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「……、すみませんユンファさん…、タバコ、吸ってもよろしいですか」
そう聞いてきたソンジュさんに、僕は「ええ、どうぞ」と静かに返して、テーブルの上にある、白い灰皿を軽くソンジュさんのほうへと引き寄せ、彼の目の前へと移動させた。
「…とにかく…私から二点、ユンファさんにお伝えしたいことがあります。…」
「…はい…?」
そう仕切り直したようなソンジュさんへ、何だかやけに疲れてとろんとした意識のまま――いや、泣いて話して、近頃は殺そうと努めていた感情をフル稼働させて表に出したのだから当たり前か――、ぼーっとしつつも僕は彼へと、おもむろに顔を向けた。
目線を伏せているソンジュさんは、トレンチコートのふところに右手を突っ込み――そこから取り出した黒革のタバコケースの蓋の金ボタンを、片手の親指の爪でパチンとはじき、開けながら。
「――ユンファさんの借金は、今日中に私がすべて返済いたします。」
それは強い調子であった。――そして、彼はかなり流暢な動作で、ふっとタバコケースを軽く振り、黒い紙巻きタバコのフィルターを一本はみ出させては、それをその血色の良い唇に触れさせる。
「…え…っ?」
僕は目を瞠り、驚いているのだが――タバコはそのままに、ソンジュさんは僕をその水色の瞳で神妙に見て、小首をかしげた。
「というか…あれだけご無理を強いて、かなり詳しくお話しいただいたあとでは、まったく…大変恐縮ながら…――。」
「…………」
ソンジュさんはそのまま僕の目を神妙に見つめ、事もなげに淡々として、こう言葉を継いだ。
「――その実私は、“DONKEY”のそ れ ら 違 約 金 に関しましてはもう、今朝に支 払 い 済 み なのですよ。…」
「……、…はっ?」
まっ…――待ってくれよ、は…っ? 何、何言って、
僕はここ最近で一番目をかっぴらいて驚いている。
…のだが、一方のソンジュさんは「ちょっと失礼。」と何食わぬ顔で銀のオイルライターのフタをカシャリと開け、ボッと灯ったライターの火で、その咥えたタバコの先を炙っている。
そして、すーっと吸い込み――それから、僕からは顔を背け、下のほうへと紫煙を吐き出したあとソンジュさんは、改めて僕にその端正な顔を向け。
「…ですから――ユンファさんはもう今日付けで、“ D O N K E Y ” の 従 業 員 で は な く な り ま し た 。…」
「……、…っ、…っ?」
なに、ちょっと、いや、さすがに、――理解が全然追いつかない。…どうも嘘を言っているようではないソンジュさんは軽く目線を伏せ、タバコを咥えたままに、またトレンチコートの内側をまさぐっている。
そして彼、僕のほうへすっと――一枚の紙を差し出してきた。…受け取って、見れば。
「……、…、…」
それは…――僕が『DONKEY』との契約期間中に退職した際に発生する違 約 金 五 百 万 円 を、ソ ン ジ ュ さ ん が 支 払 っ た という、“支払い証明書”だった。
「…っ? ……っ??」
しかも、僕は二重で驚いている――。
なぜなら――そこには、『支払者:クジョウ・ヲク・ソンジュ』と書いてあったのだ(達筆、しかも九条のハンコ付き)。
「…ふーー……」
今もふーっとタバコの煙を吐き出している、このソンジュさんが、――九 条 、の 人 …っ?
「…っ?? ……っ???」
嘘だ、く、――クジョウ…クジョウって、あ の 九 条 っ?
いや、間違いないのはそうか…――そうしたヤ マ ト 王 族 の 子 孫 で あ る ア ル フ ァ には、この“玉 ”というミドルネームが付くのだ。
そしてソンジュさんは、何か少しだけガッカリしたように目線を伏せて、首を傾げている。
「…うーん…てっきりユンファさんには、こ の こ と で泣くほどお喜びいただけるかと思っていましたが…、実に、そうでもなさそうですね。――正直、意外な反応でした。」
「……ぁ、…ぁ…、は…っ?」
よろ、喜びとか、そういうの以前に、――僕はある意味でかなりパニクっている。
ソンジュさんは灰皿に、タバコの灰を落とし――やや思案顔をして固まると、…ほとんど吸ってもいないそれの先を、白い灰皿に押し付けて…火を消した。
そして、ふっと笑いながら顔を伏せると――再び僕に、その心得顔を向けては。
「…というのも…私はぜひ、ユンファさんを自 由 の 身 にして差し上げたいと思いましてね。――言ったでしょう…? 私が全 然 な ん と か し て 差 し 上 げ ま す 、と…」
「――……、…」
“自由の身”…――喉から手が出るほど、僕はその自由が欲しい。…欲し、かった。
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