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             ソンジュさんは自分が見下ろしている、僕の足の裏をそっとその大きな手で持ち上げ。   「…それにしても…ユンファさんの足は白くて大きい、とても綺麗な足ですね。足までお美しいな…、…」   「…ぁ゛…っ!」    ソンジュさんは不意に、僕のその靴下と靴の跡が残った足の甲へ、ちゅっと口付けてきた。――突然のことで、もはや汚いですから、とも言えなかったものの僕は、慌てて足を引いて逃げた。  しかしふふ、と不敵に笑ったソンジュさんは、僕のその思いを察したようで。   「汚くなんかありませんよ。甘くて良い匂いですし、むしろ、信じられないくらい綺麗な足だ……」    そうボソリと言い――そっと僕の素足を下ろすと、今度は僕の、もう片足に手をかける。  彼、やっぱり…足フェチの人なんじゃないだろうか?   「…………」 「…ユンファさんは、思わず俺なんかがかしずき、キスをしたくなるような綺麗な()()()を持ってらっしゃるのだと、ぜひご自覚なさるべきですよ……」   「…ぁ、はあ……」    ()()()。…そんなワード、リアルで言う人を初めて見た。――これでマゾじゃなかったら逆に、彼はやはり空想上の王子様というほかないだろう。   「……ふふ…、なぜそう、貴方は…俺の褒め言葉を、素直に受け取ってくれないんだろうな……」   「…………」    少し、色っぽい。――その象牙色の大きな手、整った爪が優しく動く様が、…――上からの光に陰ったまぶたのくぼみ、伏し目がちのその切れ長の美しい目、生え揃った長めのまつ毛、上から見る高い鼻先が。   「…………」   「…………」    優雅にやさしく、僕のスニーカーを脱がしてくださる…その、鷹揚(おうよう)な手つきが。――色っぽい、のは、事実だ。    でも、僕がその甘い褒め言葉を、素直に受け取りたくても――受け取れなくしているのは、ソンジュさんだ。    する…と脱がされた僕のスニーカー、床に膝を着いたソンジュさんの隣に置かれたそれ…――彼はもう片足の、僕の黒い靴下も先ほどと同じように、するりと優しく、足に引っかからないよう丁寧に脱がしてゆく。   「……、…」    ついぼーっと眺めている。――夢を見ているような気分だ。…僕はついさっきまで、ケグリ氏にいつものように身も心ももてあそばれていた、…性奴隷。    それが今は、美しいソンジュさんにひざまずかれ、靴や、靴下を脱がせてもらっている。――それも、こんな夢のような場所で。…高級で良い匂いのする、広い玄関で。…大理石の床に着いた右足の裏が、ひんやりとして気持ち良い。――靴を脱ぎ、靴下まで脱いだ開放感に、僕の両足がまるで浮かんでいるようだ。    それに…疲れている僕の足を、優しく撫でてくれるその綺麗な手が…――くすぐったいような、気持ち良いような…妙な感覚がして、彼の指が、手のひらが触れる場所が…ソンジュさんの体温が、少し熱い。   「…そこまで、なさらなくとも……」    駄目だ。――駄目なんだ。馬鹿。   「…優しく、しないでくださいと、言いましたよね…――どうしてこんなに…僕に優しくしてくださるんですか」   「…………」    ソンジュさんは、それに何も言わなかった。  ソンジュさんは…絶対にモテる。なぜこんなに優しく、気遣いのできる人だというのに――いや、こんな美青年で、お金持ちのアルファ、家柄も良く、どこを取っても非のないような人が、どうして。   「ソンジュさんは、なぜ()()()()()を作らないのですか」    愛することができるのなら、本当に人を愛すればいいじゃないか。――愛しているふりではなく、心から愛する人を愛すればいいじゃないか。   「…………」   「…こういうことは、本当に…心から愛している人にしたほうがきっと、いいと思いますが…」    契約上の、一週間だけの、偽物の恋人である僕にこれほど優しくできるというのなら、ソンジュさんは本当に好きな人が恋人になったとき、もっと素晴らしい愛を注げる人になれるに違いない。――()()()()()()――そして、そうした本物の恋をしたほうがきっと、作品にも活かせる実りも多く、またより良い甘いものにもなるはずだ。   「…きっとそのほうが、貴方も…貴方に愛される人も、本当の意味で幸せになれるかと思います」    僕はソンジュさんを見下ろす。――彼はぼうっとした、虚ろな顔を伏せたままだ。   「…偽物の恋人の僕なんかにここまで尽くしたって、虚しいだけだと思いませんか」   「……ユンファさんは、俺の心が読めるのですか。」    ソンジュさんは真顔のまま、低くそう僕に尋ねてきた。何か僕の言葉に反発するようだった。――僕はもちろん彼の心が読めるわけではないので、「いえ」と顔を横に振った。   「…よかった。――それは何よりです。」   「………、…」    そしてソンジュさんは顔を上げると、僕の真剣な眼差しで見据えてくる。   「いくら契約上の恋人であるとはいえ、――偽物の恋人という認識では困ります。…一週間という期限付きであっても、貴方はいま俺の、()()()()()なのですから。」   「……、はい、ごめんなさい…」    僕は何か反発するように、謝った。  僕を見上げてくるソンジュさんは、弱気な色をその美しい濃茶の眉に滲ませている。   「…ユンファさんも…できましたら、一週間の期間中だけで結構ですので…――俺を愛するように努めてみてください。…もちろん、無理にとは言えませんが…」    どこか切ない顔をして、そうしっとりとしたささやき声で言うソンジュさんは、顔を伏せる。   「…わかりました…」   「……、……」    彼はまた僕の左足を裏からそっと掲げ持ち、持ち上げて…僕の青白く筋張った足の甲へ、その血色の良い、艶めかしい唇を押し付けた。ふにゅ、と柔く濡れた感覚は一瞬にして――チクン、と今度は強く吸われた僕の足の甲の皮膚に、そうした少し鋭い感覚が訪れる。   「……ッ」    びく、と僕の脚が足首から跳ね、――唇を離したソンジュさんは、…青白い足の甲に浮かんだいびつな丸い血の色を、親指の腹でそっと、かすめるように何度も撫でてくる。そして彼は、僕の足を見下ろしながら何か、イライラしたような低い声で。   「優しくするな…? 嫌です。…無理ですよ、そんなこと…俺はやっぱり、ユンファさんに優しくしないなんてことはできない。――なぜここまで優しくするのか、というのはね…俺が、()()()()()()()()です。…」   「……、…」    そう言ったソンジュさんは、すっと立ち上がりながら――先ほど脱がせた、僕の黒くよれた靴下をまとめて片手に、肩をひょいとすくめると横目で、僕をその水色の意味深な瞳で見やってくる。   「…それに俺は、優しいわけではないのです。…優しい男が許可もなく、人の足にキスマークなんか残しません。そうでしょう、ユンファさん」   「…………」    それこそ、僕こそ、それにはさあ、と首をかしげたい話だ。…僕にはよくわからないのだ。  そもそも優しさとはなんなんだろうか。――単にいえば人への気遣いか。  そして、その優しい行動に見返りを求めていようがいなかろうが、優しさは優しさか。――では、いつしも優しさにともなう概念…偽善と善の境い目は、いったいなんだろうか。  たとえばエゴイズムで見返りを前提に、人に優しくすることが偽善ならば、見返りを求めず、心の底から誰かを助けたいと思う気持ちが、善…――だろうか。    ソンジュさんは()()()()()()()()僕に優しくする、そうだ。  つまり…僕が――“恋人契約”を結んだだけの…表向きばかりの恋人だから。    そう思っていた僕に、ソンジュさんは僕の目を見て、笑った。   「…ただ、俺がエゴイストであることのほかに、なぜユンファさんに、俺が優しくするのか…その理由は、その実もう一つだけあるのですよ。…それをもの凄く、わかりやすく言えば…――」   「…………」    ふ、と伏せられた――寂しげな、スッとした切れ長の、美しいまぶた。影が落ちた、その美しい目元。     「――ユンファさんのことを、俺は愛しているから…好きだから、です。…ふふ…」      そう自嘲的に笑ったソンジュさんは腰を屈め、床まで伸ばした腕で、黒一色の玄関マットの上に並んでいるスリッパの一足――薄紫色のシンプルなもの――を、揃えて僕のほうへと置いてくれた。   「…ふふ…まあそう聞いても、貴方はきっと信じてはくださらないことでしょうね。…そんなことより、さ――部屋の中へ入りましょうか。…どうぞ」   「……、あ、ありがとうございます…、…」        僕が、好きだから。  僕を――愛しているから。      ドキドキと激しく波打つ僕の心臓――それは嬉しいのではない。ときめいたのでもない。むしろこの心臓の響きはいやに重たい。  漠然と、僕は怖くなっているのだ。――疑問が僕を、脅してくる。       

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