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「ふっ…そう難しく考えずともよいではないですか。」
「…まあ、そうですね…、…」
言われてみれば確かに、そう難しく考えても仕方のないことだろう。――少なくとも僕には、この変わった人の思考回路なんて、考えてもどうせよくわからないのだ。
そして、ソンジュさんは何かしみじみとした、穏やかな声でこう続ける。
「…ユンファさんの手は、あのときから冷たかった。――少し湿ってもいましたし、おそらくは、テーブルか何かを濡らした布巾で拭いていたのでしょう。」
「…ええ、そうです…、…」
いや…そういえば僕はあのとき、テーブルを拭いていた布巾をどうしたんだったか。――何分ぼんやりとしていたあとに酷く焦ってしまったので、あるいは床に落としたか、別卓のテーブルに置き忘れてしまったかもしれない。…そんなふうに思考を別に飛ばしてしまった僕は、続いたソンジュさんの言葉にハッとした。
「――誰よりも優しい手でしたよ。…一生懸命働いて身をやつし、精神を極限までもすり減らして…それでいて、見ず知らずの他人へも心配りができる…そうした優しく高潔な心を宿す、ユンファさんの手は、たいへんあ た た か い 手 でした。」
「……、…」
いや、あんなの…――僕にしてみれば、あれは本当になにげない気遣いのつもりだったのだ。
目が見えず、いくら白杖という障害物を認知して避けるための道具を持っていたとしても、やはり初めて訪れたカフェの店内の構造なんかわからないだろうし、という、障がい者の方への正しい接し方など学校で習ったきり、それも明確には思い出せずよくわかってはいないような僕が、せめて思い付く限りで気遣いそうした…という、本当に僕にしてみれば、ただそれだけのことだった。
それを、そこまでの特別な温情、というように捉えられるとは、思ってもみなかった。
僕は意外な展開に目が回りそうだが――一方のソンジュさんは、その若々しい熟れた果実のような唇を、やわらかくたわめている。…彼、大分変なことを言っている自覚はしていなさそうだ。
「…それに、貴方の手には何か、強い信念を感じました。とても力強く、勤勉であり、また気高く…今の苦境を乗り越えようともがき、それでいて、あえて人に従うことで賢く生き抜いている。――しかし本当は…魂までは誰にも売り渡していない。…ユンファさん、本来は貴方、その実プライドは高いほうだったのでは?」
「………、…」
ドキ、とした。――見抜かれている。
「…いえ、それも踏まえて私は、ユンファさんの手を本当に美しい手だと思ったのです。――優しく、強く、たくましく気高い…貴方の高潔な魂を表したその手は、本当に、特別お美しい手ですよ。…」
ソンジュさんはそこまで言うと、後ろのソファの背もたれへ自分の上体を預けた。――とはいえ背筋を伸ばしたまま、とん、と軽く背に背もたれを当てるような感じだ。
「…ふっ…、どうやら私の言葉を、貴方はお疑いのようだが…」
「…………」
僕は今彼に言われた言葉たちに呆然としている。
なんとなく、見抜かれた、とドキリとはしたが――とはいっても正直、大げさだ。
褒め殺しのようなものである。――そうやって僕を褒めそやして、いったい何になるというのだろう。…どうしてソンジュさんは、そこまで僕を褒めるのだろう。
「まあいいでしょう。――ですから、ユンファさん…?」
「……、…」
なにげないつもりなのか、何かの意図があるのか、歩み寄ろうとしているのか、あるいは僕を騙そうとしているのか。――僕にはわからない。
ソンジュさんのように声色だけで人の感情を読み取ることも、あるいはささいな音ばかりで、人が何を着ていて、どういう行動をしているのか…そんなことがわかるわけでもない僕は、またうつむいた。
「私が思うに…――先ほどはああ言いましたが…、…」
「…………」
僕の目は見えていても、ソンジュさんには見 え て い る こ と が、僕には見 え な い のだ。
「貴方は決して、そこらへんによくいる性奴隷のオメガなどではありません。…」
「………、…」
そう言われても…――どうしたらいいか、わからない。
なんて答えるのが正解なのかも、どう思うことが正解なのかも、――自分の感情の正解すら、今の僕にはもうわからないのだ。
「…私にとってユンファさんは、どこか神聖な人のような気さえするのです。――貴方は本当にお綺麗だ。…私はユンファさんのことを、もっと見 て み た い 。…」
「……、…ソンジュさんの恋人か、もしくは配偶者の方は、本当にお幸せでしょうね…――正直、綺麗なのは貴方でしょう。…手にしても、何にしても……」
やっと出てきた僕のこの言葉には、嫌な響きがあった。
人が嫌になりそうなほどの卑屈なものであり、また、会話として成り立たないものでもある。ただ、それらは僕がすべて意図して言ったことだ。――もちろん、ソンジュさんの配偶者に対する嫉妬などではない。
「…何のおつもりなのかはわかりませんが、僕なんかをそうやって褒めちぎっても、ふっ…本当に、何も出ませんよ…、…」
我ながらせせら笑ったような、嫌な笑いだ。
僕はソンジュさんに綺麗だとか、美しいだとか、優しいだとか、そんなふうに褒められるたび、自分の劣等感を抉られるようだったのだ。――だから僕は、「きっと貴方には配偶者の方がいらっしゃるんですから、僕なんかをそうやって口説くように褒めちぎるのはやめてください」と、このセリフで伝えたつもりだった。
あんな褒め殺しのロマンチックな言葉たちを、さっき初めて会った性奴隷のオメガにスラスラ言えるソンジュさんは、よっぽど手慣れている。
彼を構成する要素は、どれを取っても人に好かれるようだ。…いったいどれほどの人が、このソンジュさんに惚れたことだろうか。
彼の恋人は、本当に幸せだろうなとは思う。
羨ましいのではない。――ソンジュさんの恋人になりたいわけでもない。…どこか、テレビの中のおしどり夫婦を見てそう思うような感覚である。むしろ今の僕は、恋人がほしいとさえ思っていない。
まあもしかしたら、出会ったのが今日でなければ、あるいは僕だってソンジュさんに惚れてしまったのかもしれない。――それくらいには見目麗しくスマートで、ロマンチックな言葉がスラスラ恥ずかしげもなく言える、そんな彼は間違いなく格好良い人だ。――いうなれば、王子様、というのに似つかわしい人なんじゃないだろうか。
エイレン様に好かれて守られている人とは、まさにソンジュさんのような人のことである。
エイレン様のご加護がある人は、こうして卑屈に、人の好意的な言葉を素直に喜べず、ただ冷めた気持ちでそれらを眺めている――間違っても、僕のような人ではない。
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