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「…………」
僕がケグリ氏の性奴隷となったこと、ましてやあんな“性奴隷契約”をケグリ氏と僕が交わしたことどころか、僕が限りなく脅しに近い方法でケグリ氏に結婚を迫られていることも――僕の両親は、まさか何も知らない。
自分たちの借金をケグリ氏に返すため、僕がこうしてケグリ氏にいやらしい仕事をさせられていることなんか、彼らは何も知らないのだ。――ときおりかかってきていた電話口では僕も言わなかったし、ましてや、ケグリ氏だってそんなことを言えるはずもないことだろう。
正直、そのところは信頼している。
僕の両親なら、たとえ自分たちが自己破産しようがなんだろうが構わないと怒って、もう全額借りた金は返すから、そんなことならユンファを返せ、と言ってくれること。――そして、僕の両親がそういう人たちであることを、父の十年来の友人であるケグリ氏はよく知っているため(が、つまり僕の父を騙したのだから、もはやそう呼ぶのは無理があるもののだ)、彼は僕に「お前がみじめな性奴隷になっていることを、父さんたちに言うぞ」なんてしばしば言ってはいるが、…まさか僕の両親に、ケグリ氏がその真実を言えるはずもないのだ。
やはり、どうやらソンジュさんは賢い。
彼は、その点をもズバリと見抜いていたらしく――スマートにトレンチコートの懐から、また黒革のタバコケースを取り出しつつ、ソンジュさんは。
「…私は構いませんよ。私みずからユンファさんのご両親のほうへ出向いて、こ の 件 を申し出ても。――貴方と違って、私には何もやましいことなんかありませんから。…ただ、まずは彼のご両親に、ユンファさんが貴方の性奴隷であることを、事細かに説明せねばなりませんがね。」
「…っこ、困りますよぉ、それはぁ……」
焦っているケグリ氏はソンジュさんに対して手もみし、媚びるほうに方向転換したようだ。――というか、“性奴隷契約”は普遍的にや ま し い こ と であり、何よりケグリ氏とやっていることは同じではないか。…まあ狡猾なところのあるソンジュさんは、仮に本当にその展開になっても、どうせそのあたり僕の両親には上手いこと言うんだろうが。
「…そうですか…? ふっ…まあこの場でこ の 交 渉 を呑んでいただけるのなら、私がわざわざそうする必要もありませんけれど。…」
「……いやしかしぃ…ユンファはですねぇ、これでも大事な従業員で…、なあユン…」
僕に振り返り、同調をしろと求めてきたケグリ氏の目は、ヘラヘラしている笑顔のわり威圧をかけてくるように鋭い。――しかし、ソンジュさんはそのさなかに。
「あぁそうだ…、失礼。事後報告となってしまい大変申し訳ないのですが…――勝手ながらもうユンファさんは、例の“DONKEY”の従業員ではありません。…」
「………、は…?」
やや遅れてから理解したか、ゾッとしたような顔をソンジュさんに戻したケグリ氏は、媚びるように丸めた腰も、手もみしていた手も凍り付いたように固める。
「…デリバリーヘルスというのは、思いのほか便利なシステムで運営されているものなのですね。いやはや、24時間、いつでも店が開いているとは…――ということで今朝、ユンファさんの代理人として、辞職願いを届けてきました。」
「…………」
パチリ、とタバコケースのフタを開け、ケースを軽く振り、トン、とまた黒いタバコを一本はみ出させながらソンジュさんは「ちなみに違約金のほうも全額支払い済みですので、その点はご心配なく」と言い捨ててから、タバコのフィルターをその朱色の唇でそっと咥えた。
代理人…というか――別に僕は、ソンジュさんに頼んだわけではないのだが。
「……、……」
ケグリ氏はいよいよ蛇に睨まれたカエル状態で、ポカーンとしながら固まっている。
「…ですので、何ら問題はないかと。――彼はもう“DONKEY”には出勤しなくてよいわけですし、もちろんこの店が人手不足であるのなら、私のほうで代わりの従業員は派遣いたしますよ。それに…ユンファさんが今現在背負っている借金は私が、この場ですぐに、全額お返しいたしますので。…」
「…ぃゃ…」
「では逆に…いったい何が問題なのですか? 借金がなくなれば…――つまりユンファさんは、こ の 店 で 働 く 理 由 も な く な る のではないかと、私は考えていますが。…違いますか、ケグリさん。」
「……、…」
僕はドキ、とした。
こ の 店 で 働 く 理 由 が な く な る …――ソンジュさんのその言葉に、僕は表面上静かながらもかなり期待して、その実胸が踊ってしまっている。
もしかソンジュさんのおかげで、僕は自由に、なれるかもしれない…と――。
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