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プロローグ~第一話
『おーっとぉ! ブライアンの猛攻! これはさすがに耐えられない! カミオカ、思わず後退りです!』
実況の興奮した声が響く。目がくらむほど眩しいライトに照らし出されたリングの上で二人の男が激しい殴り合いを繰り広げる。拳の当たる鈍い音がするたびに観客たちが歓声や怒号を上げた。
全身にタトゥーを刻んだ男の拳が対戦相手の顎にヒットする。瞬時に意識を失ったのか、殴られた男は腰を抜かしたように崩れ落ちて仰向けに倒れたが、試合終了を告げるゴングは鳴らない。タトゥーの男は倒れた男に馬乗りになると、その顔面に容赦なく拳を浴びせ続ける——骨を打つ鈍い音と何かが潰れるグシャリという音が繰り返し響き渡った。
「チッ……」
試合から残忍な暴力ショーに変わったことを歓迎するような声が四方八方からあがる中、濃いグレーのスーツを着た男が小さく舌打ちする。切れ長で涼やかな目元は忌々しげに細められ、真っ直ぐに通った鼻や眉毛にはわずかなシワが寄っていた。
「恭弥さん、出ますか?」
「いや、いい」
後ろに立っている黒スーツの男に耳打ちされ、恭弥と呼ばれた男は小さく頭を振る。目当ての試合はこの次だ。目の前で繰り広げられているショーは見るに耐えないが、今席を立てば肝心のものを見逃してしまうだろう。
「兄貴は来ているのか?」
「はい、奥のVIPルームにいるようです。会っていかれますか?」
「……冗談が上手いな、武藤」
苦笑する恭弥の言葉を遮るように試合終了を告げるゴングが鳴り響き、担架を持った男たちがリングへと走っていった。リング中央では血まみれになった”狂犬ブライアン”が雄叫びをあげて自らの肉体と勝利を誇示している。喝采と野次を一身に浴びる彼の股間は、赤いレスラーパンツ越しでも形がくっきりわかるほど硬く勃起していた。
「あーあ、あんなになっちゃって……今日は何人潰されるのかねぇ」
「ええ〜、どういうことぉ?」
恭弥の斜め後ろのボックス席で若い男が言うと、同じ年頃の女が甘えたような声で問う。直接面識はないが、最近勢力を伸ばしている半グレ集団のリーダーだ。
「あいつは、試合の後は女を抱かないと気がすまないんだけどな、真正サドだから痛めつけないと満足できないんだよ。鼻血を流してる女のケツを無理矢理犯すのが好きらしい」
「いやだぁ、怖ーい」
「モノがデカいうえに絶倫なもんだから、ヤられた女はガバガバになっちまう。それどころか、腸に穴が空いて病院送りになった女や、ケツが破れてアソコからクソが漏れるようになった女もいるらしい。さて、お前はどっちだろうな」
「えっ?」
「今日は両方かもしんねぇな」
「やだ、ジュンくん、冗談キツイよ」
女は顔面蒼白になって言う。媚びへつらうような笑顔は恐怖と不安で引きつり、縋り付くような目は涙で潤んでいた。
「お前、ヒロとヤっただろ」
「……! 違うよ! あれはヒロが無理矢理」
「うるせぇよ、クソビッチ。失せろ」
その言葉を待っていたかのように、周囲の男たちが女を捕まえる。女は必死に謝罪の言葉を並べていたが、引きずられるようにどこかに連れさられていった。
「雌犬は狂犬に掘られとけ……そう思いませんか、竜崎さん?」
女の姿が見えなくなるのを確認したジュンはニヤニヤとした笑みを浮かべながらそう言うと、身を乗り出して恭弥に話かける。
「剋神会若頭、竜崎恭弥さんですよね。俺、ブラック・ダリアの長尾ジュンっていいます」
「てめぇ、なに気安く話しかけて……」
息巻く武藤を恭弥は手で制した。恭弥にとって長尾ジュンの存在はただの雑音でしかなく、言葉をかわすどころか目にいれる価値すらない。そんなことよりも、これから始まる試合のほうが重要だ。
「……失礼しました」
武藤は少し不服そうな表情を浮かべながら引き下がる——ヤクザは舐められたら終わりだ。武闘派と言われた剋神会の若頭が半グレごときに甘い顔をするなどあってはならない。一昔前なら長尾ジュンは今頃半死半生の状態だったはずだ。だが、今は昔とは違う。警察は常に目を光らせ、何かあればすぐにでも組を潰しにかかる。もう武闘派でいられる時代ではない。
恭弥の兄の大神光輝はこれまでの剋神会らしい武闘派で、「らしさ」を求める構成員や荒事を好む幹部からの支持が高い。嫡子であることからも次期組長に光輝を推す声が大多数だ。だが、現組長である大神斎は恭弥のようなインテリヤクザのほうが剋神会の利益になると判断した。この判断は間違いではないと武藤は思っている。とはいえ、頭では理解していてもなかなか納得できないまま武藤は恭弥に付き従っていた。
『さて、いよいよ本日最後の試合! リングに上がるのはこの男! 過去を持たない絶対王者! ノーネームキング・タケル!!』
実況が選手の名前を宣言すると、大きな歓声が響き渡り興奮の渦が沸き起こる。リングに続く花道にスポットライトがあたり、黒いレスラーパンツ姿の男を映し出した。
太い首、筋肉で大きく盛り上がった胸、割れた腹筋——その上にわずかに脂肪が乗った体の上を白いライトが撫でる。どっしりとした体に見合う大きな手を軽く上げ、声援に応えながら光の中をゆっくりと進む姿は大型の肉食獣のようにしなやかで美しく、地下闘技場の王者にふさわしい風格を備えていた。
恭弥はわずかに目を細め、口の端に笑みを浮かべる。タケルはこの地下闘技場において、唯一クリーンな闘いをすると評判のファイターだ。凶器を隠し持つようなことも、戦意を失った相手を必要以上になぶるようなこともしない。とはいえ気が優しいわけではなく、ファイトスタイルは非情で容赦がない戦闘マシーンのようだ。人の思惑や感情を一切寄せ付けない純粋な「力」の象徴——恭弥にとって、タケルはそのような存在だった。
恭弥の目前をタケルが通り過ぎる。がっしりとした顎とわずかに曲がった鷲鼻、引き締まった口元、髪は黒いが瞳の色はやや薄い。おそらく外国の血が混ざっているのだろう。彫りが深い男性的な顔立ちだ。
まじまじと見ていたせいか、ほんの一瞬目が合った。いや、あった気がしただけかもしれない。明るい花道からはこちらの様子など見えないはずだ。
『続きまして挑戦者は、白き龍の申し子! 大陸からきた刺客、リャン・ペイロンだぁぁ!』
対戦者の名が呼ばれる。身長はタケルより少し小さいくらいで体は細く筋肉も少ない。強いて言えばボクサーのような体つきだが、ボクサーにしても痩せすぎだった。猫背気味で顔色も悪く、目だけが異様にギラギラと光っている。おそらく、何らかの薬物を使用しているのだろう。
『今回のオッズは……』
タケルとリャン、それぞれのオッズが発表される。言うまでもなくリャンには高いオッズがついた。この試合は返済不可な額の債務を抱えた者に残された「最後のチャンス」という名の制裁だ。リャンに期待されているのは、万に一つもない勝利の可能性に縋り付いて無様な姿をさらすことであり、試合に勝つことではないと誰もが理解している。
恭弥は苦虫を噛み潰したような表情でため息をついた。こんな見せしめのためにタケルを使うとは、この闘技場の奴らは何もわかっていない。見せしめなど薄汚い犬にやらせればよいのだ。
賭けの受付が終了し、試合開始を知らせるゴングが鳴る。恭弥は賭けに参加しないが、観客のほぼ全てがタケルに賭けていることに満足しながらリングに目をやった。レスラーパンツに包まれた形の良い尻が見える。
いつも通り、試合の幕開けは静かなものだった。タケルは相手がいかに弱そうでも決して安易に飛びかかるようなことはしない。巧みなフットワークで牽制しながら適切な距離を保ち、相手の実力や状況を探る事から始める。臆病と揶揄されることもあるが、この慎重さと冷静さが彼を無敗の王者にしたのだと恭弥は考えていた。
「ん……」
奇妙な違和感に恭弥は顔をしかめる。普段より足さばきが悪い。体が微かにふらついている。どこか具合でも悪いのだろうか。
両手の拳を胸の前で構えたまま、タケルは頭を振る。スポットライトが眩しいのか、目を細めたり瞬かせたりを何度も繰り返していた。その隙をついてリャンが猛然と襲いかかる。
『おっとぉ! 挑戦者リャン、まさかの先制攻撃! しかし王者には届かずあえなく空振り! だがまだ諦めない! 飢えた野犬のように食らいついていく!』
少しは覚えがあるのか、素人にしては鋭い拳を何度も繰り出すリャン。タケルはそれをかわしていくが足元がどこか覚束ない。腕は構えたままだが反撃をする様子もなく、勢いに押されてジリジリとリング際まで追い込まれていく。次第に周囲からブーイングがあがり始めた。
「武藤」
「はい」
「金を用意しろ、現金だ。あるだけ持ってこい」
「……それはどういう」
「いいから早くしろ!」
恭弥が一喝すると武藤は電話をかけながら走り去っていく。リングの上ではタケルの反撃が始まっていたが、その動きはまるで水の中でもがいているようだった。ブーイングはさらに大きくなり、怒号と野次が飛び始める。恭弥は思わず椅子から腰を上げた。
リャンはタケルの拳を難なくかわし、ガラ空きになったボディに容赦なくパンチを入れる。細い腕から繰り出されたそれは、威力こそ大したものではなかったがタケルの足元を崩すには十分だった。膝が落ち、無防備な頭部が射程に入る。その好機を見逃すはずもなく、リャンはタケルのこめかみに強烈なフックを浴びせた。骨を打つ鈍い音が響き、タケルの巨体が大きく揺れる——。
時間が何百倍にも引き伸ばされたかのようだった。まるでコマ送りのようにタケルが倒れていく。勢いのついたままリングに沈む体は受け身を取ることもなく二度ほど小さくバウンドし、人形のように力なく崩れた。試合終了のゴングが鳴り、悲鳴と怒号がそれをかき消す。目を大きく見開いたままの恭弥は膝の上で拳を強く握った——武藤、早く戻ってこい。
目を開けると見知らぬ天井が見えた。全身に力が入らずひどく痛む。視界がぼやけ、動いていないはずなのに体が揺れているような気がした。
「お、起きたか」
聞き覚えのない野太い声が聞こえる。一体誰だ? ここはどこだ? 一体何があった?
霞がかかっているかのように頭がボンヤリする。意識を失う前は何をしていただろう。確か、控室で着替えをしていたら——。
「タケル」
冷たい声に名を呼ばれた。聞き覚えのない声だが、不思議と不安を感じないのは、その声にわずかな安堵の色がこもっているからだろうか。首を巡らせようとしたが固定されているのか全く動かないため視線だけを向けると、視界の端に一人の男の姿が見える。ぼんやりとして細かな目鼻立ちはわからないが、間違いなくこの人は——。
「あなたは」
全てを言い終える前に顔に激痛が走り、思わず呻きが漏れた。
「話さなくていい。ずいぶん痛めつけられたからな。単刀直入に言おう。俺は竜崎。お前の新しい主だ」
新しい主。一体どういうことだろう? タケルは記憶の糸を必死に手繰り寄せる。着替えをしていたら控室にマネージャーが来て、いつも通り水を一杯もらって飲んだ。スポットライトが普段より眩しいと感じ、奇妙に思いながらリングに上る。次第に体が重くなり、なにかおかしいと気付いた頃にはこめかみに重い衝撃が走っていた。
「あの試合、誰もがお前の勝利に賭けていた。どんなにオッズが高くなろうと、死にかけのヤク中に賭けるやつはいない。いつもの見せしめショーだと誰もが思ったさ。お前は八百長をやるような男じゃないからな。だがお前は負けた。無様な戦い方でな」
確かに、タケルのもとにはこれまでに何度も八百長の話が舞い込んでいたが、いくら高額な報酬を提示されても彼は首を縦には振らなかった。誇りを売るようなことはしない——この世に生まれ落ちてすぐに捨てられたタケルにとって、誇りだけが唯一の財産だったからだ。
「大方、薬でも盛られたんだろう。だが、客どもには関係ない。やつらは損害を被った腹いせにお前に制裁を加えようとした。実に下らん。だから俺が買った」
薬を盛られたのだとしたらマネージャーが絡んでいるということになる。つまり、タケルは所属していた組織から厄介払いされたということだろう。
「お前の価値は五千万だ。額に見合う仕事を期待している。今は精々養生しろ」
そう言うと恭弥は席を立ち、ドアノブに手をかけて立ち止まる。
「そうだ。名前のことだが、今日からは猛と名乗れ。猛々しいの猛だ。番犬にはいい名前だろう?」
名前——ただ「不便だから」という理由で付けられた記号に過ぎないものだったが、こうして改めて与えられると何か特別なもののように感じる。たとえそれが、以前と同じ音だとしても。
ドアが閉まる音がしたかと思うと、それを待っていたかのように初老の男が猛の顔を覗き込む。
「ちょっと失礼」
男はそう言うとペンライトを使って猛の瞳孔を確認したり、口の中を覗き込んだりすると、小さな息をついた。
「歯が二本折れてるけど他は問題なさそうだ。レントゲンを撮ってないから絶対とは言えないけど、骨も折れてないだろう。まぁ、しばらくすれば良くなるさ。で、歯の方はどうする?」
「きれいに直して欲しいってさ。何だっけ、あの……インプラントとかいうやつ」
「インプラントね。じゃあ、口の中の傷が良くなったらうちの病院でやろうか」
どうやらこの初老の男は医者らしい。話しをしている相手は先程聞こえた野太い声の男だが、猛の位置からは姿が見えない。
「いつもすまんな」
「気にしなくていいさ。狩野さんにはいつも世話になってるからね。でも、もしご褒美をくれるなら、今日より太いやつをたくさんくれると嬉しいな」
「おいおい、おねだりとはいい度胸じゃねぇか。ま、いいだろう。次を楽しみにしておけ」
「想像しただけでゾクゾクするよ……。じゃあ、僕はこれで」
初老の男と狩野と呼ばれた男は一体どんな関係なのだろう。親しげな雰囲気ではあるが、友人というわけでもなさそうだ。
「さて、と」
ぼんやりと天井を眺めながら思考していると、顎髭を生やした丸顔の男がタケルの顔を覗き込む。どうやらこの男が狩野らしい。
「もう少ししたら武藤のおっさんが迎えにくる。動けるようになり次第移動してもらうぞ。後のことはおっさんに聞け。病院は俺が手配しといてやるから心配するな」
「あ……りが……ござ……」
「気にすんな。恭弥の頼みだから聞いてるだけだ。あ、恭弥ってのはさっき話してた竜崎のことな。ついでに、俺の名前は狩野英二。よろしくな」
そう言うと大きな口を吊り上げてニッと笑う。誰もが警戒心を解いてしまいそうな人懐っこい笑顔に猛の頬も思わず緩んだ。
「じゃ、俺はこれで失礼するよ。おっさんには嫌われてるもんでね、鉢合わせしたくねぇんだ」
そう言うと英二は急ぐようにバタバタと足音を立てながら去っていった。部屋に取り残された猛は一つ息をついてから目を閉じる——竜崎恭弥という名前をしっかりと胸に刻みながら。
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「では、完成次第ご連絡いたします」
「できるだけ早く頼む」
恭弥がいうと二人の男は深々と一礼し、足早にオフィスを立ち去る。打ち合わせでもしているのか低い話し声が聞こえていたが、しばらくするとその声も聞こえなくなった。
「猛」
「はい、ボス」
猛は不慣れな手つきでネクタイを締めながら返事をする。歩ける程度まで体の傷が癒えた猛を待っていたのは、恭弥のボディガードとして必要な立ち振舞や知識を身につけるための教育だった。テーブルマナーを始めとした礼儀作法、語学、政治、経済などに加え、格闘技や武器の取り扱い、運転免許の技術なども教え込まれた。
戸籍がなく義務教育も受けていない猛だったが、中学生レベルまでの教育は一通り受けていたため基本的な教養は身についていた。また、運動能力が高いことから格闘技や運転などの技能も問題なく習得できた。だが、いまだにネクタイとテーブルマナーには苦戦している。
「今日は本家に行く。お前が運転しろ」
「わかりました」
ネクタイに悪戦苦闘する猛を見て恭弥は苦笑すると、半ばあきれたような表情で猛の手を取る。
「最初は前から後ろ、それからこう。ここでしっかり締めておくと綺麗な形に仕上がる。わかるか?」
「すみません、なかなか覚えられず……」
「構わんさ。俺も最初は上手く出来なかった。スーツができあがるまでには慣れてるはずだ」
手ほどきを受けながらネクタイを結び終えた猛を見て恭弥はほんの少し微笑んだ。既製品のシャツは少し窮屈なようだったが、筋肉質で逞しい猛の体に似合っている。オーダーメイドであればさらに見栄えするはずだ。完成が待ち遠しい。
「帰りは『ソドム』に寄ることになると思う。場所は覚えているな?」
「ソドムというと、狩野さんのクラブ……ですか? はい、覚えていますが」
狩野英二——彼は繁華街から少し離れた裏通りで会員制のSMクラブを経営している。医者や弁護士、警視庁上層部の人間など、いわゆるVIPが顧客に名を連ねており、猛を診察した初老の医者も英二の顧客だった。
「ならいい。行くぞ」
ヤクザと風俗店が繋がっているケースは少なくないが、剋神会と『ソドム』は無関係だ。強いて言うなら恭弥と英二が旧知の仲であるということくらいしか接点がない。一体どのような理由で英二の元に行かねばならないのだろう。そもそも「寄ることになると思う」とは、なんとも曖昧ではないか。
疑問はあったが、それがいかなる内容であろうと猛の選択肢は一つ。命じられたことを忠実にこなすことだ。恭弥が行けと言うなら行く、死ねと言うなら死ぬ、殺せと言うなら殺す。極めてシンプルだ。
猛は後部座席に恭弥を乗せた白いフーガのハンドルを握る。ヤクザといえば黒塗りの高級外車というイメージがあるが、恭弥はそういった「いかにも」なものを嫌っており、彼自身がハンドルを握るプライベートカーも、ヤクザの若頭が乗っているとは思えないコンパクトな外車だった。
周囲の状況に注意をはらいながら猛は慎重に運転する。何度も右折や左折を繰り返し、時には同じ道を二度たどり、尾行されていないことを確認してから大神斎が住む「本家」まで走った。
「そのまま裏に回れ」
「裏……ですか?」
「ああ。ここに来るときは常にそうしてくれ。理由は……まぁすぐに分かるさ」
猛は恭弥に指示された通り、表門の前を過ぎて裏手に回る。表門に比べるとずいぶん簡素な——それでも、一般的な民家と比べると厳重で金のかかった裏門に到着した。インターホンで来訪を告げると門が開いたが、誰一人出迎えなどにでてくる気配はない。
「誰も出てきませんね」
「俺に対してはいつもそうだ。あの木の下に停めてくれ」
「あの、隅の方ですか?」
「ああ、あれが俺の指定席だ」
建屋から離れた場所に植えられた木の下に車を停める。猛は後部座席のドアを開けるために車を降りようとして、足元が少しぬかるんでいることに気付いた。水はけが悪く日当たりもよくないせいだろう。晴れているのにこれなのだから、雨が降ればあっという間に水びたしになりそうだ。
「猛、ここでは俺が許可した時以外何も言うな。誰が何をしようと何を言おうと、全て無視しろ。それが俺やお前に対する侮辱であってもだ」
「……わかりました」
恭弥の言葉に、言いようのないモヤモヤとした思いが広がる。ボディガードとして昼夜を共にするようになって日は浅いが、猛は恭弥に強い好感を持っていた。単に命の恩人であるからというだけではなく、知性と品格を備えたその人柄に尊敬すら感じたからだ。それゆえに、若頭という地位におよそ似つかわしくない対応や、侮辱を受けることが想定される状況——しかも、反論すらしてはならないということに腹が立つ。
恭弥は猛を伴って庭を横切り、使用人用に作られた裏口を使って邸内に入る。やはりここでも出迎えなどはなかったが、恭弥は特に気にする様子もなく静かに奥へ進んでいった。
狭く暗い廊下を抜け、庭に面した明るい広縁に出る。スーツを着た二人の男が恭弥と猛に気づき、何事かを耳打ちし合ったあと進路を防ぐように立ちはだかった。
「来客中です」
「ああ、知っている。定例会だからな」
「お通しできません」
「なぜだ」
「許可するまで誰も通すなと言われています」
「なるほど、そいつは親父より偉いらしいな。で、そいつは誰だ?」
定例会ということは、この日の訪問は恭弥の意思によるものではなく剋神会という組織のルール——つまり、組長である大神斎が定めたものということだ。ゆえに、恭弥が定例会に参加することを阻むのは、大神斎の決定に異を唱えるのと同義である。反目の意思ありとみなされてもおかしくない。
「身の程をわきまえないと命がいくつあっても足りんぞ。親父は逆らう者には容赦しない、それがたとえ自分の子でもな。わかったらそこをどけ」
男たちはわずかに顔をゆがめたあと無言で道を開けた。
「売女」
通りすがりに男が小さく呟く。猛は思わず振り返りそうになったが、恭弥の言葉を思い出してその場は切り抜けた。
「入室の仕方は覚えているな?」
艷やかに磨き抜かれた広縁を歩きながら恭弥は小さく聞く。先程の男の声は恭弥にも聞こえていたはずだが、まるで何事も無かったような口調だ。
「はい。ボスが特訓してくれたので」
猛がそういうと、恭弥はわずかに頰を緩めて笑う。テーブルマナーもそうだが、猛は「作法」といわれるものがあまり得意ではないらしい。茶道の流派の中では比較的簡素な武者小路千家の作法を覚えるのにも苦戦していた。まだ初歩的なことしかしていないというのに、先が思いやられるというものだ。
「俺が教えたのなら間違いはないな。さて、成果を見せてもらうとしよう」
恭弥はそう言うと、庭を一望できる場所に設えられた部屋の手前で立ち止まる。閉じた雪見障子の内側は見えないが、中からこちらの様子を伺っているようなピリピリとした緊張感が伝わってきた。猛はネクタイが曲がっていないか確認してから恭弥の左後方に控えると、ゆっくりと息を吐いて背筋を伸ばす。猛の失態は恭弥の評価を左右する。失態を犯さぬよう気を付けなければ。
「竜崎恭弥。参りました」
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