2 / 12
第二話
「以前から問題になっていたチャイニーズどもですが、調査の結果、うちのシマで薬をさばいていることがわかりました」
定例会も終わりに差し掛かったころ、幹部の一人である島田が言うと、その場にいた全員の顔に緊張が走った。剋神会では大麻や覚せい剤といった種類に関係なくドラッグは全てご法度だ。売買はもちろん使用した場合でも処罰の対象となる。直接関わっていないとしても管轄内で薬物を横行させているとなればそれなりの処分は免れないだろう。
「ブツはケミカルです。半グレのガキどもをプッシャーに仕立て上げてクラブやバーで客を捕まえています」
ケミカルドラッグは他のドラッグに比べて安価なうえ、バスソルトや香といった雑貨に偽装して販売できる。そのため、若年層が手を出しやすく広まるのも早い。薬物を取り締まっている警察にとって厄介な存在であったが、それは剋神会にとっても同じだった。
「恭弥」
居並ぶ幹部たちより一段高い床に座った老齢の男——大神斎が恭弥を呼ぶ。一同の視線が恭弥に集まった。
「はい」
「お前はこの事を知っていたのか?」
「はい。奴らがおかしな動きをしていることに気づいたのは三ヶ月前。そこからすぐに調査を始めました」
「ずいぶん時間がかかっているな。お前らしくない」
「申し訳ありません」
恭弥が調査に時間を要したのは、次期組長として大神光輝を推す一派から数々の妨害を受けていたからだ。斎は自身の後継者を指名していなかったが、恭弥が若頭に就任したことで次期組長の最有力候補は恭弥という見方が強まった。
だが、光輝を支持する派閥はこれに納得せず、恭弥をその座から引きずり落とそうと画策。恭弥の「事業」を妨害する数々の工作を行っていた。恭弥はその全てに穏便な対処をしてきたが、薬物汚染は時間とともに広がり事態を悪化させていく。光輝派の工作に対処するために無駄な時間を費やしている場合ではないだろう。ならばいっそ、自分以外の者に任せてしまったほうがスムーズに事が運ぶはずだ。
とはいえ、誰でも良いというわけではない。薬物が生み出す富と快楽に惑わされず、確実かつ公正に役目を果たしてくれる人物でないと——。
「……まぁいい。で、島田に調査を委任したのか?」
「はい」
光輝とは違い、恭弥は直属の部下と呼べるものを持っていない。元より浮いた存在であったが、若頭に就任したことでその立場はかなり微妙なものとなってしまった。光輝派を恐れて恭弥の傘下に入ることを望まない者も多く、恭弥自身も彼らの意思を捻じ曲げて従わせる気もないため、あえて直参の部下を増やそうとは思っていない。必要な時に必要な仕事をできる者に権限を与えて一切を任せることで恭弥は自らの事業を動かしていた。
今回の調査を委任した島田は剋神会の傘下としては古参の部類に入る「島田組」の三代目に当たる。分家筋ではあるが剋神会への忠誠心が高く、光輝派にも恭弥派にも属していない中立の立場だ。私利私欲に流される心配がないだけではなく、光輝と恭弥のどちらかにとって「不都合な真実」が見つかったとしても隠蔽する心配もないだろう。また、周囲からの信頼も厚く高い評価を得ている島田の調査であれば、その内容がいかなるものであっても否定するものはいないはずだと恭弥は判断していた。
「なるほど、悪くねぇ。おい、島田」
「はい」
「詳しい話は後にして、だ。とりあえず誰が一番ナメられてるかだけ教えてくれや」
斎は島田に問う。島田はわずかにためらったあと、静かだがはっきりとした口調で答えた。
「新城区です」
空気がざわついた。大規模な歓楽街を擁する新城区は剋神会にとって大きな収入源である一方、半グレ集団の活動が活発で他勢力からの干渉も受けやすい。そのため、新城区は若頭の管轄とするのが通例だったが、現在は——。
「光輝、どういうことか説明してもらおうか?」
恭弥の若頭就任の際、光輝派が強い反発を示し、剋神会は内部分裂の危機に直面した。しかし、反発があったからといって一度決めたことを覆すわけにはいかない。そこで斎が取った策が、新城区の管轄権を光輝が束ねる『輝神組』に渡すことだった。これは「それなりの地位をやるから黙っていろ」という意味ではなく「納得のいく実績を示してみせろ」という意味だ。
「すみません、実は……」
斎の視線に射すくめられた光輝は口ごもりながら説明を始める。半グレの数が増えていること、警察の監視が厳しいこと、着実に力をつけている海外勢力との交渉に注力していること。
「光輝」
「は」
言葉を遮られた光輝が返事をするや否や、その額にクリスタルガラスの灰皿がぶつかり、骨を打つ鈍い音が響いた。
「ふぐぉっ! ぐっ!」
「俺はな、言い訳が聞きてぇわけじゃねぇんだ。なんでオメェがナメられてんのかって聞いてんだよ」
額と鼻から流れる血を手で抑えながら光輝は苦しげに呻く。そばに控えていた部下は慌ててジャケットを脱ぐと畳の上にそれを広げた。
「ずびばぜん! ずびばぜん!」
鼻から喉へと流れ込んだ血で言葉が濁る。その声が癇に障ったのか、斎は激怒の形相で立ち上がると光輝に詰め寄り、土下座するその背中を荒々しく踏みつけた。
「すみませんじゃねぇだろが! 納得できる説明をしろって言ってんだよ!」
「ずびばぜん! ずびばぜん!」
光輝の体を蹴りつける鈍い音が何度も響く。小さな呻き声が上がるたびに斎の表情は怒りから快楽の色へと変貌していった。
「……もういい。今日はこれで解散だ」
光輝に対する一方的な暴力は数分ほどで終わった。はあはあと肩で息をする斎を見て一同はそっと胸をなでおろす——心臓に病を抱え、発作を起こして伏せる日も多くなった斎が倒れるのではないかと内心不安であったからだ。
「ありがほうごじゃいます」
顔面を血塗れにした光輝が言うと、その場にいた全員が静かに一礼し、足音を立てないよう細心の注意をはらいながら次々と立ち去っていく。だが、恭弥だけは立ち上がろうとせず、背筋を伸ばしたまま静かに座っていた。
「恭弥、お前は頭がいいな。何も言わなくても俺の考えていることがわかっているらしい」
斎はそう言うと粘りつくような視線で恭弥を見る——白く滑らかな首、細い顎、形の良い唇、程よく筋肉のついた胸、広い肩と背中、引き締まった腰。わずかに目を伏せ、口の端を引き締めたその表情はどこか不安げで何かにおびえているように見える。
「猛」
「はい」
「お前は外にいろ。俺が出てくるまで誰も入れるな」
「わかりました」
どこか異様な空気を感じながらも猛は恭弥の言葉に従って部屋を出た。指示通り入り口を塞ぐように立っていると、ジリジリと炙られるような感覚が胸の奥から湧き上がってくる。本当にこれでよかったのだろうか。いや、それが命令なのだから仕方がない。斎と恭弥は親子であり組長と若頭という関係だ。口を挟む余地などないだろう。だが……。
「うっ……」
ピッタリと閉じた障子の向こうから微かな呻き声が聞こえた。薄暗い部屋の中で何が起こっているのかはわからないが、人が激しく動いている気配がする。猛は耳をそばだて、中の様子をうかがおうとした。その時——。
「アンタ、ここで何してるんだい」
庭から女の声がした。声の主を確かめるよりも早く、猛はその場に座って深々と頭を垂れる。この家で女に声をかけられたらそうするようにと恭弥から言われていたからだ。
「はっ! 言わなくてもわかったよ。アンタ、恭弥ンとこの犬だね。で、アンタがそこにいるってことは、中にウチの人と恭弥がいるってことだ。二人きりでね」
女は鼻で笑ったあと忌々しげに言った。言いつけ通り床に額をつけたままにしているため声の主を見ることはできないが、その表情はひどくゆがんでいるだろうことは予想できる。憎しみと怒りがこもった声だった。
「汚らわしい」
女は吐き捨てるように言うと忌まわしげな足音を立てながら去っていく。猛は床の一点を見つめたまま、その足音が完全に聞こえなくなるのをじっと待った。女が言った「汚らわしい」という言葉の意味を考えながら。
「猛」
不意に声がかかり、猛はハッとする。考え事に没頭するあまりすっかり時間を忘れ、人の気配に気づくこともできなかった。いったいどれほどの時が経ったのだろう。床に伏せていた顔を上げると、どこか暗い表情の恭弥が猛を静かに見つめているのが見えた。髪と着衣がわずかに乱れ、口の端にはわずかに血がにじんでいる。
「ボス」
「行くぞ」
何があったのか問おうとする猛を制するように恭弥はいうと、後ろを振り返ろうともせず一人でさっさと歩き始めた。その様子は少しでも早くこの場から逃げ出そうとしているかのようで、今すぐ駆けだしたいという衝動を必死にこらえているようにも見える。何かがあったことは間違いない。一体何があったのだろうか。猛の胸の中で不安が渦を巻き始め、チリチリとした焦りのような感覚が全身を覆いつくす。だが今はそれを問うべき時ではない。猛は恭弥のうなじを見つめながら静かにその後をついていった。
来た時と同じように使用人用の通路を使って裏庭に出る。猛が車の後部座席のドアを開けようとすると、恭弥は無言でそれを制し、自ら運転席へと乗り込んだ。
「横に乗れ。自分で運転したい」
「……ですが」
「大丈夫だ。運転させてくれ」
心配げな表情を浮かべる猛に向かって恭弥が言う。その顔は青ざめていたが、どこか安堵したような微笑みが浮かんでいた。
「わかりました。では、失礼します」
猛は深々と一礼してから助手席に滑り込む。それを待ちわびていたかのようにエンジンがかかったかと思うと、車はまるで放たれた矢のようにまっすぐに外へと走り出した。来た時とは異なるルートを複雑に走り、やがて広い道に出るとオフィスとは別方向へと曲がる。どうやら『ソドム』に向かうらしい。
「猛」
「はい」
「俺はお前を専属のボディガードにするために買ったということは知っているな?」
「はい、もちろんです」
「だがな、俺はただのボディガードが欲しかったわけじゃない。警護だけなら武藤で十分だからな」
「……では、なぜ?」
「単純な話だ。俺はお前が欲しかった」
猛は何と答えればよいかわからなかった。恭弥の言葉の真意がわからない。そもそも、今このような話をしているのはなぜなのだろうか。
「猛。これからお前に新しい仕事をやる。俺が本当にしてほしかった仕事だ。だが、この仕事は命令ではなく、やるかどうかはお前の任意だ。もちろん、断ったからといってお前に不利益なことは起こらない。わかったか?」
「はい」
猛が返事をすると、恭弥は電話をかける。スピーカーからコール音が鳴り響き、すぐに英二の声が聞こえた。
『恭弥、どうした?』
「あと五分でそっちにつく。猛も一緒だ」
『ん……そうか。話は済んでいるのか?』
「いや、詳しい内容は伝えていない。今は少し難しくてな」
『……そうだな、あとは俺に任せろ。準備して待っている』
「いつもすまない」
『気にするな』
会話はほんの二分程度で終わり、車内に静寂が広がる。どうやら英二は猛の「新しい仕事」について知っているらしい。状況から考えると『ソドム』に関することかもしれない。
SMクラブに関する仕事——猛が選ばれるとしたら、おそらく用心棒といったところだろう。『ソドム』の顧客は社会的地位のある人間たちだ。信頼のおけない者を警備に当たらせるわけにはいかない。英二と恭弥が旧知の仲であるならば、その役目に猛が選ばれるのも自然なことだ。猛は決して恭弥を裏切らない。猛の命と体は、全て恭弥のものだからだ。
二人は『ソドム』につく。恭弥は小さく息を吐いてから車を降り、猛を待とうともせずさっさと歩き始めた。少し顔を伏せて歩く姿は、まるで猛に表情を見られまいとしているようにも見える。
いくつもの部屋の前を通り過ぎ、最奥にある部屋へ向かう。一際豪奢で厚いドアには小さな金文字で「SECRET」と書かれていた。
「猛、さっき言ったことを覚えているな?」
「はい」
「よし。ここから先は狩野の指示を聞け。そして、俺のいうことは聞くな」
その言葉に疑問を感じた猛が口を開こうとするのを阻止するかのように恭弥はドアをノックする。低く太い英二の声が入室を促す——それはこれまでに聞いたことのない厳しい声で、先程の電話とはまるで別人のようだ。
「失礼します」
そう言った恭弥の声はかすかに震え、普段よりもどこかか細く聞こえる。猛はこのような声を何度も聞いたことがあった。自分と似たような境遇の子供たちが世話人の「教育」を受けに行くときの声——これから始まる理不尽な暴力に怯える弱者の声だ。
開いたドアの向こうにいる英二をみて猛は目を見開く。彼は黒いレザーのビキニパンツの上に同色のチャップスを身に着け、上半身は素肌の上にレザーベストという姿で豪奢な椅子に腰かけていた。
「ずいぶん遅かったじゃねぇか」
英二は不機嫌な表情でそういうと椅子からゆっくり立ち上がり大股で恭弥に歩み寄る。濃い体毛の生えた大きな体を揺らしながら歩く姿は妙な威圧感があり、まるで大型の猛獣のようだ。
「申し訳ございません」
恭弥はその場に平伏して深々と頭を下げる。猛は自身も恭弥に倣うべきか悩んだが、その動きを制するような英二の視線に気づいてそのまま静観することを選んだ。英二が小さくうなずく。どうやら、猛の判断は正解だったらしい。
「おいおい、それは一体なんのつもりだ? 本当に詫びる気があるのか?」
恭弥は慌てて立ち上がり、急いで服を脱ぎ始める。イタリア製の高級な生地でできたジャケット、シルクのタイ、艶やかな光沢の白いシャツを脱ぎ捨て、ズボンを下ろすと、美しい逆三角形の上半身と黒いブリーフに包み込まれた尻が露わになった。白く艷やかな肌はまるで女性のようだが、僧帽筋が発達した背中はたくましく腰回りにも引き締まった筋肉がついている。一見すると水泳選手のように見えるが、肩口から腰にかけて入れられた大きな刺青が裏社会の人間であることを物語っていた。
「申し訳ございません」
恭弥が下着姿で再び平伏すと、英二は彼の前に足を差し出す。すぐに唾液が絡む湿った音がたった。どうやら英二の靴を舐めているらしいと猛は理解する。
「脚を開いて尻を突き上げろ」
「ふぁい」
英二が命じると恭弥は尻を高くつき上げる。下着を身につけているためアナルは見えなかったが、陰部のふくらみがあらわになり、薄い生地の下ではペニスがわずかに大きくなっているのがわかる。靴をなめるために体を動かすたびに引き締まった尻がゆらゆらと揺れ、まるで猛を誘っているかのように見えた。
「そこから何が見える?」
胸の奥から湧き上がってくる奇妙な高揚感の正体を探っていた猛に英二が突然声をかけた。猛は一瞬言葉に詰まり、どう答えるべきか思案してからゆっくりと答える。
「いやらしい尻だ。布の下の割れ目も玉の裏も、全部丸見えだ」
「だ、そうだ、恭弥。恥ずかしくて情けないなぁ。おい。もっとよく見てもらおうか」
「あ……ふっ……」
英二は恭弥の下着をつかみ上げた。白い尻肉が丸出しになり、割れ目に布が食い込むと苦悶とも喘ぎとも取れぬ甘い声が上がる。わずかに見える色素の濃い皮膚が妙に艶めかしく、できることなら今すぐに下着をはぎ取ってやりたいという衝動が沸き起こった。
「どうやら気に入ってもらえたようだぞ。嬉しいか?」
「はい……ありがとうございます」
恭弥がくぐもった声で感謝の言葉を述べると、英二はむき出しになった恭弥の尻を平手で打つ。乾いた音が響き、白い肌の上に真っ赤な痕がついた。
「よし、お前は今から犬だ」
「はい」
英二に命じられ、恭弥は膝を開いて深くしゃがむ「犬のポーズ」を取る。屈辱のせいか興奮のせいかはわからないが息が荒くなり、呼吸のたびに肩がわずかに上下していた。英二はねっとりと絡みつくような視線で彼をまじまじと見た後、静かに猛を手招きする。
「後ろばかりじゃつまらんだろう。前も見てやってくれ、じっくりと」
猛はわざと大きな足音を立てながら恭弥の背後に歩み寄り深い息をつく——恭弥は前を向いたまま身を固くした。その胸中を駆け巡っているのは恥辱にまみれた快楽か、あるいは軽蔑されることへの恐れか。緊張で硬くなったうなじにじっとりと汗が吹き出し、呼吸はさらに早く浅くなっていく。猛は恭弥の死角となる位置にしゃがむと、顔を近づけて首筋の匂いを嗅いだ。
「っ!」
息が触れた瞬間、まるで電気が走ったかのように恭弥の体が大きく跳ねる。全神経が逆立っているのかと思うほど敏感な反応だ。触れればどうなってしまうだろうかという好奇心が芽生えたが、今はこのくらいにしておこう。猛はゆっくりと立ち上がり、恭弥の体を鑑賞しながら歩く。
「どうだ?」
恭弥の体について聞いているのか、それともこの状況をどう感じているかについて聞いているのかわからなかったが、どちらの場合であっても猛の答えは同じだ。
「……悪くない」
「なかなか見込みがあるじゃないか。よし、ならば着替えてもらおうか。そのスーツケースに一式入っている。少し小さいかもしれんが、まぁ勘弁してくれ」
英二が座っていた椅子の脚元に小型のスーツケースが置かれている。開けてみると、中には黒いレザーのパンツやボディハーネス、手袋に加え、首輪と鎖、拘束具、柄のついた細長い板状の物が入っていた。
「これは?」
「それはスパンキングパドル。使い方は……まぁ説明しなくてもわかるだろう」
スパンキングとは尻叩きのことだ。なるほど、名前だけで用途も使い方もすぐにわかる。猛はスーツケースから取りだし、指示を求めるように英二に視線を向けた。
「好きな場所で着替えてくれ。フィッティングルームならあのドアの向こうにあるし、今この場で着替えたければそれでもいい。もちろん、着替えずこの部屋を出て行ってもいい」
この衣装を身につけることは、プレイに参加するという意味となる。男同士のSMプレイ——恭弥が言っていた「仕事」とは、まさにこれだったのだ。
つまり、俺はSになるために買われたということか。そう思うと奇妙な気分だった。男妾にするために買われたなど考えもしていなかったし、拒否しても良いと言われているとはいえ、不意打ちのような形で参加を求められるなど怒りを覚えても良いはずだろう。だが猛の中には怒りの感情は一切なく、わずかな戸惑いと高揚感、そして、今までに感じたことのない欲望が渦巻くばかりだった。
猛はジャケットに手をかける——恭弥の目の色が変わった。喜びと期待と安堵。物欲しげでどこか切ない欲情が入り混じった色だ。
猛はまるで焦らすかのようにゆっくりと服を脱ぎ始める。ジャケットを脱ぎ、ネクタイを解き、シャツのボタンを外していくと鍛え上げられた胸元が少しずつあらわになり、それに連なるように興奮が高まっていく。
ハーネスを身につける。ゆっくりと腕を通し、肋骨の下でベルトを締め、肩口から胸へと渡るベルトを指先で撫で上げるように整えると、恭弥がかすかに息をのむ音が聞こえた。体にピッタリ沿うよう調節すると適度な拘束感が生まれて心地よい。
ベルトに手をかけ少し荒々しく外す。わずかな残心。今度は勿体つけるようにゆっくりと丁寧にボタンを外し、ファスナーを下ろしていく。熱い視線がその手元に注がれているのを痛いほどに感じた。
手を離すとベルトの重みでズボンがストンと落ちる。紺色のボクサーブリーフに包まれた筋肉質な尻と前のふくらみが姿を現した。試合の時は安全のためにプロテクターを着用しているためあまり目立っていなかったが、薄いブリーフ越しのそれは通常状態でもかなり大きく見える。一体どれほどの物がそこに収まっているのか——。
次の瞬間、恭弥だけではなく英二も息をのんで目を見開いた。降ろされたブリーフの下に隠されていた物は予想以上に大きく、それを覆う茂みは濃密で強いオスの風情を漂わせている。これがもし屹立したらと考えると二人は息を飲まずにはいられなかった。
猛はレザーのパンツを身に着ける。つい先ほどまではいていたボクサーブリーフと形や大きさはほとんど同じだが、素材が布からレザーに変わるだけで着心地がずいぶんと違った。密着感が少し窮屈だが、その吸いつくような窮屈さが倒錯的な快感となって体内を駆け巡っている。これまでに感じたことのない奇妙な感覚に、猛は秘かな興奮を覚えていた。
「う、あっ……」
小さく喘ぐような声をあげる恭弥。その体は完全に上気し、大きく見開いた目は淫靡な光沢で彩られたレザーパンツのふくらみを凝視している。脚を開き無防備になった秘部は硬く隆起し、先端は大きなシミを作っていた。
「やれやれ、レザーを見たとたんこれだ」
英二が半ば呆れたようにいう。どうやら恭弥はレザーフェチらしい。それも極度の。
「着替えが終わったらそこに座ってくれ」
猛は手袋を手に持ったまま椅子に腰を下ろす。その姿は地下闘技場の王と呼ばれていた男にふさわしい威厳に満ち、マゾヒストであれば誰もがその足元に平伏してしまうであろうと思えるほどだった。
「こいつは恐れ入った。よかったな恭弥、お前のご主人様はまぎれもない逸材だ。さぁ、ご挨拶してこい」
恭弥は四つ這いで進み出ると、猛の足元に静かに額をつける。瞬間、言いようのない快感が猛の背筋を這いあがり全身が総毛立った。試合中に拳が相手の骨を砕いたときに湧き上がる感覚と似ているが、それよりもずっと熱く狂おしく、それでいてどこか冷たい感覚。
「顔をあげろ」
猛が命じると恭弥は静かに顔をあげる——頬は微かに上気し目は潤んでいる。彼はこの時をどれほど待ち望んでいたのだろうか。
「よく見ていろ」
「……はい」
手袋を身につけながら猛が命じると、恭弥は擦れた声で小さく答えた。その視線は真新しいレザーの手袋が猛の指を受け入れる様子に注がれている。小さく爆ぜるような音を立てながら膨らんでいく手袋は淫靡な生き物のようで、動くたびに黒く艶やかに光って劣情を煽った。全ての指が収まり、手を握ったり開いたりを繰り返すとレザーが締まる音が微かに響く。恭弥の目には恍惚の色が宿っていた。
「いつまで眺めている! さっさと挨拶をしろ!」
呆けたように猛を見つめる恭弥に英二の怒号が飛ぶ。恭弥は淡い眠りから覚めたように身をすくめると再び平伏した。
「恭弥はご主人様の従順な奴隷です。身も心も全てご主人様に捧げます。どうかご調教をお願いいたします」
その言葉には一切の淀みがなく甘美な音楽のようにすら聞こえる。調教——考えただけで足元から快感がざわざわと立ち上り、背筋を撫で上げるように駆け抜けていった。猛の中に眠っていた支配欲と征服欲が目を覚まし、密やかなサディズムが呼吸を始める。
「俺を見ろ、恭弥」
歓喜に満ちた表情で恭弥は猛を見上げた。名を呼ばれるだけでこれほど喜ぶのならば、さらなる支配を受ければどれほど喜ぶのだろう。恥辱と苦痛におののきながら身も心も征服されるとき、彼はどんな表情を浮かべ、どんな声で鳴くのだろう。
「これはなんだと思う?」
猛が首輪と鎖を見せ、手の中で弄びながら訪ねた。
「首輪です、ご主人様。卑しい奴隷の証です」
「欲しいか?」
「欲しいですご主人様。どうか私にご主人様の証をください」
「そうか。ではまず、俺の奴隷にふさわしいかどうか調べてやらないとな」
そういって猛は立ち上がると、手だけで「待て」の指示を出してから英二の方に歩み寄る——人を安全に痛めつける方法をある程度理解している猛であったが、それはあくまでも格闘の技術としてであってSMに関してはまるで知識がない。闘技場での経験や知識を応用することはできるだろうが、今は素直に英二から教えを受けるべきであろう。
「狩野さん」
「お前、もしかして経験者か?」
「いいえ。ただ感覚的にやっているだけです」
「なるほど、ファイターには駆け引きや心理戦も必要だからな。上手いのも道理ってわけだ。でも、ここから先はどうすればいいかわからない、と」
「その通りです。どうかここから先を教えてくれませんか」
「いい判断だ。Sは冷静でないと勤まらん。やっぱりお前は才能があるみたいだな。よし、ここからは俺に任せておけ」
英二はニヤリと笑うと、壁にかかっている数本の鞭の中から黒いバラ鞭を取り、激しく床を叩いた。乾いた破裂音が大きく響く。
「身体検査だ! こっちに来い!」
威圧的な声で英二がいうと、恭弥は四つ這いのまま二人の前に駆け寄り、きっちりと正座をしてから深々と一礼する。
「ご主人様、どうか私の体を隅々までお調べください」
「腕を出せ」
命令に従い腕を差し出す恭弥。英二は慣れた手つきで手枷をはめると、天井からぶら下がっているフックをかけて鎖をゆっくりと巻き上げていく。両腕が徐々に上がっていき、やがて両手を頭上にあげて立った状態になった。両腕を束ね、かかとが微かに浮く姿勢は腕や肩に負荷がかかるだけではなく、胸の動きが制限されて呼吸が浅くなる。
「いい眺めだぞ、恭弥」
英二は顎に手を当てながら恭弥の体を眺め、満足げな笑みを浮かべた。腕から脇を通って腰に至るまでのラインや色素の濃い乳首、引き締まった腹部が呼吸のたびに妖しく蠢き、体は次第に熱を帯びて赤みがさしてくる。微かに汗がにじんだ背中に刻まれた刺青の色が仄かに鮮やかになり、まるで眠りから冷めたかのように見えた。
「うっ……」
眉間にしわを寄せ、恭弥は苦しげに呻く。
「苦しそうだな。検査は中止にしようか?」
「い……いえ。どうぞ、私の体をお調べください」
「いい子だ」
英二は手に持ったバラ鞭で恭弥の体を撫でたり体を揺さぶるように突いたりし始めた。そのたびに恭弥が小さなうめきとも喘ぎともつかぬ声をあげ、両手を吊り上げている鎖が硬い金属音を立てる。
「おいおい、これは一体どういうことだ? さっきまであんなに涎を垂らしていたくせに、すっかり縮こまってるじゃねぇか。そうか、俺じゃ不服だってことか」
「ちが……」
「だったらさっさと立たせろよ!」
怒号が飛び、鞭が恭弥の脇腹を激しく打つ。短い悲鳴が上がり、白い体が微かに跳ねた。
「ほら! 見てやるからさっさと立てろ!」
英二は乱暴に恭弥のブリーフを掴むと、荒々しい手つきで一気に引き下げる。黒く艶やかな下生えと、力なく垂れ下がったペニスが露出した。わずかに褐色がかったそれは太さも長さもごく一般的だが、特徴がないにもかかわらずなぜか妙に卑猥に見える。
「ほら、さっさと立てるんだよ!」
英二が再び鞭を振り、太ももや尻、脇腹や背中を容赦なく痛めつけた。黒い革を編み込んだ細い穂が皮膚を激しく打ち、打たれたあとがほんのり桜色に染まったかと思うと、次第に鮮やかな赤色へと変化していく。
「あっ……ひっ……!」
痛みから逃れようとするかのように身を捩った瞬間、膝がガクリと折れて手首と肩に激痛が走る。数秒間呼吸が止まり、ようやく息を吸うことができた時には目に涙が浮かんでいた。
「片脚を上げろ! 犬のションベンのポーズだ! お前の情けないチンポをご主人様にもっと見てもらえ!」
「お許しを……!」
脚の隙間にバラ鞭を差し込む英二。恭弥は頬を赤らめて身を捩りながら抵抗するが、太腿に容赦ない平手打ちを何度も浴びると小さく呻きながらゆっくりと脚をあげはじめた。両手を吊り上げられた状態での片脚立ちはかなり苦しい体勢のようで、眉間にはシワが寄り額には汗が浮かんでいる。
「もっとだ! もっと上げろ!」
英二の怒号が飛ぶ。恭弥はさらに脚を高く上げた——バランスを取るために上半身が傾き、息苦しさと苦痛がさらに増す。英二は手早く恭弥の脚を縛るとフックを使って吊るしてしまった。
「ほうら、チンポもケツの穴も丸見えだ。恥ずかしいな、恭弥」
「は……い」
「ほら、ご主人様が見ているぞ。嬉しいか?」
「嬉し……です。ご主人様、恭弥の……いやらしいチンポとアナル……みて……」
苦しげな表情を浮かべ、荒い息を吐きながら恭弥が言う。その体は火照って赤みを帯び、にじんだ汗でじっとりと湿っていた。
「おいおい、そういうわりに立ってねぇぞ? どれ、使い物になるかどうか、調べてやるかな」
そう言うと英二は部屋の隅にあるキャビネットの引き出しを開ける——猛の位置からは何が入っているのか確認できなかったが、入っているのはおそらく攻め具だろう。しばしの間腕を組みながら思案している様子の英二だったが、小さな声で「よし」というと独特な形をした黒い道具を取り出した。
「ほら、これはどうだ?」
「っ……! それだけはお許しください」
「遠慮するなよ。出るもん出るか調べるにはこいつが一番だろ?」
それを目にした途端、恭弥の顔がこわばる。アルファベットの「T」の字に似た形のそれは、真ん中の長い部分がペニスを模した形となっており、よく見ると先端に小さな電極のようなものがついていた。
「お願いします、どうかお許しを」
恭弥は苦しげに懇願する。しかし、その声が届いていないかのように英二は器具にローションを塗りつけると、恭弥のアナルにそれをゆっくりと挿入した。
「うっ……ぐっ……」
冷たい粘液をまとった異物が体に侵入する感触に、恭弥は苦鳴とも喘ぎともとれぬ声を漏らす。その声に嗜虐心を刺激されたのか、英二は器具を出し入れして恭弥のアナルを弄び始めた。熱い吐息と粘液の音が混ざり合って淫猥に響き、下を向いていたペニスが少しずつ充血し大きく硬くなっていった。
「なにがお許しくださいだ、ケツをいじられてチンポおっ立てる変態のくせによぉ。こりゃちっとお仕置きが必要だな」
英二は平手で恭弥の尻を叩くと器具のスイッチを入れる。微弱な電流が走り、体の内側から前立腺を一定のリズムで刺激し始めた。
「あっ……いっ……痛っ……痛いっ」
針先で刺すような刺激が走るたびに小さな悲鳴が上がる。英二はバラ鞭を取って太ももの内側や尻を容赦なく叩き、柔らかい皮膚は一目でその痛みが分かるほど真っ赤に染まっていった。恭弥の顔には明らかな苦悶が浮かび上がっていたが、痛みに反するかのようにペニスは硬く大きく勃起し、絶頂を迎える直前のように細かく脈動を続けている。歪む表情と熱く火照った体は美しくも扇情的で、いつしか猛のペニスも鋼のように硬く大きくなっていた。
「まだまだ足りねぇなぁ!! ほら! もっと鳴け!!」
英二は電流を強める。前立腺への刺激が強くなり、恭弥の意志とは無関係にオーガズムの感覚が押し寄せペニスがはちきれんばかりに硬くなった。
「抜いてください!! お願いです!! 抜いてください!!」
「へえ? 抜かなきゃどうなる?」
「イってしまいます!! ああっ!! ああああっ!!」
「そりゃ困ったな。しかしな、恭弥。あいにく俺はお前のご主人様じゃない。抜くも抜かないも、イクもイカないも、俺が決めることじゃねぇ。お前のご主人様が決めることだ」
英二がそういうと、恭弥が懇願するような目で猛を見つめた。
「ごしゅ、ごしゅじんさまっ!! おねが、い。ぬいてくだ、さ」
息も絶え絶えにそういう恭弥の背中を英二が鞭打つ——爆ぜるような音が大音量で響き恭弥の体が大きく跳ねたかと思うと、ペニスから大量の白濁が勢いよく迸った。
「ああっ!! あああっ!!!」
絶頂の叫びをあげながら恭弥は激しく痙攣を繰り返す。快楽を貪ろうとするように、あるいは強制的な快楽から逃れようとするように腰ががくがくと揺れ、失禁したように二度目の射精に至った。
「誰がイっていいと言った?」
猛は大股で恭弥に近づくと、虚ろな表情の恭弥の顔を覗き込む。
「もうし、わけ、ございま、せん。あああっ!」
頬を上気させ、目に涙を溜めたまま許しを乞う恭弥の体に英二の鞭が飛び、激痛と快楽の波が押しよせた。
「なんだ、またイキたいのか? 俺が何もしなくてもイケるなら、もう俺がお前の主になる必要はないな」
「ちが、い、ます! イキません! ごしゅじんさま、のお許しがないと、うああっ!!」
猛に乳首をつねられ悲鳴を上げる。腰がびくりと跳ね、強い射精の感覚が襲ってきたが恭弥はそれをこらえた。
「そうか、では証明して見せろ。俺がいいというまで一滴も漏らすな。わかったな?」
「ありが、とう、ございま」
言い終える前に体が大きく跳ねる。英二が電流をさらに強めたのだ。
「あぐっ! うっ! あっ! あっ!」
電気のパルスに合わせて全身が細かく跳ねる。そのたびに硬くそそり立ったペニスが揺れ、透明な先走りが糸を引きながらダラりと滴り落ちた。
「さて、本当に耐えられるかな?」
猛はスパンキングパドルを手に取り、その強度としなりを確かめるように自らの手のひらを打つ——革と革が激しくぶつかり合う乾いた音が響き、それに反応するかのように恭弥の表情が変わった。
「どこを打ってほしい? 言ってみろ、恭弥」
恭弥の腿を軽く打ってパドルを押し当てると甘く静かに囁く。これから始まる責めへの不安と期待、深く艷やかな低音で名を呼ばれた喜びが胸の奥から湧き上がり、ゾクリとした快感となって恭弥の背を撫で上げた。
「ごしゅ、じ……さまっ、どう、か、この、だらし、ない、チン……あっあっあっあ……いっ、あっ、おねっ、がい」
「そうか、こいつを躾けて欲しいのか」
「あぎっ……!」
猛は恭弥のペニスを握る。鋼のように硬くそそり立つそれはレザーの手袋越しでもわかるほど熱く、快楽の波が押し寄せるたびにビクビクと脈打っていた。
「いまからこいつを十度打つ。耐えるんだぞ」
「はひっ」
「いい返事だ。ほら、いくぞ。ひとつ!」
猛はパドルを使って恭弥のペニスを軽く打つ。パンッという軽い音がして微かな呻きが漏れた。どうやらこの程度の痛みは問題ない……いや、むしろ物足りないらしい。ならば——。
「ふたつ!」
先程よりも強い力で打つ。まだまだ足りない。さらに力を込めてもう一度。大きな音が鳴り悲鳴が上がる。恭弥の顔は苦痛に歪んでいたが、その表情とは裏腹にペニスは快楽に耽るように激しく脈動していた。
「ずいぶん良い表情になったな。もっと強く打ってほしいか?」
「ごしゅじ、さまが、おのぞみ、なら」
猛の問いに恭弥は喘ぐように呼吸しながら答える。両手を吊り上げられた姿勢が長く続いたためかなり苦しそうだ。そろそろ限界だろう。
「よし、お前がそういうならもっと強く打ってやる。最後まで耐えるんだぞ」
「は……い」
恭弥が答えるのを見届けると、猛は再びパドルを振るう。容赦ない打撃音が響き、それをかき消すほどの絶叫が上がった。獣の咆哮のような声を聴きながら一心不乱に恭弥を打ち続ける猛の額には次第に汗がにじみ、レザーパンツの下のペニスはいつしか痛いほどにそそり立っていた。
「とお!」
最後の一撃はひときわ高い音が鳴った。恭弥は声にならない叫びを上げて全身をわななかせた後、まるで力尽きたようにぐったりとうなだれる。英二は猛に視線を送った後、恭弥のアナルに挿入された器具の電源を切って引き抜き、脚の拘束を解いてからゆっくりと慎重に鎖を緩め始めた。
「よく耐えたな」
猛はぐったりとした恭弥を抱きとめると耳元で優しく囁く。恭弥は焦点の定まらぬ目で猛を見つめ、汗と体液でじっとりと濡れた体で息をしながらこの上なく幸せそうに微笑んだ。
「ご褒美をやろう」
猛は恭弥のペニスを握る。激しい殴打と強制的な快楽に耐えつづけたそれは痛々しいほどに赤く染まり、息を吹きかけるだけで全身が痙攣するほど敏感になっていた。
「イけ」
「ありがとうございま……あっあっあっああぁぁっ!!」
根元から精液を搾り取るように強く激しくしごく。手の中のペニスが一気に硬さを増し、大量の精液が迸った。恭弥は猛の体にしがみつき、さらなる快楽を貪るように腰をがくがくを振るわせると二度、三度の絶頂を味わう。猛は恭弥が歓喜に打ち震えていることに大きな満足感を得ていた。これまでに一度も味わったことのない感覚だった。
「恭弥」
「はい」
「今日から俺はお前の主。そして、お前は俺の奴隷だ」
「……!」
猛の言葉に恭弥は眼を見開く。熱い涙が溢れ頬を伝い落ちた。
「ほら」
英二が静かに首輪を差し出す——猛はそれを受け取ると、優しい手つきで恭弥の首にはめた。
「ご主人様、ありがとうございます。恭弥は良い奴隷になります。ご主人様、どうかこれからも私を……」
全ての言葉を言い終える前に恭弥は意識を失い、その場に崩れ落ちた。
________________________________________
「……で、どうだった? 俺が見た感じだと、お前も嫌いじゃなさそうだったが」
気絶した恭弥をベッドに寝かせ、大きく一息ついてから英二が言った。猛と二人がかりで運んだとはいえ、意識のない成人男性を運ぶのはさすがに骨が折れる。
「上手く言えませんが、なんというかこう……」
「興奮したか?」
「はい。でも、それだけじゃありません。この表現が正しいのかどうかわからないんですが、俺は……その、すごく嬉しかったです」
「それはなぜ?」
英二に問われ、猛はしばし思案する。何がそれほど嬉しいと感じたのか、何が猛にあの満足感を与えたのか、これまでに感じたことのないあの喜びは、一体どこから来たのだろうか。
「……信じてくれたから……でしょうか」
猛はこれまでに何度か女を抱いたことはあったが、男と性的な行為に及んだことはない。SMに至っては「そういう嗜好がある」と知っている程度で自分とは無縁のものだと思っていた。恭弥はそれを承知していたからこそ「やるかどうかは任意だ」と言ったのだろう。命令に従うのではなく、自分の意思でここに加わるかどうかを選択してほしかったのだ。
もちろん、猛が恭弥の望みを受け入れない可能性は十分あった。いや、むしろその可能性の方が高い。だが、それでも恭弥は猛に選択を委ね、全てをさらけ出した。
「ご存知の通り、俺はまったくの素人です。どこをどうすれば危険か一応わかっているつもりですが、ここはリングのうえではないし、相手は格闘家でもない。力加減や打ちどころを間違える可能性だってあります。それに……」
二人きりではないといっても、地下闘技場の王者だった猛と英二ではまるで勝負にならない。つまり、猛がその気になれば恭弥を殺すこともできたのだ。だというのに、恭弥は身動きの取れなくなった自らの体——すなわち命を躊躇なく預けた。これ以上の信頼の証があるだろうか。
「こいつはとんだ逸材だな。失業したら俺のとこに来い。あっという間にナンバーワンになれるぞ」
英二は小さく笑って冗談めかした口調で言った。
「SMってぇと、Sが好き勝手Mを痛めつければいいんだと勘違いしてる奴がいるが、そいつは違う。Mだってな、叩かれりゃ痛いんだ。痛みならなんでも快感になるってわけじゃねぇ。ま、個人差はあるから絶対にいないとは言わねぇが、少なくとも俺はタンスの角に足の小指をぶつけて勃起するMなんて聞いたこともねぇしな」
「では、何が快感なんでしょう?」
「そうだなぁ。いろんな奴がいるし、俺はMじゃねぇからはっきりとは言えねぇが……解放されるというか、許されるというか、受け入れられるというか……とにかく、そういう感覚がいいらしい。なんだっけな、カルタみたいな名前のアレ……そうだ、カタルシスだ」
カタルシス——抑圧された状態から解き放たれること。身体拘束や射精管理といった身体的な制限からの解放だけではなく、倫理観や社会的ルールなどの心理的な束縛からの解放も含まれる。だが、そういった表面的なものだけが全てではない。もっと根深い抑圧を抱えているMも少なくはないのだ。
「痛みや苦しみだけじゃなくカタルシスの快楽も与えられるってことを知っているからMは責めに耐えられるし、Sに命を預けられるんだ。逆を言えば、Sは責めを与えた分だけMを解放してやらなきゃならんし、預かった命を守る義務がある。SとMはな、そういう信頼関係があるからこそ成り立つんだと俺は思う」
「だから、Sが好き勝手Mを痛めつければいいというわけではないと」
「そういうことだ。まぁ、それは置いといて、だ。恭弥はお前を主として求めている。お前は恭弥の”新しいご主人様”になる気があるんだな?」
英二は真剣な目で猛を見つめる——SMの世界で首輪がどのような意味をもつのかを猛は知らない。いや、そもそも意味などあってないようなものなのだろう。ある人にとっては単なるアクセサリーであり、またある人にとっては屈辱感を増すための小道具でしかない。ただの道具。それ以上の意味などないのだ。
だが、恭弥と猛の間ではそうではない。恭弥は専属奴隷の証として首輪を求めた。つまり、あの首輪は単なる「一時的な快楽のための道具」ではない。そして、猛はそれを承知の上で恭弥に首輪を与えた。
「はい」
「よし。じゃあ服を持ってついてきてくれ」
猛は脱ぎ捨てた服を拾い上げ、英二のあとを追って隣の部屋に移動する。そこは応接室のような空間で、部屋の片隅には小さなバーカウンターが設えられていた。
「奥にシャワールームと更衣室がある。汗を流して着替えてこいよ」
猛は英二に礼を言うとシャワールームに向かう。手前の小部屋で着ているものを脱ぎ、磨りガラスのはまったドアを開けると、エンジ色と黒で構成された空間が広がった。大人が三人入れそうな広いバスタブとシャープなデザインのシャワー、全身が写る大きな鏡が機能的に配置されていた。
興奮の余韻を冷ますため猛は冷水を浴びる。針のように細い水は火照った体に当たって生ぬるい湯に変わり、肌の表面を滑り落ちていった。その感触に恭弥の汗ばんだ肌を不意に思い出し、興奮が冷めるどころか次第に高ぶっていく。いつの間にか、猛のペニスは硬く大きくそそり立っていた。
「……っ」
もはやこれを鎮める方法は一つしかない。猛はペニスを握ってしごき始める——シャワーの音に混じって粘液が立てる音が響き、その度に快感が高まっていく。熱い塊のようなものが根本からこみ上げ、まるで爆発するかのように大量の精液が放たれた。
「あっ……ふっ……!」
激しく脈打ちながらドクドクと精を放つペニスを握りながら、猛は小さな声をあげる。これまでに経験したことのない強い快感が波のように押し寄せ、全てを吐き出すと共に静かに引いていった。
猛は大きく息をつくと、精液がこびりついた手を洗い、汚してしまった壁をシャワーで流す。ペニスはまだ硬さを失っていなかったが、しばらくすればこの高ぶりも消えていくだろう。
そもそも、猛の性欲はそれほど強くない。ファイターをしていた頃は「戦利品」として女をあてがわれたことが何度かあったが、贈り主の顔を立てる意味で一度抱いたらすぐに返していた。自己処理に関しても、しなくてはいられないほど性欲を持て余したこともなく、寝付けない夜の入眠儀式としてすることがある程度だ。だというのに、これは一体どういうことなのか。恭弥の肌の感触や苦し気な声、潤んだ目、痛みと快楽に耐える姿が脳裏から離れず、思い出すだけで欲情してしまう。まるで自分が自分ではなくなってしまったような気分だった。
「おう、スッキリしたようだな」
シャワーと着替えを済ませて戻った猛を見た英二が白い歯を見せてニッと笑う。汗を流したことについて言われているのだとわかっていても、自慰をしたことがばれているかのような気分になり猛はそっと目をそらす。
「コーヒーでいいか? といっても、もう二人分淹れちまったんだがな」
「ありがとうございます、いただきます」
猛は礼を言うと差し出された赤いマグカップを受け取り、英二に促されるままソファに腰かけた。コーヒーの香りが鼻腔をくすぐり、気持ちがほどけていくような気がする。
「恭弥と俺は中学からの付き合いでな、俺のほうが年上なんだが、素行不良でたから留年して同級生だったんだよ。私学ってさ、中学でも留年することがあるんだ。つっても、そう簡単にしねぇんだがな」
猛は学校に行ったことはなかったが、中学とは十代前半に通う学校だということは知っていた。
「俺の家は代々弁護士の家系でな、当然のように俺もその道に進むよう押し付けられてたんだが、何がどういうわけか、俺はとにかく出来が悪かった。それでガキの頃から毎日折檻されてさ、そのせいか俺も周りの奴らを殴るようになってな、中学上がる頃には親に見放されちまった。だが、中卒じゃ体裁が悪いからって金さえ積めば大学まで進ませてくれる学校に入れられたんだ。くだらねぇ話だろ」
おそらく、英二が二年も留年するきっかけになったのは親への反抗心からだろう。一方的に期待を寄せ、それが叶わないと分かると無情にも突き放し、そのくせ体裁を守るために学歴だけはつけさせようとする。あまりにも身勝手だ。
「留年を二回くらって、次はいよいよ退学だなって思ってた年の夏頃に恭弥が転入してきたんだ。今よりずっと細くて小さくて声も高くってさ、女みてぇにキレイでさ。だからさ、顔が可愛けりゃ男でも構わずマワされるような学校に来ちまうなんて可哀想なやつだなって心配してたんだが、不思議なことに誰も近づこうとしない。それどころか目を合わすことすら避けられてるみたいだった。なのに、しょっちゅう体に傷や痣ができててな、なんか気になって俺の方から恭弥に話しかけるようになったんだ。いやぁ、まさか剋神会の組長の息子とは思わなかったよ」
英二はそう言うと屈託のない笑顔を浮かべた。素行不良で二度も留年している英二は周囲から浮いた存在だったのだろう。恭弥に興味を抱いたのも二人にどことなく共通点があったからなのかもしれない。
「思った通り、恭弥の傷は家族に付けられたもんだった。あいつ、組長の妾の子供でさ、おふくろさんが病気で亡くなってから親父の家に引き取られたらしい。兄貴やババアにとっては赤の他人どころか憎い妾の子供だ、ずいぶん虐められたんだと」
恭弥が「大神」ではなく「竜崎」と名乗っている理由や、本家での異様な扱いの理由はこれだったのだ。
「だがな、恭弥に暴力を振るったのは兄貴とババアだけじゃねぇ、親父も恭弥を虐待してたんだ。恭弥を守ってやれるのはあいつしかいねぇってのに、自分の欲望を満たすために恭弥を殴って犯したんだ。嫌がる恭弥を無理やり押さえつけて何度も何度も」
孤独な恭弥にとって唯一のよりどころであるはずの父親に裏切られ、踏みにじられた痛みと悲しみは想像を絶するものだっただろう。平静を装ってはいるが英二の眼は怒りに燃え、カップを持った手は微かに震えていた。本家で会った男たちが恭弥を「売女」と罵ったのも、大神斎と恭弥の関係を知っているからだろう。そしておそらく、二人の関係は今でも続いている。
「恭弥が自分を傷つけるようになったのはそれからだ。親父にヤラれるたびにエスカレートしていって、俺は気が気じゃなかった。中二の夏だったかな、死にかけたんだよ、あいつ。なんでこんな事するんだって怒ったら暗い顔で言ったんだよ。感じるようになっちまったって。痛くて辛くて悔しいのに体が反応してしまう、だから自分に罰を加えてるんだって」
「もしかして、狩野さんがSになったのは」
「死なれたくなかったからな。おっと、勘違いするなよ。俺は自分から望んでそうしたんだ」
無意識のうちに猛は拳を握り締めていた。言葉にできない怒りの感情が渦巻き、恭弥をそれほどまで追い込んだ大神斎に対する憎しみがこみあげてくる。そして、自分がいた廊下と障子一枚隔てた部屋で恭弥が凌辱を受けていたのだと考えると、己の無力さが悔しくてたまらなくなった。恭弥はそうなることをあらかじめ予想しており、その通りになったからこそ、今ここに猛はいる。
「恭弥にとって俺は仮の主だ。本当の主じゃない。だが猛。お前は恭弥に主として求められている。仮ではない本物の主になれるんだ。俺は恭弥のために、お前を本物のSとして育て上げたい」
「……教えてください。俺にできることを、全部」
猛は絞り出すような声で言う。恭弥がなぜMになったのか、猛に何を求めているのかはわかった。だが、今はそれに応える術がない。猛は知る必要があった。恭弥と自分自身のために。
「途中でやめるなよ。期待させてから放り出すのが一番残酷だからな」
「はい」
「いい返事だ。よし、とりあえず週二回うちに来い。基礎から仕込んでやるよ」
ともだちにシェアしよう!

