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第1話 来る者拒まず、去る者追わず
『来る者拒まず、去る者追わず』
どこかの思想家の人が言ったらしい有名なフレーズ。
俺にとってはなんてストレスフリーな名言って思った。その思想家の人にしてみたら、そういう意味じゃないのかもしれないけど。
「は? また、翠伊ピ(すいピ)バイト代わりに入ったの?」
「仕方ないじゃん。ほら、駅まで送る」
インフルが大流行りしてて、急遽の休みが二名も出ちゃったらさ。ゲホゴホ咳しながら、飲食店で接客できないでしょ。俺はインフルかかってないんだし。
部屋を出ると冷たい風がびゅっと吹きつけてきて、途端に外に出るのが億劫に感じられる。
「すいピは無駄に優しい」
「無駄って。階段声響くから静かに」
「絶対に断らないじゃん」
口をへの字に曲げて、不満顔をしてる。
「この前あった飲み会の時もそう。あの情報科の女の子、送ってあげた時」
「それは」
「送んないでって言ったのに、仕方ないじゃんって」
そう言われてもさ。みんなと路線違うつって、寂しそうにしてたのに、ふーん、ってスルーできなくない? みんなはあっちだけど、私、こっちの路線の駅だから……って、ポツンと言われて、あっそうなんだ、じゃあねって言えちゃう方がダメじゃない?
「彼女の私が送んないでって言ったのに」
「……」
冷え切った階段の踊り場はマジで本当に寒くて、一時間もいたらきっと冷凍人間ができそうなくらい。そんな場所で、俺は「うーん……」って唸ったのが響いた。
けど、可哀想じゃん。
「あの子、翠伊のこと狙ってるって。付き合ってって言われたら、付き合いそう。いっつもどんなことも断らないから」
「それはないでしょ。レナいるんだから」
「……どうかなぁ」
不満顔を宥めながら、階段をひとつひとつ降りていく。その時、下から誰かが階段を上がって来る音が聞こえた。
「こんばんはー」
「……ば……んは」
同じマンションの、お隣さんだ。
ごくたまにすれ違うけど、真っ黒な髪がくるくるとしてて、俯いていて、顔までは見たことがない。声も小さくて。
俺の挨拶の声は階段の踊り場に響いたけど、そのすれ違った住人さんの声は小さすぎて、響くことすらなくて。
もしかして、存在してない人? って思っちゃうくらいだった。
来る者拒まず、去る者追わず、だ。
「は? おま、レナちゃんと別れたの?」
「んー」
大学の同じ学科の、大沢が、眉を上げて、どうしたどうしたって隣の席にどかっと座った。
――きっと、そこまでじゃないんでしょ?
あー……、って思って、それが出てたんだろう。彼女がムッとした。
――私が、付き合ってって言ったから付き合ったんでしょ?
まぁ。
――ほら、今だって、そう。返事なし。リアクション薄いっていうか、どうでもいいんでしょ? そのテンションがすっごいへこむの! 翠伊のそういうの優しいだけでさ。それって違う! じゃあね! バイバイっ!
「なんで? って、まぁ、お前のせいだろうな。レナちゃん人気なのに」
「んー」
「まさか! あの子、情報の、あの子に告られたから断らなくてっ! 二股!」
「そこまで適当じゃないから。彼女いれば断るよ」
「…………そのテンション」
付き合ってと言ってもらったので、付き合って。
今度は別れてと、バイバイって言われたので。
――……バイバイ。
そう答えた。
――! バカっ!
そしたら、バカと言われた。あと、ものすごく睨まれた。
――バイバイっ!
そんで、もう一回、きつく強く「バイバイ」を投げつけるように言われた。
それが今週の出来事。うちのマンションの階段踊り場くらいに冷え切った、冷蔵庫みたいに寒々しい大学校舎の一角で起きた、俺の新春一番の出来事だ。
「あったま、イッタ……」
新年会っていう名前がついた飲み会が連発。特に断る理由もなく、ハイハイとついていくこと……何連続飲み会? さすがに今日は一日、ゆっくりしてようと思った日曜日の朝。
「なんだっけ、こういう時、しじみ? の味噌汁がいいんだっけ?」
アサリじゃダメ? 似てない? 貝だし。あえてしじみなの? どうしてもしじみ? アサリの……スープじゃ、もう全然だめ? クラムチャウダーのインスタントなら、飲みたいとか言って、元カノが置いていったの、なかったっけ。
しじみの。
味噌汁。
じゃないとダメなのでしょうか。
アサリの。
クラムチャウダー。
じゃ、ダメですか?
そんなことをズーンって重く、アルコールに浸したまんま、まだ乾いてもいない感じの頭でぼんやりと考えてた。
完全二日酔いだな、と溜め息を落っことしてから、あぁ、今日一日、多分、昼過ぎくらいまでこんな感じにダルいんだろうなぁって。
このテンションで居酒屋バイトしんど。
誰か代わってくれないかな。いつも俺が代打で入ってるんだし。今日くらい……なんて。
外は……俺の頭の中にそっくりな色をした分厚い雲に覆われてる。
雪降りそう。
そしたら、今年初じゃん。
そんで、寒そう。
「…………」
降ったら、さすがにバイト休みにならない? って、神様のお願いをするように窓の外を見ようとした時だった。
何、あれ。
赤いの。
なんだろ。
ベランダに何か落っこちてる。赤い……布キレ?
「?」
何。
「…………」
ベランダを開けると、やばいくらいの冷気が大慌てで部屋の中に入り込んできた。それを押し除けるようにサンダルをつま先に引っ掛けることなく踏み石のごとく乗っかって、たったの一歩だけ外に出るとそのまま手を伸ばして、その赤い。
「…………すげ」
赤い、エロい。
「……」
女物の下着を。
「……マジ?」
拾った。
すげぇ、何これ、えっろ。
総レース。そんで、でかい真っ赤な花が刺繍であしらわれてて、刺繍だから? 立体感があるようにすら見える。
風で飛んできた?
どっから?
「…………」
俺の部屋、このマンションの最上階。四◯ニ号室。このマンションの東向きの部屋。
つまり、ここより高い位置には部屋がない。下から、舞い上がって、ここに不時着もありえるだろうけど……。
お隣の南向きはおじーちゃんとおばーちゃんが住んでる。
「…………うーん」
まぁ、おばーちゃんがこれ履いてても、いーけどさ。個人の趣味とやかく言うつもりないし。でも、可能性はゼロじゃないけど限りなく低くない?
「……」
え、じゃあ、これって。他、北と西向き、それぞれのとこって誰だっけ。
じゃなくて。これ、どーするか。
管理人さんに……って、今日、土曜じゃん。管理人さんいないし。そもそも管理人室、ないし。管理人さんはいるけど、平日の午前中にパパッと仕事してどっかに行っちゃう感じ。たまに遭遇する程度。その人に渡す? 月曜日? それまで預かっとく? えー、それはちょっと微妙かと。
「……」
でも、これ、捨てるとかはダメでしょ。
じゃあ、掲示板のとこ?
んー、けどこれこのままそこに落ちてましたってするのは……俺が捕まりそう。
あ、茶封筒? とかに入れて、落ちてました、四階ってしたら、四階の人が確認する程度なんじゃん? そうすれば、いいじゃん。茶封筒を引き出しから引っ張り出して、えっろい真っ赤な下着を入れて
「ひゃっ!」
玄関開けたところに、人、がいた。
「あ」
真っ黒な髪の、前髪長くて、くるくるで。あんま顔見えないけど。
真っ赤なほっぺた。
「ぁっ……ぁ」
この人。
「あの、何か」
「洗濯物! 飛んじゃって」
「え?」
これ? けど、これ、真っ赤なエロい。
「下、」
「は! はい! はい! はい!」
首、飛んじゃいそう。
「す、すみませんっ、すみませんっ、すみませんっ」
そのくらい何度も何度も、ヘドバンみたいに頭を下げながら、俺が茶封筒を差し出すと、世界を揺るがす国家重要機密でも入ってるみたいにぎゅっと必死に両手で抱えた。
「すみませんっ!」
そんな大きな声、あんま出さないんだと思う。ひっくり返りそうな声で、お礼を言って、大慌てで隣の玄関へ飛び込んで帰って行った。
四◯一。
北向きの部屋に住んでる、人、だった。
「……どう、いたしまして」
エロい、下着を、真っ黒な癖毛がくるくるとしてて、どこか犬っぽい、あとそのくるくるな髪のせいで顔が見えない、お隣さんが、持って帰ってった。
お隣さんの、男、だった。
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