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第十一話

「はい。お願いします。では、また後で」  猛は通話を終えて恭弥の方に目をやる。息を吹き返しはしたものの、恭弥はまだ放心状態でぼんやりと壁にもたれかかっていた。 「恭弥。聞えるか?」 「……」 「しばらくしたら狩野さんが迎えに来る。どこか遠くで暮らそう。ずっと一緒だ。俺がずっと恭弥のそばにいる」 「……」 「盃を交わしただろう? 未来永劫、この絆を絶やすことなく共に歩み続ける。そう誓っただろ? それにお前は俺に言ったはずだ。身も心も俺のもの、生涯を俺に捧げると」 「……」 「恭弥。俺はお前の望み通り、お前の主になる。これからは大神斎の血ではなく俺の縄に縛られて生きろ。いいな?」 「……」  恭弥は何も答えなかった。猛は恭弥を抱きしめて頬に口づけをすると、当面の生活に必要なものを準備するため恭弥の寝室に向かう。何を持って出ればよいかわからないが、パスポートや通帳の類は持って行った方がいいだろう。それに着替えも必要だ。シャツを破いてしまったから。  恭弥の寝室は驚くほど物がなく、簡素で整然としていた。まるで、いつ死んでも問題がないよう準備しているのかと思うほどに。いや、実際のところそうだったのかもしれない。恭弥の精神は常にギリギリの状態だった。おそらく、父親に犯された日から。  金融関係の書類やパスポートなどの身分証は本棚に並んだ本の中から見つかった。「こゝろ」というタイトルのハードカバー本で、中が四角くくりぬかれている。猛がそれをすぐに見つけることができたのは、その本だけが異様に古く、それでいて手入れされているように見えたからだ。 「ん……?」  本棚の隅に革製のカバーがついたノートが置かれている。何か大切なものかもしれないと思って手に取り、パラパラとページをめくり猛は後悔した。それは恭弥の日記だった。 「……」  申し訳ないと思いながらも好奇心でページをめくる。日記といっても毎日つけているわけではなく、数日間続いている日があれば数週間開いていることもあるという具合で、内容も日記というよりはメモ書きのようなものがほとんどだった。その日の出来事、感想が淡々と綴られているのを眺めながらページをめくる——あるページで猛は手を止めた。 『タケル。戦い方が美しい』  日付は三年前だ。さらにページを進めていく。 『タケル。グレート・キッド戦。左腕を少し痛めたか』 『左側が苦手らしい。過剰な反応。タケル、少し落ち着け』 『冷静な対応。苦手意識は克服できた模様。危なげのない勝利。おめでとう、タケル』 『髪型が変わった。タケルの顔立ちには今の方があっている』 『タケルがこちらを見た。俺に気づいたか。俺はいつも見ている』 『熱があるのだろうか。つらそうだ。匿名で差し入れをする』 『体調はよさそうだ。安心。タケルを見ると安心する』  猛の名前が出てくる頻度は次第に増え、その内容は少しずつ猛の身を案じる内容へと変化する。試合中の怪我を心配し、衣食住に困っていないかに思いを馳せ、匿名で差し入れをしている様子が書かれていた。思い起こせば、確かに何度か衣類や寝具などを受け取った記憶がある。  猛は日記を閉じ、本棚の元の位置にそっとしまった。猛が恭弥の存在に気づいたのは最後の試合をしたあの日のこと、リングに向かう花道で目があったあの時だ。だが恭弥は、少なくとも三年前から猛のことをずっと見ていた。特別な想いで——。  スマートフォンの通知音が鳴り、猛はハッと我に返る。英二からの連絡。あと十分ほどで到着するという知らせだった。こうしてはいられない。猛は急いで準備を済ませると、恭弥の着替えを持ってリビングに戻る。 「恭弥、脱がせるぞ」 「……」  恭弥の返事はない。猛は恭弥のシャツを脱がせ、新しいシャツを着せる。ネクタイを閉めるかどうか悩んだが、自分のネクタイもいまだに上手く結べないというのに人のネクタイなど上手く結べるはずがないと諦めた。 「行こう。立てるか?」  恭弥は無言のままだったが、微かに首を縦に振る。本当にわずかなことではあったが、恭弥が反応を示してくれたことが嬉しかった。肩を貸して恭弥を立ち上がらせ、二人でエレベーターに乗る。地下駐車場にはもう英二がついているはずだ。  エレベーターが地下に到着しドアが開く。正面に一台のバンが止まり、その外で英二が待機しているのが見える。猛は周囲を見回し、異常がないことを確認してからエレベーターを降りた。恭弥の肩を抱いて歩き、英二のもとへと急ぐ——その時。  エンジン音をとどろかせながら二台のミニバンが駐車場に突っ込んできた。けたたましいブレーキ音を立てて急旋回しながら停車したかと思うと、数名の男たちが一斉に飛び降りる。 「おらぁぁぁぁぁ!!」  先頭にいるのは武藤だった。腰だめにドスを構えて突っ込んでくる。猛は恭弥を英二の方に向かって突き飛ばし、武藤の前に身を躍らせる——鈍い衝撃音が地下空間に響く。武藤が構えたドスは根元まで猛の腹部に突き刺さっていた。 「……猛ーーーーーーーーーー!!!!」  それまで呆然としていた恭弥が絶叫する。突然の出来事に凍り付いていた英二が我に返り、猛のもとへ駆けつけようとする恭弥に飛びついた。 「うぉぉぉぉぉぉ!!」  猛は大地を震わせるような雄叫びを上げ、ドスを握った武藤の手首をつかむとその顔面に強烈な頭突きを食らわす。二度三度と首を振り下ろすうち、猛の額が割れて血が滴ったが痛みなど感じない。鼻が折れ、眉間に強い衝撃を受けた武藤が崩れ落ちると、猛はその後ろにいた男たちに向かって突っ込んでいく。黒いパーカーを着た若い男たち——おそらくブラック・ダリアのメンバーだろう——は、金属バットやゴルフクラブといった武器を持っていたが、猛の鬼気に圧されその場に凍り付いていた。  拳を振り上げ、先頭の男の顎を打ち抜く。骨と骨がぶつかり合い、関節が外れる音がした。男が落としたバットを拾い、次の男の肩口に振り下ろす。鈍い音と男の絶叫が響く。  黒パーカーの男の一人がゴルフクラブを猛の背中に振り下ろした。背中に衝撃が走る。だが、痛みは感じない。猛は男を睨みつけるとゴルフクラブを掴んで振り回す。グリップを強く握ったままの男は倒れ、駐車場に止まっていた高級車に体を激しくぶつけた。車の盗難防止アラームがけたたましく鳴り響く。 「猛! 猛! 猛ー!!」 「ダメだ恭弥! おい! 降りて手伝え!」  猛と恭弥の状況を聞いて人手があった方が良いと判断していたのだろう、英二のバンの中から男が二人降りてきた。二人は戸惑いながら恭弥の体を抑え、バンの中に連れ込もうとする。 「離せ! 離せ! 猛! 猛!!」  猛は恭弥の声を聴きながら再びバットを振りかざし、再び雄叫びを上げた。黒パーカーの男たちが後ずさりする。多少喧嘩慣れしている者もいるようだったが所詮彼らは素人だ。恭弥が逃げる時間を稼ぐくらいはできる。猛は一人の膝を打ち砕き、もう一人の脛を打ち砕いた。 「よし! 出せ!」  暴れる恭弥をバンの中に押し込んだ英二が叫ぶ。アクセルを吹かす音とタイヤが床をこする音が聞こえた。 「おい! 逃がすな!」  誰かが叫ぶ。ミニバンが走り出そうとしたのを見て猛は猛然と走り出し、渾身の力を込めてその鼻先にタックルをかます。車体が大きく揺れハンドルを取られたミニバンは駐車場の柱に追突して動きを止めた。ぶつけた右肩に鋭い痛みが走り、ドスが刺さったままの腹部から大量の血があふれる。視界がぼやけ意識にはかすみがかかったが、左手に持ったバットを振り上げてもう一台のミニバンに躍りかかった。 「ああああぁぁぁぁぁ!!」  渾身の力を込めてフロントガラスを滅多打ちにする。もはや猛に意識はなく、あるのはただ行かせまいとする意志だけだった。もう誰にも傷つけさせない。恭弥を守り通す。たとえ命を懸けても——。  後頭部に衝撃が走った。視界が大きく揺らぎ、恐怖に顔をひきつらせて目を大きく見開いた男たちの顔が見えた。次いで天井と柱が回転しながら大きく傾き、コンクリートとアスファルトが敷かれた床が見える。体が墜落し、鉛のように沈む。視界が暗くなり意識が消えゆく中、猛は試合終了のゴングの音を聞いたような気がした。

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