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第3話

「……はい。わかりました」  誰もいなくなった玄関に、そう呟くように答える。好きだった人が、子供が生まれるからと言って帰っていく姿を見るのは、ほんの少しだけ辛かった。 「もう諦めたんだろ」  自分に言い聞かせるようにそう言う。遥さんへ挨拶をして、俺も帰ることにした。今は一人でいるのが辛い。早くハルと話がしたかった。 「う……っ」  遥さんは苦しそうに眉間に力を込めていた。あまりに苦しそうなので、俺はその髪をまた手で掬い上げた。そして、力が入っているところを指でするりとなぞっていく。 「あの、大丈夫ですか。お水飲みましょうよ。このままじゃ明日が辛いですよ」  途中で買っていたミネラルウォーターのペットボトルを差し出し、額にそっとそれを当てた。ボトルが彼の苦痛を和らげてくれるといいなと思い、少しずつ冷やしていく。 「……気持ちいい」  そう呟いた声に驚いていると、彼の目がうっすらと開くのがわかった。 「遥さん、大丈夫ですか?」  ぼんやりとした表情のままではあるものの、目は完全に開かれているようだ。状況を察したらしい彼は、思わず苦笑した。 「大丈夫です。ごめんなさい、私寝てしまったんでしょう? どうやってここまで……」 「私がおぶって来ました。あの、勝手だとは思ったんですけれど、ジャケットは脱がせてそこに掛けておきました。下はさすがに脱がすのはどうかと思ったので、やめておきましたけれど」 「あ、そ、そうですか。ありがとうございます」  彼はそういうと、顔を赤た。それを見ていると、なんだか俺も落ち着かなくなってしまう。もう帰ろうと思っていたけれど、彼が目を覚ましたのであれば、そのすぐ後にさようならを言うのは、何故か寂しい気がしていた。かと言って沈黙も辛い。何か話題になるものはないかと、辺りに視線を巡らせた。  その時、ふと気になるものを見つけた。それは、ベッドサイドにとても大切なもののように飾られていたものだった。そして、俺がても大切にしているものによく似ていた。 「あの、それ……」  チェストの上には、アクリルケースの中に入れられた万年筆が飾られていた。それは、首軸、胴軸、尻軸、その全てのカラーが異なる、ぱっと見では万年筆とはわかりづらい、カジュアルな色味のもの……。その全てが、俺のものと同じだった。 「あっ、あの、えっと……」  彼は慌てて起きあがろうとしたが、まだ酒の影響があるのかすぐに動きを止めてしまった。好奇心に負けてしまった俺は、そのケースに近づいて中身をしっかりと確認することにした。 「これ、私のものと全く同じカラーですよね。このカラーリングは、この世に一つしかないんだよって言われていたんですけれど……」  問いただそうとする俺から逃げるように、彼は布団の中に隠れてしまった。  その中でどんな顔をしてるんだろう。恥ずかしくて赤くなっているんだろうか。それとも、あれだけ隠したがっていた顔を知られたことで、青ざめているんだろうか。 ——どっちだとしても、見たい。  俺はそっと布団をめくった。  そこには、赤とも青ともどちらともつかないような顔色で、どうしたらいいのか分からないと訴える目がこちらを見ていた。 「……ハル、だよな?」  俺がそう問いかけると、脇坂遥さんは、ほんの少しの迷いを見せた後にこくりと頷いた。  二年間会いたくてたまらなかったハルが、今目の前にいる。まさかの出来事に、驚くよりも先に感動が押し寄せていた。 「えー、うわ、嘘だろう? あんなに会いたいって思ってた人が、まさかお客さんだったなんて……。あ、だから顔を見せてくれなかったのか? 顔を見せてしまったら、ゲームしづらくなるからって。え、あれ? ハルはいつから俺がタビーだって気が付いてたんだ? もしかして、二年間ずっと隠してた?」  そうだとしたら、それはとても恥ずかしい。  顔を知らなくても、俺はハルが大好きだった。何を話しても欲しい反応をくれるし、ちょっと揉めてもちゃんと真っ直ぐに謝り合うことが出来る。そういった心地いい関係を築けていたからだ。  でも、それは友達関係としては許されるだろうというラインであって、仕事の関係者、しかもお客様ともなれば、許されるものではないだろう。そう考えていると、今度は俺の顔が赤くなったり青くなったりしていた。  そんな俺の心情をわかってくれたのだろう。ハルはゆっくりと起き上がると、俺の顔を覗き込み、ゆっくりと被りを振った。そして、にこりと笑いかけてくれる。 「違うよ、俺も渕上様がタビーだって知らなかった。俺が知ったのは、昨日だ。お前がペンを落としたから……」  そう言って、万年筆が飾ってあるアクリルケースを指差した。その横顔は、うっすらと赤い。そして、そのまま押し黙ってしまった。 「ハル、どうした?」  放っておくわけにもいかずに声をかけると、その頬はさらに真っ赤に染まる。声がうるさかったのか、耳を塞がれてしまった。 「ああ、ダメだっ」 「え、なに、どうした?」  困惑の表情を浮かべながら、ハルは目に涙を溜めている。俺は何かハルの気に触ることをしたのだろうか。分からないから焦ってハルの名前を呼び続けていると、観念したように小さな声でそれを教えてくれた。 「俺、お前の声が大好きで……、聞いてるとたまらない気持ちになるんだ。胸がぎゅーって絞られるみたいで、辛くなる。その顔を見られたくなかったんだよ。お前が話すたびに真っ赤になるんだ。そんなの見られるなんて、恥ずかしいだろ?」  顔を両手で覆いながら、少し震えた声でハルはそう言った。少しだけ上がった体温が、その体から甘い香りを広げていく。それをすっと吸い込むと、俺の胸の奥もハルと同じようにぎゅーっと絞られるような痛みを感じた。 「なあ、それってさ」  俺はベッドに横になっているハルの後ろへと潜り込んだ。そして、その体を腕の中に閉じ込める。 「あっ、バカ! 何してんだよ」  しがみつくようにして温もりを感じていると、ハルの胸が、強烈な拍動を刻んでいるのが伝わってきた。それは、明らかに何かを期待している音だ。揺れ動く胸壁に驚く振りをして、手のひらをそっと尖っているところへ当ててみる。 「あ、ちょっと……」 「……ごめん、触りたい。俺ハルのことが好きだったんだ。だから、こんな状況で我慢なんて出来ない。だめ?」 「えっ? いや、嘘だろう? だって、ほとんど声でしか繋がってなかったのに、そんな……。それに、お前失恋したばっかりじゃなかったか?」  ハルはそうは言うものの、行動は全然拒否しようとはしていなくて、俺が滑らせている手に正直な反応をしてくれている。 「あ、待って……。待てよ、タビー。ちょっと……」  ハルは俺の声が好きだって言ったけれど、それは俺も同じだ。いつも耳あたりが柔らかくて穏やかで、でも口が悪いハルの声は不思議と心地いい。話すたびに俺の胸を高鳴らせていた。 「ハル、夢みたいだ。会いたかった、抱きしめたかった。課長のことで話を聴いてもらってから、だんだんその優しさに惹かれてったんだ。なあ、こっち向いてよ」  どんなに嫌なことがあっても、ハルがいつも全部聴いてくれた。俺もハルの話をたくさん聴いて来た。どんなことに傷ついて、どうやって乗り越えてきたのか。毎日のように長い時間を過ごして来て、いつの間にか、かけがえのない人だと思うようになっていた。  その相手が今、俺の腕の中にいる。俺が触れると、嬉しそうにその身を捩らせる。昂ってどうしようもなくて、振り返ったハルの唇を、俺は夢中になって吸った。 「んあ、ふ、ンっ」  舌を絡めても嫌がらない、それどころかその刺激に夢中になった顔をしている。それが目に飛び込んでくるだけで、疼いて仕方がない。 「なんて顔してんだ。これがあの秘書の遥さんだなんて……」  仰向けに寝かせて覆い被さると、ハルは蕩けた表情で俺の顔をじっと見つめていた。わずかに開いた唇から、とろりと唾液が垂れていく。それがとても扇情的で俺は震えた。激しく昂る気持ちをおさめようと、深く長く息を吐き出していく。 「あー、まずい。初めて顔を見せた時は、絶対に好印象を持ってもらおうと思ってたのに……。このままじゃ、確実に暴走してただの狼になるんだけど」  ハルの言う通りだと思っていたこともあった。声だけのつながりだったのに、こんなに好きになることがあるのかと、何度も自分に呆れた。でも、それが長く続くにつれて、これは奇跡の出会いなんだと思うようになっていった。  それがこうして触れ合う距離にいられるなんて、嬉しくて狂いそうだ。俺はどうしても、このチャンスを逃したくなかった。  だからこそいい印象を持って貰いたい、そしてもっと深い繋がりを持ちたい。それなのに、ハルの体から立ち上る香りが、目に映る色っぽい顔が、俺の理性を吹き飛ばしそうになっていた。 「三つお願いを聞いてくれるなら、狼になってもいいよ」 「え?」  一日早く気がついていた余裕からだろうか、ハルは俺よりもずっと落ち着いているように見えた。自分のネクタイを緩めながら俺に跨るように座り、その滑らかな布で俺の視界を奪っていく。 「する時は必ず真っ暗にすること、前は触らないこと、後ろからしか見ないこと。あ、ごめん、あともう一つあった。そのまま出来るような下着履いてるから、脱がさないこと。……守れそうか?」  真っ暗な中で、カーテンが弾かれる音が俺の耳をくすぐる。その後には灯りが消される音も続いた。 「それを守れば、抱いていいのか?」 「……いいよ」  ハルは俺の視界を奪っているネクタイに手をかけた。  するすると解けたその先に、綺麗な笑顔が迫っていた。その下には、白い肌と繊細そうな体が見えている。  本当にぼんやりとしか見えないけれど、そこにはハルがいる。俺はそれだけで、胸が詰まる思いがした。  ハルは俺の肌に手を滑らせた。手のひらを滑らせて、その形を確認していく。そして小さく「かっこいい」と呟いた。 「抱いていいよ、じゃないんだ。タビーに抱いて欲しい。俺もお前のことが好きなんだ」  その声は、何故かとても切なく響いた。すぐにでも幸せな気分に浸らせてあげたいと思わされてしまう。もうそれ以上悲しい声が出ないようにと、喰らいつくように口を塞いた。 「ハル、好きだ」 「んっ……。俺、もっ」  甘く鳴くその声に、俺は自分の名前を教えた。震える声で呼ばれた響きは、一生忘れることはないだろう。嬉しくて、俺は泣いてしまった。一生手に入らないだろうと思っていた人を手に入れたんだと思い、涙が溢れて止まらなかった。  それなのに、俺はまた一人になってしまった。  あの甘い夜を過ごした次の日から、脇坂遥は姿を消した。そして、ゲーマーのハルもいなくなってしまった。  突然手に入れた幸せは、失くすとその分絶望の色も濃くなってしまう。俺はただ打ちひしがれてしまい、何も手を付けられないようになってしまった。

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