41 / 689
16
視覚障がい者の方のみならず――こうしたハンディキャップを持っている方は、あまり人に、過剰に気遣われたくないという人もいると、僕は聞いたことがあった。
そりゃああくまでも、そうであったとしても、彼らだって自立した一人の人だ。――だからといって僕らが親切心を抱きすぎれば、あるいはお節介に感じることもあるだろう。
とはいえ、初めてこのカフェに訪れたこのお客様には、店内の構造はわからないはずだ。――たとえその白杖で障害物を避けられるとしても、どこにそのソファの角席があるのかまでは、きっとわからないことだろう。
そう僕なりに考えての提案ではあったが。
とはいえ、人の感覚はさまざま、迷惑な老婆心となっていなきゃいいが…――そういう思いを裏に持ちつつも、それでもこのお客様を気遣いたいと僕は、「貴方の手を引いて、僕が席までご案内いたしましょうか」と、ソンジュさんへと恐る恐る提案してみたのだ。
するとソンジュさんは、
「…それは有り難い。お願いしてもいいですか。…」
と…その口調こそ淡々としてやはり無感情的であったが、ソンジュさんは僕の提案にすぐ、その左手を差し出してきた。――よかった、迷惑ではなかったようだと、僕は良いことをした自分に酔って安堵した胸をあたたかくし、明るい声で「はい、では失礼いたします」と答えた。
そして僕はその声かけの通り、大きく、なめらかな象牙色の皮膚に覆われている彼の手に触れた。――その手を下からすくい上げるように持ち、そして足下を念入りに見ながら「動きますね」と彼へ慎重に声をかけた。
そのときソンジュさんは、「ええ」と返事しながら、僕の手を優しく握ってきた。やはりあたたかい手だった。
そうして僕は、テーブルや椅子の脚なんかと、ソンジュさんの茶色い革靴を履いた足元とを念入りに確認しながら、ゆっくり歩いて彼を角のソファ席へ案内した。
ただ正直、僕にはこのときにも懸念があった。――こういうのは手でよかったんだっけ、肩じゃなかったか、声かけは失礼じゃなかったか、なんて、そう一人でグルグル考えていたのだ。
ちなみに彼は、自分でも白杖の先端を使って地面を探りつつ歩いていた。――ただそれは幸い、ソファ席にたどり着き、ソファの下の方にぶつかるまでは何にも当たらなかったが。
「…どうぞ、こちらがお席です。」
「どうもありがとう。…優しいんですね」
そしてソンジュさんは、たどり着いたソファに背を向け、おそらくはふくらはぎの感覚から察したそこへ、ゆっくりと腰を下ろした。――そして僕は、そこまでご案内できた彼にひとまず安心して、自分の手を引いた。
「いえ、とんでもありません。…ご注文は…おっ、…」
が――ソンジュさんは、なぜか僕の手を掴み、グッと強く引いてきて離さなかった。…その力は凄まじく、僕の上半身がぐらりと傾いたほどだ。
そして面食らった僕に対し、彼はやはり飄々としていた。――その顔はなんとなく僕を見上げているふうに、僕のほうへ向いていた。
「…ブレンド、ホットで。」
「…あ、か、かしこまりました。…ぁーと、ほかに何か…、あ、メニューを読み上げましょうか…」
メニューを見られない方だとわかっていた僕は、そもそもそのつもりであったのだが、…ソンジュさんは僕がそう言うまでもなくブレンド(ホットコーヒー)を頼んだ。
「…いえ、それは結構です。…」
「そ…そうですか、ではごゆっくr…」
引き上げよう、と――いや、引き上げたかったが、やはりソンジュさんは、僕の手を離してはくれなかったのだ。
僕がごゆっくりと言う前に、彼はこう続けた。
「…ただ、ほかに注文がありまして…」
「…あぁ、はい?」
正直に白状すると…――実は僕がこのとき考えていたこと、それは、自分の腰に巻いたエプロンのポケットにある伝票を急ぎ取り出したはいいものの、自分の右手をこの男性に捕らえられているせいで注文がその用紙に書けないんだよな、ということだった。
僕は今のこの状況に身を堕としてからというもの、人に対する性的な警戒心がだいぶ薄れているのだ。――きっと以前の僕ならば、もちろんこのソンジュさんへ嫌悪感と警戒心を抱いていたことだろう。
それはたとえ自分が男性であろうとも、またその体躯が大きいほうで、たとえパッと見ではオメガ男性に見えなかったとしてももちろん、自分がオメガであるということを念頭に、こうして手を離してもらえない、なんて状況に対して、以前なら当然僕もきちんと危機感を覚えていたはずだ。
ただ、今となってはもはやその警戒心などなく――妙なことに気持ち悪いとさえ思わず、お客様のご注文が自分の頭だけで暗記できる品数だったらいいけど、という程度の思考しかなく。…我ながら今となれば、自分のその意識に足 り な い も の をうっすら自覚してはいるところだが。
とにかく、そのときの僕は完全に仕事モードであった。
男性の声は女性の声よりも低く聞き取りにくいため、控えめな音量とはいえ、このカフェの店内で流れているジャズミュージックに紛れて注文の品を聞き逃してしまわないように、と――ただ僕は、お客様であるソンジュさんの声に集中し、耳をそばだてていた。
で、――僕はソンジュさんに、こう注 文 さ れ た のだった。
「貴方の手を見せてくださいませんか。いえ、私は目が見えませんので、こ の 手 で」
ともだちにシェアしよう!

