2 / 4
2.アルベルタは哂う
馬車の中、鳶色の目をした少年が、こちらを見つめながら興奮したように話をしている。
美しいワインレッドがそのたびに揺れていた。以前見たときよりも成長したその姿に目を細める。
今では少年というよりも青年に近い年齢だ。すらりと伸びた手足が眩しい。白い手袋の下、見えなくても分かる、皺が増えたそこと随分違うものだと溜息を吐いた。
それに敏感に反応するのは、目の前の少年だ。鳶色の目を大きく開いて、眉を顰めて口を動かす。
紡がれる優しい言葉。耳に出来なくても理解できるそれに、手が自然と少年の頭を捉えた。ゆっくり撫でると、途端に顔を真っ赤にして怒ってみせる。
以前は、嬉しそうだった癖に。
その反応がなくなってしまったのは淋しいが、彼の怒りは羞恥からくるものだと知っている。
だからこそ、心地よくて嬉しくて微笑んでしまう。それを目にして少年は、また大きく目を見開いて顔を赤く染めたまま視線をそっと外した。
◆◆
目を開いて、ぼんやりと見慣れた天井に慣れた感覚で横たわる。何か続けて似た夢を見ている気がするのだが、どうにも記憶が曖昧だ。
ただ、アルベルタによく似た鳶色とワインレッドだけが印象深い。
時刻は、昼前十時を過ぎた頃。ぐっと伸びをして起き上れば、リビングのソファで転寝をしてしまったことを思い出した。
ヒューゴは、強張った体をほぐそうと伸びをして、けたたましいインターフォンに慌てて立ち上がる。乱れた服装を正す間に誰かが玄関を開けた。
「はい、こちらは葛城ですが」
深みのある声が聞こえてくる。アルベルタだ。綺麗に整えられた笑顔が脳裏に浮かび、彼なら大丈夫だろうと再び寝転がった。
脳裏によみがえる、もう色あせてしまった少年の笑顔。幼いながらも彼の表情はどことなくアルベルタに似ている気がした。
あの少年にしたように手を翳してみる。皺ひとつない綺麗な手だ。節ばった男らしいものだが、夢の中のような皺があるわけではない。
一体どうしてそんな風に感じたのだろうか。
夢は、記憶を整理しているとも聞く。あんな景色をどこかで見たのかもしれない。ビロードが貼られた席に座って揺れる箱の中で歓談する。
古臭い意匠だった。一体いつのものだろう。
考えているうちに対応が終わったらしい、ワインレッドの髪の青年がひょこっと顔を覗かせた。
アルベルタの手から受け取ったのは、小さな箱だった。
綺麗な装飾が施された木目の箱。掌からはみ出る程度の大きさで細長い。
蓋に取り付けられたガラスから見えるのは、円筒形の金属と櫛のようなものだ。
鈍い金色に輝くそれらに、以前どこかのテレビ番組で見たものを思い出す。
「ああ、オルゴールか」
「ええ、マリア様から英国のアンティークショップで見つけたとのことです」
通りで、箱の装飾が随分滑らかで古い。美しいものであることに変わりはないが、新品にはない味わい深さというものがあった。誰かが大切に触れていたのだろう摩耗しているとはいえ、それすら気品に置き換えられる。
「ああ、それと。先ほど届けてくださった方が仰ってましたが、窃盗犯がこの辺りで出没するそうですので、お気をつけて」
「わかった。この家に金目のものはないとは思うけど」
高校生一人ではなく、妙な格好をした男がいる。こんな家に入ることができるなら、窃盗犯はかなりの肝っ玉だろう。うんうん、と一人勝手に頷いた。そこに、ふと聞こえた声。
「……添い寝しましょうか」
思わずオルゴールを落としかけた。ヒューゴは努めて冷静になろうとしながら、爆弾発言をした青年の方へ顔を向ける。
「そのオルゴール、マリア様からの贈り物ですが、リュージュのロゴが入っておりますので、高級品となります。お手元に置いておくなら、私が寝室の警護をした方がいいかと」
そういう意味か。いや、驚いた。時折危ない発言をしてくる過保護な保護者は、生真面目にそう言ってくるのだから心臓に悪い。
主の判断を先回りしての箴言、有能であるとも言えるが、いかんせん言い方が悪かった。
「あー、でも、大丈夫だろ。気にすんなって」
これでも、男子高校生である。上背があり、柔道部に所属しているのだ。例え犯人が男だとしても問題ないだろう。念のため、枕元に金属バットを用意しておけばいい。
そうですか、と彼は微笑んだ。
◆◆
泣いている。あの青年が泣いている。
手にしているのは、見覚えのある装飾が刻まれたオルゴール。それを開いて、嬉しそうに微笑んで、そのまま涙を零し続けた。
燕尾服の向こう側にある唐草模様の壁紙と暖炉の火を眺めるふりをして、青年の美しい顔から眼を離した。胸中に渦巻く何かから逃れたかったのかもしれない。
お礼を伝える彼の言葉を耳にしながら、それでも贈ってよかったと胸を撫で下ろす。
お気に入りの作曲家に書かせた、彼の為だけの曲なのだ。気に入られなければ、あの作曲家に文句を言うつもりだったが、これは、感謝を告げなければならないだろう。
素晴らしい作品をありがとう、と。私の大切な人が泣いて喜んでくれたと最大級に褒め称えなければ。
◆◆
また夢を見た。
暗闇の中、天井があるだろうあたりを睨む。まるで音声のない映画を上映しているように色あせた、けれど現実味のある夢。
ついに、アルベルタと同じぐらいの背丈となったあの少年は、数日前に彼が受け取ったオルゴールを手にしていた。
まるで現実とリンクしているような展開に違和感を覚える。その上、段々とはっきりと夢の記憶が残るようになってきていた。日が経てば経つほど鮮明になっていく。
一体なんなんだ、これは。今もはっきりと思い出せる、涙が出るほど喜んでいた青年の顔。保護者となった彼によく似た誰かだとは思うものの、あまりにも似ていて別人とは考えられない。しかし、ヒューゴにとってアルベルタは二週間前に出会ったばかりだ。
今日は、もう眠れないな。はあ、と溜息を吐いてカーテンに手をかける。
青白い月明かりが一筋差し込んだ。滅多に見ない真夜中の満月。綺麗なそれに深夜ということも忘れて、ヒューゴは感嘆の声を上げた。
がこん。唐突に聞こえた、物音。
意外と大きいそれは、階下から響いてきていた。閉めた扉の向こう側、階下にはアルベルタが眠っているはずだ。彼が来てから夜にこんな大きな物音を立てられたことはない。
昼間の会話が自然と脳裏で再生される。空き巣の可能性に、唾を飲みこみ、立ち上った。そして、暗闇を見回して臍を噛む。そんなことになるとは思わなくて、結局、金属バットを用意していない。
「ア……」
下で普段寝ている青年を呼ぼうとして、慌てて唇を噛む。
今、下にいるのは妙な物音を出す、顔の見えない相手なのだ。いくら月明かりがあったとしても、カーテンを閉めた室内では、人数も分からない。
それでも、下には祖父母から紹介された保護者がいる。
部活の練習を思い出して、深呼吸をして気持ちを落ち着ける。よし、と気合を入れて私室の扉に手をかける。片手には分厚い辞書。本来の使い方とはかけ離れているものの、いざとなったら盾にも武器にもなる便利アイテムだ。
そろり、そろり。ゆっくりと階段を降りていく。足音はおろか呼吸音まで極力抑えて、一段ずつ。暗い中をどうにか目を凝らして足を運び、ようやく最後の一段。
がんっ。
ほど近い場所から何かがぶつかる音がした。と同時に、見知らぬ誰かの潰れた悲鳴が聞こえる。
続いて、何かを殴る音、物がぶつかる音、壊れる音。その中に、聞き覚えのある声を聞きとって、ヒューゴの足が動いた。
「アル!」
リビングの扉の向こう側、暗闇に紛れて誰かがうずくまっていた。
ともだちにシェアしよう!

