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1. アルベルタは笑う

 幼さを気にして撫でつけたワインレッドの髪の下、片目にかけたモノクルの向こう側で鳶色の目が嬉しさを滲ませて微笑む。手を振ると、呼ばれたと思ったのだろう。息を弾ませて、子供はこちらへ近づいてきた。 「――――」  言葉を交わす。お互いに何を言っているのか音としては一切出てこないものの、その表情は柔らかい。こちらが言えば、その倍になって返事が返ってくる。  尻尾をふってこちらの行動に全力で答える子犬のようだ。そう考えて、胸の奥が暖かくなる。手を伸ばしてワインレッドを撫でてやると、子供は満面の笑みを浮かべて、もっとというように頭を押しつけてきた。  望み通りにしてやるとけらけらと笑う。柔らかい空気に自然と自身の口元が緩む。  それを見つけたのか、蕩けるように子供の鳶色が潤んでいく。そして、こちらの目を見つめて、頬を赤く染めて、子供は唇を動かした。 「――――――」  暗転。  ワインレッドの髪が床に広がった。短い髪をさらりと撫でて、濁ってしまった鳶色の目元に口づける。  渇いた唇の隙間にそっと液体を垂らして、これで最後だと気合を入れた。  おどろおどろしい図形の真ん中、青年の身体が横たえられる。なにかお香でも炊いているのか、甘い匂いが周囲に立ち込め色のついた靄が周囲を取り囲んでいるように感じた。  懐から取り出した大ぶりのナイフを握りしめる。筋の浮いた腕にそっと押し当てれば、質のいい刃先から赤が滲み出た。震える腕が子供の頭上へ差し出され、垂れた赤がぱたた、と子供の口へ落ちる。  ぬらぬらと光る紅のような血。強張ってしまった顔の筋肉が、自然と歪んだ三日月を浮かべた。 「――――」  そして、愛しい子供の名前を口にする。   ◆◆  しゃっ、とレールを滑る音が聞こえて、ヒューゴは目を覚ました。ぼんやりした頭で傍らを見やると、見慣れてしまった黒服の背中が揺れている。タッセルを取り付けてカーテンをまとめた背中がこちらを向く。 「ヒューゴ様、おはようございます」  優雅な仕草でお辞儀をしてみせたのは、白いタイに黒のジャケットと似たデザインのベスト、黒のパンツという執事のような服装の青年だった。  モノクロの姿の中に、唯一映えるのはモノクルをかけた鳶色の目とワインレッドの髪だろう。どこかの映画から抜け出して来たような恰好の人物。  しかし、陽光が照らす室内は、大量生産された緑のカーテンに、無難なデザインの本棚や小物、青年の向こうにあるのは物の少ない学習机だ。  それを目にして、ヒューゴは、あいかわらず違和感だらけだ、と一人嘆息する。 「…おはよう、アル。今日も、その恰好なんだね」 「ええ。私にとってこれらは正装ですので」  厭味のつもりで言った言葉は、微笑とともに粉砕された。すっと差し出された銀のお盆の上にある水入れを手にする。  コップの中はミネラルウォーターだろうか。少し甘い水が喉を通っていく。 「ところで、魘されていましたが、何か妙な夢でもご覧になっていたのですか」  眉を顰めて声をかけてくる執事。それに対して、ヒューゴは大丈夫だよ、と微笑んでみせた。しかし、と意気込む彼は、空になったコップを受け取ったものの少し不満そうだ。 「お話してくだされば、私にも解決策を講じることができるやもしれません」  今度、子守唄でも歌ってみましょうか。それとも、何らかのストレスだとすれば発散しなければなりませんね。旅行にでも行くか、と提案が細かくなってくる。  時間とお金のかかりそうなそれらに、放っておけば実行しそうな目の色。ヒューゴは上半身を起こした。 「それよりも、紅茶、もう持ってきてんだろ。もったいないから早く出して」  命令するような物言い。顰め面を浮かべるヒューゴと打って変わって、彼は夢と酷似した鳶色を細めて頷いた。   ◆  葛城(かつらぎ)ヒューゴが、執事の格好をした不思議な同居人アルベルタ・アディントンと暮らすことになったのは、一週間前の事だった。  朝早くに一本の電話があった。ベルの音にたたき起こされたヒューゴは、やけに静かな家の中に疑問を抱きつつ受話器を取る。 『もしもし。ヒューゴかしら。私よ、マリア・カツラギ』  その名乗り方ですぐに相手がわかった。祖母は、祖父と同じ苗字をいたく気に入っているらしく、家族だろうが友人だろうが会うと必ずフルネームを名乗る。  そこで嫌な予感がした。そうだよ、と返して続きを待つ。 『私ね、今、幸一さんと一緒に成田空港に来ているの』  その言葉を聞いてヒューゴは額に手を当てた。白い壁紙を貼った天井を見上げて、昨晩夫婦揃っていそいそと楽しそうに密談していたことを思い出す。  どうして、その時点で気付かなかったのか。 「で、どこに行くの」 『イギリス。ストーンヘンジを見たくなっちゃって』  昨晩の不思議発見の特集を思い出す。英国の遺跡を順に追って紹介していた。  確かに祖母も祖父も身を乗り出すほどテレビを見つめており、子供のような反応に呆れ半分感心半分で眺めたものだ。彼らなら、動く理由に十分だろう。しかし。 「普通、親がいない高校生を一人で残していくかよ」  現在、ヒューゴの家には両親がいない。別に亡くなったわけではなく、海外出張である。とはいえ、大人がいなくなった一軒家に高校生一人で一か月というのは大変危険かつ心配だ。  そのため、祖父母が泊りがけで面倒を見に来てくれていた。はずなのだが、三日経った今、電話口で空港にいるらしい彼らと話をしている。 『ええ、だからね。私たちの代わりに信頼できる大人を呼んでおいたから』  あっけらかんと続けられた台詞に被って、大きな英語の機械音が再生される。ロンドン行きがもうそろそろ出発するそうだ。ええ、そうね。支度しなくちゃ。  隣の祖父と話しているのか、祖母の声が遠ざかる。 「ごめんなさいね、ヒューゴ。移動しなくちゃいけないわ。後は、来た人に説明してもらってちょうだい」  もうすぐ着くから。言葉を挟む隙も与えずに、彼女はそこまで言い切る。  間髪入れずに通話がぶつっと音を立てて消えてしまった。慌てて掛け直すも、すでに電源を切ってしまったらしく無機質なアナウンスが流れるのみ。 「……来てくれる人の名前ぐらい教えてくれよ」  大雑把な祖母らしいといえばらしいが、慣れたとはいえ奔放すぎる行動に、ヒューゴは知らず知らず大きな溜息を吐いてしまった。  仕方なく受話器を戻そうとして、ぴんぽーんと甲高い音が響いた。自宅のインターフォンだろう、と見当をつけて玄関まで歩く。  擦りガラスの向こうに立つ影は、背が高く黒っぽい服を着た人物のようだ。宅配だろうか。見た事のない背格好に首を傾げて「お待たせしました」と一言声をかけて開く。 「ヒューゴ様!」  落ち着いた深みのある声が、感極まったようにヒューゴの名前を叫んで、ついで体に突撃してきた。  相手の勢いに吹き飛ばされる扉を目の端に捉えて、蹈鞴を踏む。なんとかその場にとどまると、ぶつかってきた体温に目を向けた。 「ああ、やっぱりヒューゴ様だ! お久しぶりです。アルベルタです」  そう言いながら顔を上げたのは、撫でつけたワイン色の髪にモノクルをかけて微笑む青年だった。  鳶色の目は猫のようなアーモンド型、絶妙な位置に配置された顔のパーツは、モデルをしていてもおかしくない。そんな美青年が、男に抱きついて歓喜の声を浴びせている。  その内容は、ヒューゴにはさっぱり聞き取れないほどの早口の英語だった。時折聞き取れるものもあるが、「あの時の事を」「生まれ変わり」「英国を飛び出すなんて」と脈絡がないように思われる。 「えっと、その。あのさ」 「はい、なんでしょうか。ヒューゴ様」とすぐに反応したのは、滑らかな日本語の声である。 「とりあえず、離れてほしいんですけど」  そう言えば、彼は素直に離れた。びしりと背筋を伸ばして足を揃え優雅な仕草でにっこりと微笑む。  そうすれば、その容姿のよさも相まって、どこかの映画から抜け出して来たような印象を与えた。そして、浮世離れした雰囲気を強めているのは、執事の服として印象づけられている燕尾服を着こんでいることだろう。 「……その、あなた、誰ですか」  こんな恰好した美形を見たら、一生忘れない。ヒューゴの言葉に、彼は一瞬目を見開いた。顔色が悪くなったような気がして、ヒューゴは声を掛けようとした。  しかし、それよりも先に彼は、居住まいを正して、淋しげで何かを堪えて諦めた笑みを浮かべる。それは、あまりにも綺麗な表情で、ついつい手を伸ばしそうになってしまった。 「取り乱してしまって申し訳ありません。私は、アルベルタ・アディントン。マリア様より仰せつかった従僕でございます」  そう言った彼の手には、一枚の封筒が握られていた。  手渡されたそれを開くと、確かに祖母の流れるようなローマ字のサインがあり、隣には祖父の達筆すぎて読めない名前まで付け加えられていた。  パソコンで作られた文書には、英語と日本語どちらも記載されており、格式ばった書き方でありながら内容は薄い。  彼、アルベルタ・アディントンは、マリア・カツラギの実家であるシワード家の使用人であり、今回、マリア・カツラギの要望によりヒューゴ・カツラギの元で働くことになった。  ついては、保護者兼従僕として働く人間であることを証明する。といった具合である。 「じゃあ、貴方がばあちゃんの言ってた人?」  ぽかんと口を開けたままのヒューゴを見て、青年、アルベルタは婉然と微笑んだ。   ◆  アルベルタは、祖母曰く、代わりの保護者である。しかし、保護者というにはどうも世話の仕方が丁寧過ぎた。  朝日を取り入れて優しく声を掛けて起こし、ヒューゴの私室まで朝食を運んで甲斐甲斐しく給仕をした上で、今日の予定を確認しヒューゴの動きに合わせて食事や洗濯を行う。  必要な物も食べたいものもいつのまにか用意され、外出もヒューゴに先回りをして荷造りをして傘などを準備される。  果ては、ヒューゴに敬語を使われると心苦しいからやめてくれないかと懇願される始末である。  それなら、とアルベルタの敬語もやめるように言おうとしたのだが、顔面蒼白でそんな恐れ多いと首を横に振られた。  母親、というよりは本当に使用人のような世話の仕方である。  ヒューゴ自身は、貴族として扱われたことがない。そもそも、貴族として名乗る事ができるのは祖母までであり、彼は一般人だ。突然、そんな風に世話をされればビックリするのは当然だろう。  すでに何度かやめてくれないかと打診しているが、彼はどこ吹く風だ。  確かに、頼りになる大人ではあるものの、保護者よりも甲斐甲斐しく世話を焼き、保護者よりも慈しみ、保護者ですら滅多に言わないような賞賛の言葉ばかり浴びせてくる。 「これじゃ、本当に執事じゃないか」 「ええ、ですから貴方の従僕です、と初めてお会いしたときに申し上げたではありませんか」  変わらない微笑を浮かべて傍らに立つアルベルタが答える。その手には、ティーポットが握られており、ヒューゴが欲しいと思ったタイミングで注がれていた。おかげで、美味しい紅茶を際限なく飲むという贅沢を味わっている。 「俺が来るって聞いてたのは、執事じゃなくて保護者なんだけどな」 「どちらも同じですよ。もちろん、私どもの方がヒューゴ様に安全安心快適に過ごせることをお約束できますが」  簡単に疑問を跳ね飛ばされて、そんなものかと納得してしまいそうになる。いやいや。高校生を主人扱いする成人男性の保護者がいてたまるか。 「そのさ、やっぱり執事っぽく世話するのやめない?」  ヒューゴは、もう何度口にしたのかわからない言葉を投げかける。  アルベルタは、確かに執事という職業についているようだが、ここは日本で一般の中流家庭である。ここでまで職務を全うしなくても構わないはずだ。  というよりも。ここ一週間でわかったのだが、彼は随分しつこい。有能ではあるものの世話好きのせいか、いつでもどこでも現れる。  先日は、コンビニで偶然トイレに入ったところペーパーが切れていた。どうするか、と思ったと同時に外から「今、お渡ししますね」の一言が聞こえてペーパーがドアの隙間から落とされてきたのだ。  そんなところまで見守られて世話をされるとは。  ここまでくれば、保護ではない。監視だ。それも、的確なお世話をされてしまうのだから、なんとも言えない気持ちになってしまう。  そのため、なんとかやめてもらえないか。もしくは、通常の保護者レベルにまで落としてもらえないかと考えているのである。 「執事っぽさというのが、どういった点を指すのか分りかねますので、お答えできかねます」  にっこり。それは爽やかな笑顔で拒否された。曖昧に濁すのは日本人の特権じゃなかったのだろうか。英国人であるはずのアルベルタの発言に顔が引きつる。  それを誤魔化そうと用意されたアップルティーを飲む。口の中に広がる酸味と甘みは、彼の好みにぴったりだ。美味しいものに、ほうと体のこわばりがとれていく。どこで好みを知ったのだろう。  この紅茶も含めて提供される食事は、すべてヒューゴの好みそのものだった。その上、肉親が手掛けるものよりもずっと美味しい。この味に慣れてしまったせいか、コンビニやファストフードがあまり口に出来なくなってしまったほどだ。  監視紛いの過保護を抜きにして、ヒューゴはこの食事を気に入っている。だからこそ、一週間も、まったくの見ず知らずの他人と暮らすことに抵抗なく過ごせたのだろう。  そう、気に入っている。気に入っているのだ。だから。彼の一歩下がったその態度が気にくわない。  ちらりと彼を見た瞬間、鳶色の目が微笑む。そして、飲み干したティーカップへ間髪入れず紅茶を注いだ。  前回よりも少なめにされたそれは、ヒューゴの気持を汲み取ったかのように望んでいた通りだ。  観察眼が凄まじいのか、忠誠心の賜物か。あまりのタイミングの良さに呆れが混じった溜息を吐いて、アルベルタを見やる。 「次はミルクになさいますか、ヒューゴ様」  毒気のない微笑を浮かべた彼は、とても満足そうだった。

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