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3.アルベルタは嗤う

 アルベルタは、カーテンの隙間から一筋だけ差す光を目印に、暗闇の中でも難なく体を動かしていた。  ぎらぎらと月光を反射する鋭い刃物をいなして、相手の腕にまきつくようにしてナイフを奪う。アルベルタの手に移った刃物は、くるくると回転して白い手袋の中に納まった。 「な、なんだ……お前」  極力声を出さないようにしていただろう侵入者が、さすがに動揺を見せる。 「なにって、使用人です」  見えませんか、この恰好。そう言ってにっこり微笑むが、こうも暗いとまったく見えないだろう。ふふ、と嘲笑えば、見えないながらも察した男が顔を歪める。 「貴方、ご近所で噂になっている窃盗犯でしょう」 「それがどうした」 「いえ、迷惑なのでやめていただきたいのです」  近所の人間が不安だと、葛城家を預かる幼い主人に伝染するのだ。彼は、ああいって大丈夫だと笑っていたが、そうそう荒事に巻き込まれたくないだろう。  平和な日本においてそんな出来事に遭うことは少ないのだ、耐性もないに違いない。そこまで続けると、侵入者は鼻で笑った。 「そんなことで辞められたら世話ねェよ」 「そうですか。では、致し方ありませんね」  ひゅん。アルベルタは、今日の夕飯を確認するように平坦な声で微笑むと、男の首めがけて躊躇なく刃物を突き出した。  唐突な攻撃に男が一歩下がる。風を切る音と共に男へ近づいていく銀色の刃。  なんとか逃げていた彼の背中が固い物に当たる。部屋の隅へ追いつめられていたと、そこで初めて気が付いた。舌打ちをして、懐に手を伸ばす。  しかし、彼は握る前に顔を床に打ち付けることになる。足払いをかけられたのだろう、全く気が付かなかったおかげで全身が痛い。男は歯噛みする。  昼間、偵察した際は、微笑を浮かべた線の細いコスプレ男に後れをとるつもりはなかった。だが、今の状態はなんだ。全く手も足も出なかった。  ごっ、と肉がぶつかる鈍い音がした。と同時に男の身体がくの字に曲がる。暗い中、一筋の光が青年の鳶色にあたる。嘲笑うように細められた目が愉悦に歪んだように見えた。 「警察に突き出すだけで終えようと思ったんですよ、これでも。ですが、拒否をしたのは貴方です。そう、貴方なんですよ」  主人の家に無断で上がった挙句、私に与えてくださった大切なオルゴールにまで手を出すなんて。そんな大罪人の癖に。淡々とした深みのある声が、耳に滑り込む。  平坦すぎるそれが、怒りを内包していることは、誰の目にも明らかだった。言葉とともに繰り出される蹴りは、的確に急所を狙っている。見えもしない暗闇の中で、青年は執拗に暴力を加え続ける。 「ああ、そうだ。貴方にお返ししなければなりませんね」  ふいに影が差す。痛みに呻く男の目の前、ワインレッドの髪を揺らして鳶色が男の醜く歪んだ顔を映し出す。そして、彼の手に握られた銀色が小さく輝いて、振り上げられる。 「アル!」  全てが、止まった。入ってきたヒューゴの言葉が、執事の動きを止めた。  限界まで見開いていた男の目が、その瞬間を逃さなかった。  掴み損ねた懐の大型ナイフを振りかぶって狂人に突きたてる。頸動脈を狙ったそれは、狙い過たずに貫き、血飛沫をあげた。噴水のように飛び散って、男の顔にも青年にも降りかかる。  それぞれの動きが止まったように見えた一瞬の間。  ヒューゴの息を呑む音が背後から聞こえて、いち早く察したアルベルタは男をぎっと睨みつける。血が流れ落ち、白いシャツを染め上げていく中、変わらぬ眼光で拳を振るう。  その一番固いところが米神へ吸い込まれるように当てられ、男は転がる。  月光の最中、ちらっと見える口の端から泡が噴き出ており、完全に気絶したことを確認する。  ふう、と肩で息をついて、主人に向き直る。首筋に刺さったままのナイフに手をかけて抜き取ろうとして、ヒューゴが動いた。 「な、なにやってんだよ、抜いたらダメだろ」  血塗れのアルベルタの腕をとり、蒼白の表情で震える子で制止する。あり得ない事態が起こっているというのに。  目を丸くしたアルベルタに気付かず、どうしたらいいんだとおろおろしながら警察、救急車、止血と混乱したままに単語を呟いている。そのどれもが、自身への心配に固まっていた。 「ヒューゴ様、落ち着いてください」  軽くゆすって初めて彼の黒目が鳶色に合わせられる。そして、ヒューゴは気付く。  赤黒くなっていくシャツを着て首にナイフを生やしたままの青年は、そんなもの一切ないかのように普段通りだ。ハロウィンパーティーの仮装をしていると錯覚されるほどに。 「見ていてください。心配いりませんから」  手近にあったカーテンを開け放ち、その光の下に晒された首筋の傷を見せる。  醜い柘榴のようなそれに眉を顰める主人を見つめながら、アルベルタはナイフを引き抜いた。 「ッ――」  歯を食いしばった隙間から、ヒューゴの掠れた悲鳴が漏れる。  しかし、予想に反してアルベルタは平然と立ち続けていた。そして、傷口もまるで逆再生しているように塞がっていき、しまいにはもとから何もなかったかのような状態へと変わっていた。  シャツが黒くなっていなければ、傷があったとは思わないだろう。 「ほらね」  にっこりと微笑んでみせて、ヒューゴの間抜けな顔に近づく。主人のあんまりな表情に、思わず笑みが零れた。 「大丈夫って言ったでしょう」  鳶色の渦の中、ぐるぐると主張していた色がふっと掻き消される。今にも泣き出しそうなくしゃっとした笑みをのせて、夢ですよ、と言い放つ。変わらぬ反応に、アルベルタは肩をすくめた。  夢だから、早く寝てください。アルベルタは、自分に言い聞かせるようにそう囁いて、彼を元の部屋へ戻そうと背中を押した。その手を掴んだのは、アルベルタよりも体温が高い少年だった。 「あの、オルゴールを持っていたのは、アル、お前自身だったんだな」  鳶色の目が飛び出さんばかりに見開かれた。綺麗な色が、月光に照らされて、あの夢、いや記憶のように潤んでいるように見える。  ぽかんと開いた口は、先ほどまで無心に男を殴っていた青年とは思えないほど、普通の表情で、人間らしかった。  ヒューゴは、血染めの青年に構うことなく引き寄せて抱きしめた。腕の中の温もりは、人間の体温に似ているものの、やはり低い。 「ごめんな、待たせて」  血に汚れてしまった掌が、少年の背中に回る。縋るように握りしめられた。

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