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第十話
どのくらい眠っていたのだろう。気がつくと窓の外はすでに明るく、遠くで車がクラクションを鳴らしているのが聞こえる。猛の腕の中には一糸まとわぬ姿のままの恭弥がまだ安らかな寝息を立てていた。
すっきりとした鼻筋、長い睫毛、形の良い唇。一つ一つが美しく、その全てが愛しい。この安らかな表情を守ることができれば——そう願いながら恭弥の髪をそっと撫でる。
「ん……」
恭弥の瞼がピクリと動き、ゆっくりと開いた。焦点の定まらない目で猛の顔を捉え、静かに、幸福そうに微笑む。
「……キスしてくれ」
「また冗談?」
「本気だ。今も、あの時も」
猛は恭弥の唇に軽くキスをした。恭弥はクスクスと声を立てて笑う。
「俺もお前もベトベトだ。シャワーに行こう」
二人はベッドから抜け出し一緒にシャワーを浴びる。恭弥は猛の体を丁寧に洗い、猛は恭弥の体を洗った。低めの温度の湯を浴びながら何度も口づけを交わし、互いに愛を確かめ合う。気が付くと一時間近くが経っていた。
いつまでもこうしていたい——二人の思いは一緒だったがそうは言っていられない。剋神会には傘下も含めると数百人の構成員がいる。その中には家庭を持つ者も少なくない。望まぬ道ではあるが恭弥は彼らを養う義務があった。
恭弥が大神斎や大神光輝のような「武闘派」の道を選ばなかったのは、警察の取り締まりを恐れたからでも父親に対する反発心からでもない。ヤクザという道を選んだ以上、暴力や違法行為などに手を染めるのは必定だが、それらを減らして可能な限りクリーンな方法で組織を運営したいと考えたからだ。ヤクザである以上社会に誇れるということはないだろうが、暴力や不法行為から遠ざかれば遠ざかるほど家族を危険に晒す可能性は低くなる。恭弥は構成員たちの家族——とりわけ、子供たちを守りたかったのだ。
「猛はもう少しゆっくりするといい。俺は先に出る」
恭弥はオフィスで見る”ボス”の顔で言う。ここから先はSとMでも恋人でもない、上司と部下の関係だ。公私の区切りはきちんとつけねばならない。猛が礼を言うと、恭弥はわずかに苦笑しながらシャワールームを後にする。けじめが必要だと自覚していても、やはり妙な心地がするのだろう。
猛はシャワーを温水から冷水に切り替えた。刺すように冷たい水が肌に当たるたび微かな痛みが走り、甘い夢の中で揺蕩っていた意識が次第に現実へと引き戻されていく。鏡の中に写る顔は、いつも見慣れた”若頭の護衛”の顔だった。
「よし」
猛は気持ちを切り替えると水を止めてシャワールームを出る。着替えたらまず、昨日倉庫街で見たことを恭弥に伝えなければならない。
「……恭弥さん?」
バスタオルで髪を拭きながら寝室に戻った猛は、ベッドのそばで恭弥が呆然と立ち尽くしているのを見て驚く。急いで袖を通したのか、身に着けているバスローブは前が開いたままで、髪は濡れて水が滴っていた。
「どうしました?」
何か様子がおかしい。猛が不審がって声をかけると、恭弥は緩慢な動作で猛の方に振り向く。手にはスマートフォンが握られていた。
「親父が……」
鉛でも飲みこんだかのように重い口調でそういうと、突然胸元を抑えて激しい呼吸を繰り返す。スマートフォンを持った手が震えていた。
「大丈夫ですか? 組長がどうしたんです?」
猛は慌てて駆け寄り恭弥の背中を撫でる。過呼吸発作を起こしたのか、恭弥は青い顔をして肩を大きく揺らしながら猛の腕の中に崩れ落ちた。
「おっ、おやっ、親父、しっ、死んだ……」
大神斎の死は驚くほどあっけないものだった。自宅で心臓発作を起こして倒れたのが昨夜。恭弥が駆けつけた時には意識はあるものの自力で起き上がることができなくなっていた。
恭弥は付き添いを希望していたが斎によって拒絶されたばかりではなく、自身に万一の事があっても婚約を反故にされないよう、婚約者と”既成事実”を作るよう命じられた。彼女は大物政治家と姻戚関係にあり、二人の結婚は剋神会の今後のために欠かせないものだったからだ。
斎が意識を失ったのは恭弥が本家をあとにした直後。息を引き取ったのはその日の深夜だった。その間、恭弥には一度も連絡がなく、訃報がもたらされたのは死後半日近くが過ぎてからのことだった。
「そんな……」
本家ではすでに通夜の準備が進められていた。広間には巨大な祭壇がしつらえられ、遺体はすでに棺の中に安置されている。祭壇の前には本家筋や分家筋の幹部がすでに何人か並んでおり、喪主の席には光輝が、その隣には喪服姿の琴江が座っていた。恭弥は目の前の光景に愕然とし、よろよろとした足取りで斎が眠る棺に近づく。
「近づくんじゃないよ!」
琴江が金切り声をあげた。
「これは一体どういうことですか? なぜ俺に何の相談もなく」
「お黙り! アンタ、まさか自分の立場を忘れちゃいないだろうね?」
自分の立場——そういわれて恭弥はこぶしを強く握る。剋神会若頭。大神斎が指名した次期組長。順当に考えれば喪主を務めるべきなのは恭弥だ。だが、斎は指名したものの正式な襲名披露などは行っていなかった。つまり、今となっては斎から与えられた肩書などもはや”そんなもの”でしかない。恭弥はもう若頭でも次期組長でもなく、ただの妾腹の息子だった。
「本当ならここに来る権利もないのを光輝がお情けで呼んでくれたんだ。それなのにまぁ、感謝の言葉もないどころか文句を言おうってんだから……さすが、薄汚い芸妓風情がひり出した子だけあるよ」
「……俺のことは何と言ってくれても構いません。でも、母のことは」
「フンッ! じゃあそれなりの礼儀ってもんを見せな!」
恭弥は静かにうつむいて奥歯を噛むと、ゆっくりとその場に正座し、光輝に向かって深々と一礼する。
「この度は……まことに……」
言葉に詰まりながら弔意を伝える声は微かに震えていた。畳に額を擦りつけるように頭を下げる恭弥をみて光輝が嫌らしい笑みを浮かべる。
「もしお許しがいただけるなら、お顔を拝見させて」
「ダメだ」
恭弥の言葉にかぶせるように光輝がきっぱりと言った。光輝派の幹部たちはそれを見て微かに笑ったが、中立派の幹部たちはこの非礼なふるまいに眉をしかめる。意外にも、光輝の隣に座った母親の方は悲しげに顔をゆがめて恭弥を見つめていた。
「ほら、もう用は済んだだろう? 香典を置いてさっさと帰れ。それとも何か? 親父にヤられていたように、俺にもヤられたいのか? ん?」
光輝はそういうと大きな声でゲラゲラと笑い、手元にあった酒瓶を傾けて恭弥の頭にかける。まだ通夜も始まっていないというのに、光輝はかなり酔っているようだった。
「バーカ、親父のお古になんか興味ねぇよ。ほら、さっさと出せよ。金だよ」
あまりにもひどい侮辱に猛は怒りが爆発しそうになった。だが、恭弥は何も言わずじっと耐えている。恭弥のためにもここは耐えなければならない。
「急なことで、準備が間に合わずお恥ずかしい限りですが」
恭弥はそういうと胸元から分厚い財布を取り出し、それをそのまま光輝の前に差し出す。光輝はへらへらと笑うと中から札だけを取り出し、財布を恭弥の前に投げ捨てた。
「そいつはくれてやる。さっさと出ていけ」
「ありがとうございます。では、失礼いたします」
恭弥はそういうと財布を拾って胸元に納めると、静かに立ち上がって祭壇に一礼してから背を向ける。
「行こう」
猛は無言で頷くと、誰とも目を合わせないよう下を向いたまま恭弥の後を追った。今誰かと目が合うと、衝動的に殴りかかってしまいそうだ。
恭弥の後ろには髪から滴り落ちた酒がポツリポツリと落ちている。まるで涙のようだ。そう思った瞬間、猛は我に返りハンカチを取り出す。
「これを」
「ああ。ありがとう」
恭弥は悲痛な笑顔で猛のハンカチを受け取るとぎこちない動きで髪を拭いた。髪だけではなく肩口までじっとりと濡れ、ハンカチ一枚だけではとても足りない。だが恭弥は、水分を吸い取る力のなくなったハンカチで髪を拭い続ける。
「猛」
「はい」
「俺は一体何をしているんだろう。一体何のために……」
恭弥の顔は笑っているように見えたが、声は小さく震えていた。
「ボ」
「まだこんなところにいたのかい!」
恭弥の言葉に猛が答えようとしたその時、誰もいないはずの裏庭に琴江の声が響く——酒に酔った光輝では喪主の役目など果たせないだろうということはわかりきっているのに、なぜ彼女はこんな場所にいるのだろうと猛は疑問を抱いた。わざわざ追いかけてきたのだろうか。一体何のために。
琴江は威圧的な表情で猛と恭弥に早足で迫ってきた。まさか、これ以上恭弥を傷つけようと言うつもりなのか? 猛は恭弥をかばうように立ちふさがる。
「どきな! ワン公!」
「……」
琴江はギラリとした目で猛を睨みつけた。しかし、猛は琴江をじっと見つめるだけで微動だにしない。視線同士が激しくぶつかり合ったかと思うと、琴江が手をあげ猛の頬を強く打つ。平手打ちの乾いた音が大きく響いた。
「……フンッ」
頬を打たれても表情一つ変えない猛を見て琴江は小さく鼻で笑う。その表情は腹を立てているようには見えず、むしろどこか楽しげに見えた。
「こいつはとんでもないバカ犬だね。何もかも無くした飼い主に忠義を尽くそうってんだからさ。まぁ、そんなことはどうでもいい。ほら、受け取んな」
琴江は懐から分厚い封筒を取り出すと猛の手に無理やり押し付ける。
「手切れ金だよ! こいつを持ってとっとと失せな! 二度とその面ァ見せんじゃないよ!」
吐き捨てるようにそう言うと、琴江は背を向けて足早に歩き始めた。まるで、一刻も早くその場を立ち去りたいとでもいうように。
「母さん!」
それまで無言だった恭弥が琴江の背中に呼びかける。琴江は振り替えずに立ち止まった。
「……いままで、お世話になりました」
「黙って消えな。せいぜい長生きするこった」
恭弥の言葉に小さく毒づき、琴江は再び歩き始める。恭弥はその背中に向かって深々と頭を下げ、やがてゆっくり顔をあげると言った。
「行こう。もうここに用はない」
恭弥は自らドアを開け、車の助手席に座る。猛はなにかが引っかかったような気分であったが、その正体を掴むことができないまま運転席に乗り込みハンドルを握った。
「どこに向かいますか?」
「ヘルシンキ」
「えっ?」
「フィンランド。森と湖の国」
本気なのか冗談なのかわからない。
「なんでもない。自宅に向かってくれ」
「わかりました」
猛は車を発進させ自宅マンションへと向かう。車内には重い空気がただよっていたが、猛は今話しておくべきだろうと考え口を開いた。
「昨日、赤葉区の倉庫街でブラック・ダリアの連中と光輝さんを見かけました」
「兄貴が?」
「はい。島田組の若いのを拉致してました」
「そうか」
恭弥はそう答えるとぼんやりと外の景色を眺めたまま黙り込んだ。その表情はどこか途方に暮れているように見える。
「それと……これは偶然かもしれないんですが、倉庫街を出るとき、武藤さんの車とすれ違いました」
「……そうか、武藤が」
恭弥は自嘲気味に笑った。
「つくづく人望がないな。俺は」
「どういうことです?」
「おそらく、兄貴はブラック・ダリアの連中とこれまでに何度も会っているはずだ。もしかすると、チャイニーズマフィアともコンタクトしていたかもしれん。だが、俺のところにはそんな情報は入っていない。どういうことかわかるか?」
恭弥は光輝の動向を調査し、異変があれば報告するよう武藤に命じていた。だがそれは果たされておらず、それどころか虚偽の情報を渡されていた可能性が高い。つまり、恭弥は武藤に裏切られていたのだ。
「もう終わりだ」
疲れたようにそういうと恭弥は目を閉じる。猛はかける言葉を見つけることができず、無言で車を走らせ続けた。
「つきました。さぁ、帰りましょう」
自宅マンションに到着し、目を閉じたままの恭弥に声をかける。恭弥は小さく返事をしただけで立ち上がろうとしなかった。猛は車を降り、助手席のドアを開けて恭弥を立ち上がらせる。肩を貸す必要はなかったが、腕を取って導いてやらないと歩こうとすらしない。猛は恭弥を歩かせ、ともにエレベーターに乗る。
エレベーターでも恭弥は始終無言だった。壁に身を預け、どこか虚ろな目で階数表示板を見つめている。表情は暗いというより、能面のように無表情だった。
「そこに座ってください。今靴を脱がせますから」
自宅のドアを開け、玄関のたたきに恭弥を座らせる。恭弥の足元にかがんで靴ひもを解こうとしたとき、恭弥が微かな声で「猛」と言った。猛は顔をあげる——恭弥は泣き出しそうな顔で笑っていた。
「今すぐ俺を殺してくれ。頼む」
「……!」
「もう、お前しかいないんだ。俺の願いを聞いてくれるのは、もう……」
「恭弥さん」
「俺はただ、親父に愛されたかった。だから俺はヤクザになった。そうすればきっと親父は俺を愛してくれると思ったから。親父が俺を抱くのも殴るのも、俺を愛しているからだと、そう思いたかった。本当はヤクザになんてなりたくなかったのに、親父に愛されていると思いたかったから刺青を背負ったんだ。周囲からどれだけバカにされようと虐げられようと、親父のために人生を捧げ、痛みと苦しみに耐え続けてきた。なのに親父は……!」
恭弥は大粒の涙をこぼし、握った拳で壁を強く殴る。鈍い音が響いた。
「なのに親父は何も言わずに逝った! 俺を愛することも認めることもなく! ただ道具のように使っただけで! 何も言わずに勝手に!」
何度も何度も壁を殴る。猛は慌てて恭弥の手を握り、それをやめさせる。手には傷がつき血がにじんでいた。
「無意味だ! 俺の人生は! 俺の命は! 何もかも無意味だったんだ! なぜだ? なぜ親父は……!」
恭弥は大きな声をあげて泣き叫ぶ。そこでようやく猛は、英二が言った「仮の主」という言葉の真意を理解した。あれは、恭弥には特定の主がいないという意味ではなく、大神斎が恭弥の本当の主であるという意味だったのだ。
「親父……親父……」
嗚咽を漏らしながら繰り返し斎を求める恭弥。その痛ましい姿に猛は——。
「来い」
激怒していた。
「ぐっ……!」
突然胸ぐらを掴まれ、恭弥は小さな呻きをあげた。猛は靴も脱がず恭弥を半ば引きずりながら廊下を奥へと進むと、リビングの壁に恭弥を叩きつけるように投げ捨てる。壁にぶつかった反動でキャビネットやスツールにぶつかり、コレクションボードにもたれかかって押し倒す。ガラスが割れ、床に倒れた恭弥の周りに散乱した。
猛は恭弥に馬乗りになりシャツの襟もとを掴んで力任せに引き裂く。糸が千切れる鈍い音。ネクタイが解け、昨夜の情交のあとが残る胸元と白い頸があらわになった。
「あっ……がっ……!」
両手を使って首を絞める。首の骨を折ってしまうのではないかと思うほど強く。恭弥は声を詰まらせ小さな嗚咽をあげ、猛の手首を掴んだが抵抗はしなかった。まるで、その手を離さないでくれと懇願しているように。
「ふっ……ぐっ……!」
猛の視界は涙で歪んでいた。もはや誰に向けているのかもわからない怒りと無力感に苛まれ、自身が何をしたいのかすら判断がつかない。ただ、恭弥の願いを叶えたい、恭弥を救いたいという願いが手に力を込めさせていた。
張り裂けそうなほどの胸の痛みに耐えながら猛は恭弥の首を閉め続けた。やがて、恭弥の目から光が消え、手首をつかんでいた手から力が抜けた。
「恭……弥……?」
猛は恭弥の首から手を放す。返事はない。呼吸が止まっている。光のない目が猛を見つめていた。
「だめ……だ……だめだ! だめだ! だめだ!!!!!」
猛は半狂乱になって恭弥の頬を打つ。
「だめだ!!!! 恭弥!!!! 逝くな!!!! 俺は許可してない!!!! まだ逝っていいと言ってない!!!!」
涙がとめどなくあふれる。恭弥はぐったりとしたまま何も答えない。猛は恭弥の体を抱き起こし、口から息を吹き込む。神にすがる思いで、ただひたすら、必死に。恭弥が戻ることを、自分を置いて逝ってしまわないことを願って、何度も何度も。
「……!」
恭弥の体がびくりと動いた。もう一度息を吹き込む。
「ぐっ……げほッ! あぐッ! うげッ!」
発作のような咳と共に、恭弥は息を吹き返した。
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