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エピローグ

 気が付くと真っ白な空間に立っていた。上を見ても下を見ても果てしなく白い世界。光も無ければ影も無く、空気はぬるま湯のように温かい。ここはどこだろう。俺は一体誰だ。いや、そもそも名前なんてあったのだろうか。  行く当ても目的もなくゆっくりと歩きだす。何かとても大切なことを忘れているような気がしたが、それが一体何なのか思い出すことができない。ただ行かねばならない事だけはわかっていた。行かなくては。行かなくては——どこへ? 『こっちだよ』  声が聞こえた。どこかで聞いたことがある声。誰だ。わからない。 『こっちだよ』  声がする方に歩いていく。白い空間を延々と。一体どのくらい歩いたのかわからない。後ろを振り返っても見えるのは白い空間のみ。どこから来たのかももうわからない。 『おいで』  声が近くなった気がした。さらに進む。周囲がほんのり明るくなってきた。視界のずっと先に空と大地を分けるようなまばゆい光があふれている。朝が来たのだろうか。いや、ここに朝などあるのだろうか。 『待ってるよ』  光に向かってさらに進む。白い影に塗りつぶされていた世界は明るさを増すごとに少しずつ立体感を増していく。白い大地は果てしない雪原に、白い空は雲に覆われた空に。だが、素足だというのに冷たさを感じない。否、大地を踏んでいるという感覚さえない。 『早く』  声がはっきりと聞こえた。理由はわからないが無性に走りたくなり雪原を駆け抜ける。蹴り上げた雪が舞い、光を受けてキラキラと輝く。風が起こり頬が冷え、冷たい空気が肺を満たし吐いた息が白い蒸気になった。 『もっと早く』  光に向かってさらに走る。雪が解けて水になり、足が濡れて痛い。鼓動は高鳴り、体の中に火がともった。  目の前に突然巨大な影が現れ、慌てて足を止める。心臓は早鐘を打ち呼吸は荒く体は熱い。足はじんじんと痺れ頬は切れたように痛む。背中には冷たい汗が流れていた。目を細めて影を見上げる——それは巨大な木だった。緑の細い葉がびっしりと生えたブラシのような枝が風に揺れている。  木の下に誰かがいた。深い影に覆われて顔が見えない。 「誰だ」  影に問いかける。何も答えない。 「誰なんだ」  もう一度問いかける。影は答える代わりにゆっくりと手を差し伸べた。白く細い腕と長い指。掴まなければ。そう思うが早いか、手を伸ばし白い手首をつかむ——その手首には薄っすらと縄の痕が——。  目を開けると見知らぬ天井が見えた。ぼやける視界の中、冷たい風が吹き頬を撫でる。どこかから人の声が聞こえた。 『指定暴力団、剋神会の内部抗争は激化し、周囲に波紋を広げています』  そこから先は聞き取れなかったが、声はしばらく続き、やがてピアノの音色に変わる。知らない曲だが繊細で語りかけるような旋律が美しい。  わずかに首を巡らせ、ようやく像を結び始めた目で周囲を見渡す——微かに開いた窓、白いカーテン、ベッドの上に体を伏せて眠る恭弥。  一体どれほどの時間が経ったのだろう。髪は乱れ顔は青白く、ずいぶんとやつれてしまっている。睫毛の長い目の下には薄っすらと黒いクマが浮かび、唇は乾いていた。  猛は体を起こそうとしたが、石になったかのように動かない。右腕も痺れているが左腕は動いた。鉛のように重い腕をゆっくりと動かし、恭弥の髪にそっと触れる。どうか夢ではありませんように。触れた瞬間消えてしまいませんように。そう願いながら。 「ん……」  恭弥は微かに唸ってからうっすらと目を開ける。わずかにぼんやりとした目で猛の顔を見つめたあと再び目を閉じ、声を立てずにすすり泣いた。何度も見た夢だ。目を覚ませばいつもと変わらない現実がそこにある。願望が作り出した甘くて残酷な夢だ。夢なら覚めないで欲しい。そう願いながら。 「夢じゃない」  手の中に恭弥のぬくもりがある。 「ああ……」  恭弥はゆっくりと目を開けて猛を見つめ、静かに微笑んだ。 「夢じゃないんだな。猛」  恭弥は猛の手を愛おしむように頬に当てる。温かい涙が猛の指を濡らし幸福感がじわりと広がる。 「猛……猛……。ありがとう、戻ってきてくれて。俺のもとへ戻ってきてくれて……」  とめどなく涙があふれる。猛が帰ってきた。この世で一番大切な人が。生涯を捧げると誓った人が。 「約束したじゃないか」  猛は片手で恭弥を抱き寄せる。胸の上に乗った恭弥の体は驚くほど軽く、まるで何も乗っていないかのようだった。恭弥は猛の胸に耳を当てて心音を聞く。猛が眠っている間、毎日何度も聴いていた。一人で遠くに行ってしまわないかと恐れながら。 「ああ、猛」  恭弥は猛の首に腕を回しそっとキスをする。唇と唇が触れ合うだけの優しいキスは、まるで婚姻の誓いのようだった。猛は静かに涙を流す。恭弥の愛の深さと——。 「必ず、俺を殺してくれ」  その業の深さに。

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