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第1話

薄い水色の便箋は、どこかあの日の空を思い出させた。 あれからずいぶんと長い時間が流れたけれど、これだけは言える。あのときの一日一日、一瞬一瞬は、まるで春の嵐のように激しく扇情的で、そして二人とも愚かなほど命がけだった。 あんな時間を過ごすことは、もうこれから先の人生で二度とないだろう。 ただ今は、静かな気持ちで時々こうして遠いあの日々に思いをはせる。 水色の便箋に青いインクで書かれた最初の二文字。この言葉の響きに長い間、囚われ続けた。 ときに甘く切なく、ときに呪いのように残酷だったこの言葉。 今はただ、ひたすら懐かしいだけ。 『先生、お久しぶりです。お元気にされていますか?』 窓から吹き込む風が一枚の薄桃色の花びらを運んできた。 こんな日は、少しばかり思い出の旅に出てみようか……、あの日の、そう、君に会いに……。 眠れない夜は、羊を数える。 でも、それは普通の人の話で、(じん)の場合は違う。 迅は眠れる夜でも羊を数える。子どもの頃からの習慣だ。 まるでそれは魔法だった。メェメェ、メェメェ、モコモコの羊の群れが現れてもみくちゃにされながら、あっという間に眠りに引きずり込まれる。 それなのに……。 柔らかいはずの春の木漏れ日が、光のナイフのように目に突き刺さる。 「昨日は羊を五千匹も数えてしまった……」 桜並木の途中で立ち止まり、頭上を仰いだ。 春爛漫。桜満開。 寝不足だが心地良い緊張で頭は冴えている。 心海迅(しんかいじん)。二十三歳。長年の夢が今日、叶う。 迅の夢、それは……、 学校の先生になること。 迅は胸を張り、大きく足を踏み出した。 なだらかな桜並木の坂を上ったところに、県立城青(じょうせい)高等学校はあった。 正門の奥に佇む校舎は静かで、門の脇に植えられた桜の木からときおり、はらりはらりと薄い桃色の花びらが散っていた。 今日から迅は教師としての第一歩を踏み出すのだ。うわずる心をなだめるようにゆっくり深呼吸をすると、スーツの襟を正した。 ぽとり。 蝶の羽音ほどのわずかな音が耳元で聞こえた。何気なくに首をかしげると、もぞもぞと肩で黒い毛虫が蠢いていた。 「うわぁぁぁぁぁ」 慌てて肩を激しく揺さぶったが、毛虫の方も振り落とされまいと必死だ。なりふりかまわずジタバタ暴れていると、どこからか笑い声がした。まるで小鳥がさえずっているような澄んだ声だった。 「じっとしてて、取ってあげるから」 その声は、今の迅にとってまさに天の救いだった。 肩を木の葉ではたかれるような軽い感触がした。 「もう大丈夫だよ」 「ありがとうございま」 振り返りざま、手のひらで蠢く毛虫が目に飛び込んできて、迅は飛び退いた。 「うわぁぁぁぁぁぁ」 「そんなに嫌わないで、毛虫だって一生懸命生きてるのに」 声の主は、桜の枝にそっと毛虫を放した。 「足のない虫と、足の多すぎる虫は苦手なんだ」 毛虫は細い枝を伝い、薄桃色の花びらの中に消えていった。 「あなた新しい先生? かっこいいのに毛虫が怖いなんて、なんか可愛い」 また小鳥がさえずるような声で笑われて、迅は声の主に目をやった。それまで毛虫しか見ていなかった迅は、はっと息をのんだ。 薄い桜の花びらみたいな子だった。肌の色が透けるように白く、〈儚げ〉という言葉を人で体現したような、一目で見る人の心を虜にする不思議な雰囲気をまとった、そう、とても魅力的な子だった。 次にその子が〈彼〉だと気づき迅は驚いた。彼が身を包んでいるのは、この学校の男子生徒の制服だった。 女性でもなかなかこれほどの美人はいない。 そのとき、大きな風が吹いた。桜の木がいっせいに花びらを撒き散らす。青い空に薄桃色の花びらがきらめきながら舞うその光景は幻想的だった。春風がどこまでも花びらを運んでいく様子に思わず見惚れる。 気づくと彼の姿がなかった。辺りを見回したが、どこにもいない。 白昼夢でも見ていたのだろうか? だとしたら彼はさながら桜の精か? 彼の儚げな美しさは、迅にそんな少女趣味な発想を起こさせた。 「そうなのか?」 迅は桜に向かって問いかけた。桜は沈黙したまま迅を見下ろしていた。
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