってしまいそうだった。
にやにやと満子が視線を向ける先――汀の頭の上の方から落ちてきたのは、今しがた散々話題にしていた張本人の声だ。
思わず全力で振り返る。
「さ、づ、え!?」
本気で驚いた時、人間は碌な言葉を吐けない。
顔面蒼白な汀を見下ろした佐塚は、いつものさらりとした風貌を崩さずに立っていた。
「こんばんは、汀くん。先週ぶり」
「こ……っ、んば……みつこさん……ッ!?」
「あはははは! だってほらぁ、ナギちゃんと共通の友達がいるなんて楽しいじゃん? 佐塚くん声かけたら近場にいたから呼んじゃった☆」
「いやそもそもここ、うちの職場から近いからね? ミツさん狙って飲んでたでしょ」
「ばーれたー。いやでも、きみはたまには息抜きしたほうがいいって。エロビ作りすぎて死ぬとか阿保みたいな結末は回避してほしいじゃん? 友達としてさぁ」
「心遣いはありがたいですけどね、もっと普通に誘ってください。文面完全に脅迫でしたよ」
あ、佐塚さん、満子さん相手には敬語なんだ……。などとどうでもいい事を考えてしまうのは、完全に思考が停止していたからだ。
まさか今日、佐塚に会えるとは思わなかった。勝手に彼を呼んだ満子への怨嗟よりも、一目でも佐塚を拝めた嬉しさの方がだいぶ大きい。
普段汀相手にだらだらと喋る佐塚も、きちんとした言葉遣いをしているとかなりしっかりとした大人に見える。そんな些細なことにまでときめいてしまって辛い。
店員に声をかけた佐塚は、椅子をもらうと『汀くんちょっとぎゅっとして』と言って、無理やり自分の横に詰めてくる。
満子と汀を比べれば確かに汀の方が横幅は狭いが、普段外でここまで密着することはないので、無駄にどぎまぎしてしまう。
「佐塚さん、あの、お具合大丈夫なんですか……? お酒とかは控えた方がいいんじゃ……」
「あ、うん、おれ元々そんな飲まないから、大丈夫。飯だけ食って帰るよ。汀くんはお酒飲んでるの珍しいねぇ」
「あんまり飲めないんですけどね……満子さんが『あたしの前で素面とか許さん』って脅迫するから」
「ふは。じゃあおれたち脅迫被害者仲間だ」
軽やかで自然な笑い方がかわいい。たまらない。好きだ、辛い。
普段飲まない酒のせいか、恋心が暴走しているせいか、満子にはすっかり汀の恋情が筒抜けらしい。あらあらまあまあ、というような顔でにやつかれて、さすがに恨めしくなる。
「ていうかミツさん、汀くんと遊んでる最中なんじゃ? おれ、邪魔じゃない?」
「えーそんなことないけど? フェティッシュは客の要望があれば3P可能でしょ?」
「あ、はい、カップル+セラピストや、セラピスト二人とお客様一人のご利用も可能ですが、言い方……」
「こんなとこじゃ誰も聞き耳立てちゃいないってば。酔っ払いは人の話聞くより、自分の話がしたい生物なんだから。あ、ちょっとごめーんお花つんでくるわ~あたしのご帰還までいい感じにいちゃついてて~」
言いたい事だけ言って満子が席を立つと、佐塚の頼んだウーロン茶が運ばれてくる。よくわかんないけど乾杯、とグラスを掲げられたので、汀も慌ててビールのジョッキを持つ。
かちん、とガラスがぶつかる音がして、佐塚が肩の力を抜いた。
「いやー……タイミング良かったよ。ちょうど今日、きっつい修羅場がどうにか落ち着いたとこだったから。……汀くん、ごめんね、この前は本当にその、なんていうか、ご迷惑を……」
「いえ! その節は僕こそ職場に押しかけてしまったので……!」
「でもきみが居なかったらあのまま仕事詰め込んでパンクしてたと思うよ。あ、瀬羽がね、チャーハン美味かったから今度店に行きたいし、来週の定休日教えろくださいって言ってました」
「瀬羽さんて、あのメガネの方ですよね? 佐塚さんの保険証取りに行った……」
「そうそう。よくウチに泊りに来てるから、大体の物の位置は知ってるんだよね。まあ保険証携帯しとけよって感じなんだけど」
「仰る通りです」
「シュウにも散々怒られたなー。駄目なときは駄目って言えるのが佐塚さんの良いところだと思ってたのにって」
「……ADの人」
「そう。いやほんとうに、いろんな人に迷惑かけちゃった。で、ウチのメンツは置いといて、やっぱりおれはきみにちゃんと謝罪しないと駄目だよなぁって思ったんだよね」
なんとなく、佐塚が改まる。つられて汀も姿勢を正し、少しだけ緊張した。
「おれはね、ほら、他人の感情とかよくわかんないからさ、プレゼントとか恩返しとか、自分で考えるの苦手なんだよ。わけわかんないもの選んで、逆に気を使わせちゃいそう。だからやっぱり、汀くんがもらって喜ぶものがいいよなーと思うわけで……」
「僕が、もらって喜ぶもの……?」
「そう。何か欲しいものとかある? モノじゃなくてもさ、おれが出来ることなら」
あなたがほしい。
と、反射的に答えそうになり、思わず息と共に言葉を飲み込む。
普段飲まない酒でささやかながらも酔っていた。その上密着しているし、男まみれの焼き鳥屋のど真ん中に鎮座する佐塚は、いつもより大人びて見えてよろしくない。
本当は佐塚とセックスがしたい。好きな人と、何も考えずにセックスがしたい。仕事とかお金とか抜きにして、ただシンプルにその身体を貪りたい。
汀はそこまで性欲が強い方ではない。けれど何度も佐塚の身体に触れているし、彼の感じやすい場所も達する時の息の震えも知ってしまっている。仕事だからと自分を律しながら行為を繰り返すたび、理性が悲鳴を上げていた。
えっちなことがしたいです、と茶化し気味に言えば、もしかしたら笑って了承してくれるかもしれない。けれど結局それは佐塚にとっては『お礼』であって、恋人同士の行為とは程遠い。
しばらく押し黙った汀は、曖昧に苦笑した。
いちばんほしいものはどうせ手に入らない。他に、ほしいものなんて思い浮かばない。
「お気持ちだけで結構ですよ。佐塚さんには普段から、たくさん貢いでもらってますし……」
「うーん、いや、でも本当に今回ばっかりはあんまりにも迷惑かけすぎたし……あ、じゃあ今日二万円くらい鞄にねじ込んで――」
「お金は本当に大丈夫ですから……! 佐塚さんはなんでそう、僕に万札握らせたがるんですか!」
「お、何だ何だ~あたしが居ぬ間にパパ活のご相談かぁ~?」
『違います』
帰ってきた満子がにやにやと揶揄うので、思わず二人の声が揃ってしまう。
事情を軽く説明した後、満子は相変わらずのにやけた顔で元気に笑った。
「パパ活じゃん! 佐塚くんが悪い! なんでも金で解決しようとすんな!」
「えええ……だって何もいらないって言うから……」
「本心ですよ。僕は大した趣味もないし、特に好きなブランドとか食べ物も思い浮かびません」
「じゃーさー、物がダメなら体験でお返ししなよぉ~佐塚くん、いつもデートしてもらってんでしょお? 一日さー佐塚くんがナギちゃんをエスコートしてあげたらいいじゃんよー」
「え」
佐塚の動きがふと止まる。その後、至極真剣な顔をした彼は、顎に手をあてて『ふむ』と唸り、神妙に頷いた。
「…………ミツさん、天才……?」
「え……!?」
「よしそれでいこう。ごめんだけど汀くん、おれの為に休日一日ぶっつぶしてくれない? 汀くんが疲れるようなことはしないって約束する」
いやむしろ疲れる行為こそ大歓迎なのだが、そんな下ネタを言えるような雰囲気ではない。
なんだかわからないけれど、急にデートをする予定が立った。
ドヤ顔の満子と視線が合う。睨みつけたらいいのか、感謝したらいいのかわらかず、汀は感情がぐちゃぐちゃで泣きそうな顔を覆うだけで精いっぱいだった。
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