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彼女

  原田斗貴央(はらだときお)は今日も例に漏れず、生産性のない放課後を送っていた。  ファーストフード店で目の前に座る友人二人が恋愛話で盛り上がっているのを黙って眺める。内容はどうやら新しく出来た彼女のことのようだ。はっきり言ってこれは斗貴央の苦手な話題である。なぜならば―― 「斗貴央!お前も恋愛しろ!恋愛!」 ――そう。こうやって飛び火してくるからだ。 「いや、俺は別に……」と面倒そうにコーラを啜る。 「お前にも潤いが必要だって!彼女作れよ!」  最早、斗貴央の意見などはなから聞いてはいない。潤っていないことは前提かと、斗貴央は大きくため息をついて席を立つ。 「ちょっと、便所」  普段、友人間で恋愛話などはそう出ない。なぜならば女子生徒の存在が希少価値とされる我が工業高校で彼女を作るのは至難の技だからだ。校内では偏差値よりも男としてのヒエラルキー上位とされる存在だ。  自分も、友人も基本的に恋愛よりも男同士ツルんだり、今時流行りもしないとわかりながらも不良ぶって喧嘩してみたりと、所詮、恋愛とは縁のない生活をしていた。  だが一人の友人が最近、その輪から離脱してしまったのだ。  お陰で毎日のように浮かれた話が繰り返される。 やるなら自分抜きで頼みたいと頭を重くしながら斗貴央は男子トイレのドアを押した。すると個室の中から小さな話し声が聞こえてくる。思わず耳を澄ました。 「ムリだよ、そんな……、だって……」  声はどうやら一人だけだ。中で誰かが電話でもしているようだ。 「待って!わかった、わかったから、行く、行くから!」  慌てたその声に思わず驚くと共に勢いよくドアが開いた。そして、斗貴央は目を疑った。 中から出てきたのはセミロングの髪をした制服姿の女子だったからだ。 「わあああ!!!ごめんなさい!!ここっ女子トイレ?!あれっ?!」  自分が入り間違えたのかと斗貴央は一瞬にして青ざめ、体を反転させる。思ったよりも大きな声が出た。 「合ってます!ごめんなさい!!」  大声で脅かしてしまったのか、彼女は足元に携帯電話を落としていた。それに気付き「大丈夫?」と声を掛けながら斗貴央は携帯に手を伸ばす。だが、ふと視線があるところで止まる。 ――生足の、太もも。  ぎょっとした斗貴央に気付いたのか彼女は慌ててスカートの裾を押さえ、自ら携帯を拾い上げた。 「ごめん!違っ、あのっ!!」  いや、違わないけど、最初から嫌らしい目線でそうするつもりだった訳じゃない。斗貴央は心の中で必死に言い訳、いや、弁解しようと焦るがその隙も与えてくれぬまま、彼女は走ってトイレを出ていってしまった。  音を立てて勢いよく閉まったドアを見ながら斗貴央は失敗したと思った。  自分は絶対に痴漢と思われた――。  落ち込む斗貴央の視界の隅に小さなクマのぬいぐるみが落ちているのに気付く。キーホルダーのようだ。 「さっきの子の……、落し物?」  店の中を見回した後、急いで外に飛び出るが、もう、彼女の姿はどこにもなかった。斗貴央は拾ったキーホルダーに視線を落としながら彼女の顔を思い出していた。  色白の肌を赤く染めた、スレンダーでとても綺麗な子だった。 「――かわい、かった……」  綻んだ口元からは思わずそう声が出ていた。 「おっそ、ウンコかよ。斗貴央」  席に戻ると友人から小学生のようなことを言われた。斗貴央は相手にせず、無反応のまま黙って座る。  胸がなんだかまだおかしい。  心臓が早くて、ドクドクと音がする。  こういう現象を何かで聞いたことがある……、確か……。  吊り橋効果―――――― 「遅えよ」  黒い短髪に切れ長の鋭い眼光をした長身の男がタバコを咥えながら低くこちらに告げた。 「ごめん……」  斎藤紗葉良(さいとうさはら)は男に向かって気まずそうに謝罪した。男は何かに気付いたのか、紗葉良の持つ学生カバンに手を伸ばす。 「お前、クマは?」 「クマ?あっ!!」  紗葉良は自分のカバンにつけてあったクマのキーホルダーが失くなっていることにようやく気付いた。 「走ったから、落としたのかも……、どうしよう……。探してきても……?」 「好きにすれば?俺は帰るけどね」  素っ気ない返事に思わず黙りこむが、行かないのか?と催促される。黙ったままでいると男は更に続けた。 「あーあ、折角買ってやったのに。落とすか?普通。最低」 「ごめんなさい……」  紗葉良は唇をきつく結んで視線を地面に落とす。 「なら、探して来いよ」  謝罪しても、男の言葉尻は冷たく、強いままだった。  走ってきた道をゆっくり歩いて戻る。道の脇や車道の端を隈なく見て回るが、どこにもそれらしきものは落ちていない。  いきなり背後から腕を掴まれ、予期せぬことに「ヒッ」と思わず小さく声が出た。 「何か探してるの?」 「俺らも手伝うよ〜」  絵に描いたようなナンパな男2人がニヤケながら紗葉良に近づく。その手を思い切り振り払って走り出し、そのままファーストフード店の前まで辿り着いた。  ――もう、いやだ――。  胸に手を当てて、切れた息を整えながら紗葉良は疲弊していた。  カバンの中で携帯が鳴っていることに気付き、着信をフリックする。相手は悪友である伊藤だ。 「もしもし斎藤?今なにしてんの?」 「落し物……、探してて……」 「あー、それってクマのキーホルダー?」  なぜ知っているのか紗葉良には疑問だった。だってあれは――。 「だって、アレ。夏奈(なな)ちゃんがお前にって龍弥(りゅうや)にあげたやつだよ?」  意地悪い笑い方をして伊藤はそう告げた。紗葉良は言葉を失ったままだ。そこへ追い打ちをかけるように女の高い声がスピーカーから届く。 「紗葉良ちゃんに絶対似合うって思って買ったのに失くしたのー?酷くないー?」 「どうせ夏奈(おまえ)が万引きでもしたやつだろ?」 「はぁ?!龍弥マジでひどい!してないし!」  三人の嫌味な笑い声がそこから聞こえる。まるでどこか違う、遠いところからする音に思えるほど紗葉良には濁って感じられた。「まあ、頑張れよ」と電話は一方的に切られた。  紗葉良はその場に崩れるようにしゃがみ込んでしばらく蹲り、頭を垂れたまま動けないでいた。 「あの……」  知らない男の声がした。ゆっくり顔をあげるとどこかで見た顔の男がこちらを心配そうに伺っている。トイレで見た男の顔だとようやく気付く。 「これ、アンタ――の?」  そう言って出されたのは探していたあのクマのキーホルダーだった。紗葉良はなにも答えない。 「ここにいたら――、戻ってくるんじゃないかと思って――」と男は優しい顔で笑った。  堪えていたものがプツンと音を立てて紗葉良の中で崩れた。 「ううっ……」と嗚咽が漏れる。慌てふためいた男が紗葉良の前にしゃがんでオロオロとしている。紗葉良はひとり涙を零して肩を震わせた。声はなんとか必死に堪えた。男は動揺したままなにも話さない。居たたまれなくなったのかそっと紗葉良の頭をこどもにするように優しく撫でた。  驚いて紗葉良は顔をあげるが、逃げるわけでもなく、ただ黙ってやさしい男の顔を眺めた。  女が泣くことが、こんなにも武器になるなんて初めて知った――と斗貴央は初めてのことに焦る反面、内心感慨深かった。  だが、あまりの不慣れなことに、表面上動揺するしかできない。うまい言葉のひとつも浮かばないし、自分にはそんなもの持ち合わせてもいない。  目の前の彼女の涙は一向に止まりそうにない。ただ黙ったままこちらをまっすぐ見つめている。涙で潤んだその大きな瞳につい見惚れて、思わず吸い込まれてしまいそうだった。 「えっ……と、俺、斗貴央っていうんだ、アンタは――?」  彼女は自分を紗葉良だと名乗った。そしてクマのキーホルダーはもういらない、だけど拾ってくれてありがとう――と。  別れた男に貰ったものなんだろうかと斗貴央は想像した。一人で帰路に着く道すがら、最後の彼女の言葉を反芻する。 『斗貴央くんは、優しいね』 「斗貴央くんなんて、幼稚園ぶりに聞いた……」  涙ながらに笑顔を見せてくれた彼女が頭の中で何度もフラッシュバックする。 ぎゅっとクマを握りしめて、赤面しながら斗貴央は緩んだ口元でぽそりと彼女の名を呼んだ。

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