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第三話
帰りの車中は深い沈黙に包まれていた。恭弥は後部座席でぼんやりと窓の外を眺め、猛はルームミラーを使って時折その様子をうかがう。恭弥が何を考えているのか、あるいは何も考えていないのかは分からないが、その表情は柔らかく、どこか安堵しているように見えた。
本家で恭弥の身に何が起こったのかは想像の範疇を出ない。だが、自らを痛めつけなければならないほどの何かが起こったことは確かであり、今は精神的な安定を取り戻すことができたのだということは分かる。そして、この安定は非常に危ういバランスの下で成り立っているのだということも。
体に与えることができる痛みの量や責めには限界がある。首を絞めることはできても首の骨を折ることはできないし、鞭で打つことはできても鞭で背骨を折ることはできない。なぜなら、それは死を招く可能性があるからだ。だが、恭弥が抱える苦しみが限界を超えるほどの痛みでしか取り払えないほどになってしまったらどうすればよいのだろう。それはできないと答えた時、恭弥は全てのよりどころを失ってしまうことにならないだろうか。
「——る。猛」
後部座席から声をかけられハッとする。考え込んでしまったせいか、曲がるはずの交差点を素通りしてしまった。
「すみません、ボス」
「かまわんさ、次で曲がってくれ」
猛は気を取り直して運転に集中する。幸い、大きく道をそれたわけではなくすぐに修正することができた。
「疲れたか?」
「いいえ。ただ、初めてのことばかりで……」
「……そうだな」
恭弥は小さく笑うと口を閉じ、再び窓の外に視線を向けた。猛もまた無言のまま前方に視線を向ける。車内には心地よい沈黙と恭弥がまとう香水の匂いがほのかに漂っていた。そういえば、英二のクラブでシャワーを浴びて着替えた後に香水をつけなおしていた気がする。
「今日はもう帰っていいぞ、俺も今日はもう休む」
自宅マンションの前につくと、恭弥はそういって車のドアに手をかける——猛はなぜか、その態度がひどくそっけなく寂しいものに感じられた。
「待ってください、ボス」
「……どうした?」
「最後まで送っていきます。それが仕事ですから」
猛はそう言ってから、こんなことしか言えない自分が妙に情けない気持ちになる。仕事だからというのは決して間違いではないし、自分の務めを果たしたいという思いも嘘ではない。だが、それだけが理由ではないことも確かだった。
「好きにしろ」
恭弥はドアから手を放し背もたれに体を預ける。猛はゆっくりとガレージに車を入れ、エンジンを切ってミラー越しに恭弥の顔を見た。静かに目を閉じた彼はかすかに微笑んでいるように見える。どうやら猛の申し出に気を悪くした様子はないようだ。
「どうぞ」
「ああ」
後部座席のドアを開けて声を掛けると、恭弥は少し気だるげに答えてから車を降りる。
「……狩野さんから、週二回来るようにと言われました」
上階に向かう直通エレベーターの中で猛は言った。二人の間に流れる奇妙な沈黙に耐えかねたのだ。
「曜日と時間は指定されたか?」
「いえ、時間と曜日はボスのスケジュールに合わせて決めろとのことでした」
「そうか。では決まり次第狩野に連絡しておく。決まったらお前にも教えてやろう」
「ありがとうございます」
エレベーターが止まりドアが開く。会話が途切れ、廊下を歩く二人の間に再び沈黙が流れた。
「猛」
「はい」
ドアの前で恭弥が呟く。わずかに吐息が混ざった熱っぽい声に、猛は少し緊張した。
「セーフワードだ。俺がお前をこう呼んだら普段通りの関係に戻る。いいな?」
セーフワード。自らの限界を感じた時、あるいはどうしても受け入れられない要求を突きつけられた時、Mがそれを示すために使う言葉。Sに全てを委ね、時に命すら預けることもあるMを守る最後の砦だ。
「わかりました」
逆を言えば、恭弥が猛を「猛」と呼ばないうちは、いかなる拒否の言葉も無視してよいということでもある。むしろ、SとMであるうちは涙を流して許しを請われても受け入れない姿勢が必要なこともあり、それを見極めるための取り決めなのだ。
「よし。今日はもういい。また明日、いつもの時間に来てくれ」
「はい」
そっけない言葉とは裏腹に、熱を帯びた口調で恭弥は言う。言葉に従うべきか、その口調に込められた感情に添うべきか迷いながらも、猛は短く返事をした。恭弥の声に熱がこもっているように感じるのは、猛が持つ「もっとそばにいたい」という願望がみせる幻想かもしれないと考えたからだ。
猛は静かに一礼すると、恭弥に背を向けて歩き始める。しばしの間、背中に視線が注がれている気配があったが、エレベーターに乗り込んで振り返った時にはもう誰もいなくなっていた。
階数表示のパネルを見上げながら息をつく。先程からずっと胸が苦しい。恭弥の声を聞くたび、その視線が向けられるたび、体の中が熱く燃えるような感覚になる。側にいたくてたまらない。仕事を忘れ、強く抱きしめたいような衝動に駆られる。だが、もしそうしたら恭弥はどう感じるだろうか。その軽率な行動は彼を傷つけてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたい。
「クソッ……」
これまで、猛は自分自身がわからないと感じたことがなかった。そもそも、恭弥と出会う前の猛の世界は組織から与えられた殺風景な部屋とジム、地下闘技場くらいしか存在しないというシンプルなものだったし、いつ誰が死ぬかわからない世界では人と親密になることも感情豊かに生きることもできなかった。過剰に喜ばず、怒らず、悲しみもせず、今取るべき行動を淡々とこなすことが苦しみなく生きる最善の道だったのだ。
だが、恭弥の元で暮らすようになってから世界は一変した。いくつかの制約はあったが猛には多くの自由が与えられた。自由に移動し、食べたいものを食べ、好きな服を着ることができる。好みと言えるほどはっきりしたものがないため、恭弥が選び与えるものをそのまま受け取っているが、それもまた猛自身の自由意志によるものだ。
そして、それまでに一度も持つことがなかった人間関係——組織のための「駒」ではなく、意志を持つ一人の人間として信頼しあい言葉を交わすという、ある意味ありふれた人間関係は平坦だった猛の感情を揺さぶり、心の在り方までをも変え始めている。あらゆることが複雑で、そのほとんどが未経験という状態に置かれ、猛は自分のことがわからなくなってしまった。
猛は恐れていた。恭弥を傷つけてしまうこと、恭弥に見限られてしまうこと、恭弥がいなくなってしまうこと、その全てが恐ろしかった。これまでに一度も感じたことのない恐れだ。この恐れと衝動は一体何なのか猛にはまったく理解ができなかった。
自身の感情が仕事に支障を及ぼさないよう己を律する必要がある。そう考えていたとき、胸ポケットの中でスマートフォンが小さく唸った。
『明後日の夜、ソドム』
恭弥からのメッセージに了解を示すスタンプを送ると、猛は小さく安堵の息を漏らす。いつも通りの素っ気ないやり取りが、激しい感情の渦から猛を救い出してくれたような気がしたからだ。
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